序章 弟が誘拐された日
弟がいなくなった日の記憶は曖昧だ。
まだ幼かったというのもあるが、私が眠っていたのも大きい。
あの秋晴れの日、私は三時におやつを食べた。すぐに眠くなってきて、その場で昼寝を始めた。
隣には双子の弟、清吾もいた。私と背中合わせに横になっていた。
私達がいたのは屋敷の南東にある和室だった。古い日本家屋だ。縁側があって、まぶしい西日が差し込んでいた。障子が影を作っているところは畳が適度にひんやりとして、とても心地よかった。ちょうどいい暖かさで、昼寝にはもってこいの気候だった。
どのくらい眠ったのだろう。
一時間以上は寝ていたはずだ。
私がかすかに覚えているのは、誰かの足音を聞いた――ような気がする、ということだった。
何者かが近寄ってきて、清吾をさらっていったのだ。
床が立てた「キシッ」という音と、家庭菜園から漂ってくる堆肥の臭いだけは、なぜか鮮明に思い出せる。
覚醒した時、すでに大人達が大騒ぎしていた。
「清吾がいない――」
「木戸が開いている――」
「セントーが死んでいる――」
様々な声が入り乱れていた。
私の横には、使用人の娘である松谷由希が座っていた。私より三つ年上だから、当時まだ七歳。年の割にとてもおとなびた女の子だった。
「竜吾くん、しばらくここから動いちゃだめだからね」
そんな風に言われたはずだ。
やがて家の電話が鳴り響いた。
犯人から電話がかかってきたのだ。
相手は、清吾の身柄と引き換えに一千万を要求してきたという。
我が日守家の経済力なら、支払えないこともない額である。
取引には母が赴くよう指示があった。警察は連れてくるなとも。
身代金の用意をしたのは父だ。彼は次の電話を受けるため、屋敷に残らざるを得なかった。
警察はできる限りの偽装を施し、出かけていく母を監視した。
しかし結局、犯人は取引場所に現れず、清吾が戻ってくることもなかった。
それから七年が経過し、清吾は戸籍から抹消された。
母は病気でこの世を去り、父は精神を病み、私は大学へ進むため家を離れた。
日守の家庭は完全に崩れ去ったのだ。
清吾はどうなったのか。
生きているのか、とっくに死んでいるのか。それを知っているのは、犯人だけだ。