17 鎌倉ダンジョン 〜最初の試練と見えざる罠〜
ひんやりとした空気が、俺たちの肌を刺す。ダンジョンの入り口を一歩踏み入れると、外の明るい陽射しは嘘のように遮られ、世界は一気に薄暗い闇と、湿って黴臭い土の匂いに支配された。足元はぬかるんでいて、時折、獣の骨のようなものが転がっているのが、ぼんやりとした光る苔の明かりに照らされて見える。
天井は高く、鍾乳石がまるで巨大な獣の牙のように無数に垂れ下がり、壁からは絶えず冷たい水が染み出し、独特の閉塞感と圧迫感が肌にまとわりつくようだ。カラン、コロン、と雫音が落としそうになった杖を慌てて掴む音が、やけに大きく響いた。
「……ここが、鎌倉ダンジョンか」
俺は『雷迅刀』を抜き放ち、周囲を警戒する。耳を澄ませば、どこか遠くで水滴が落ちる音と、正体不明の獣の低い唸り声のようなものが反響し、不安を煽る。
「燎兵、マッピングと索敵、頼む。颯季は俺の少し後ろ、雫音は燎兵の隣、俺が一番前だ。合宿通りに行くぞ」
「了解した。データパッド起動。マッピング開始。周辺50メートルに動体反応なし。ただし、このダンジョンは魔力の流れが不安定で、複数の属性が混じり合っている。瘴気のようなものも感じるな。注意が必要だ」
燎兵が、腕につけたデータパッドを操作しながら冷静に答える。彼が懐から取り出した九影さんにもらった護符が、微かに光を放っているように見えた。
「りょーかい! 先行するね! 怪しいとこがあったら、すぐ知らせるから!」
颯季は『疾風双刃』を構え、音もなく闇の中へと溶け込むように先行する。その動きは、まるで影そのものだ。
「は、はいっ! 援護、頑張ります!」
雫音も、胸に下げた護符をぎゅっと握りしめ、杖を構え直した。その瞳には、まだ不安の色はあるものの、以前のような恐怖だけではない、確かな決意が宿っていた。
俺たちは、燎兵の指示と颯季の索敵を頼りに、慎重にダンジョンを進んでいく。しばらく進むと、最初のモンスターに遭遇した。ゴブリンが三体。棍棒を手に、奇声を上げながら襲い掛かってくる。
「ゴブリン三体! 前回のデータ通りだ! 雷牙、正面の一体を! 颯季、左から回り込め! 雫音、右のゴブリンに《ウォーター・ショット》!」
燎兵の指示が飛ぶ。
「おう!」
「まかせて!」
「はいっ!」
俺は、正面のゴブリンの剣を『雷迅刀』で弾き返し、体勢を崩したところに蹴りを入れる。颯季は壁を蹴って三角飛びをし、左のゴブリンの背後を取り、クナイで首筋を狙う。
雫音は、もう迷わない。放たれた水の弾丸は、正確に右のゴブリンの顔面にヒットし、その動きを止めた。連携は、ゴーレム戦の時とは比べ物にならないほどスムーズだった。あっという間に三体のゴブリンを無力化し、俺たちは最初の戦闘を難なく乗り越えた。
「よし、いい感じだ! この調子なら、楽勝かもな!」
颯季が明るく言う。その言葉には、確かな手応えを感じている様子がうかがえた。
だが、俺たちが安堵のため息をつく間もなく、通路の奥から、さらに複数の影が現れた。さっきまでのゴブリンよりも一回り大きく、装備もいくらかマシなようだ。
「……ホブゴブリン一体、ゴブリンメイジ一体、そしてゴブリンファイターが二体! 厄介な構成だぞ!」
燎兵が、即座に敵の構成を分析し、警告を発する。
「へっ、上等じゃねぇか! 合宿の成果、見せてやるぜ!」
俺は、少しばかり高揚していた。
「颯季、まずメイジを潰せ! 詠唱される前に奇襲をかけろ! 雷牙はホブゴブリンの足止め、絶対に後衛には行かせるな! 雫音、ファイター二体の動きを《アイシクル・ショット》で鈍らせてくれ! 僕が全体を支援し、必要なら攻撃も加える!」
「了解! あんなチビメイジ、あたしが一瞬で黙らせてやる!」
颯季が、言葉通り風のように駆け出し、呪文を唱えようとしていたゴブリンメイジの懐に飛び込む! 『疾風双刃』が閃き、メイジは悲鳴を上げる間もなく沈黙した。
「やるじゃねぇか、颯季! 俺も負けてられねぇ!」
俺は、ホブゴブリンの振り下ろす巨大な棍棒を『雷迅刀』で受け止め、その衝撃に耐えながらも一歩も引かない。
「こいつは俺が引き受ける!」
「は、はいっ! 凍てつく刃よ! 《アイシクル・ショット・連射》!」
雫音が、冷静に、しかし力強く杖を振るう。数発の氷の矢が、素早い動きで迫ってくる二体のゴブリンファイターの足元や関節を的確に捉え、その動きを著しく鈍らせた。
「見事だ、雫音! そのまま圧力をかけ続けろ! 雷牙、ホブゴブリンが強引に突破しようとしている! 体勢を低くして、カウンターを狙え!」
燎兵が、的確な指示と共に、自身も《鬼火》を放ってホブゴブリンを牽制する。
俺は、燎兵の言葉通り、ホブゴブリンの薙ぎ払いを低く屈んで避け、がら空きになった胴体に『雷迅刀』を深々と突き刺した!
「グギィィィ!」
という断末魔と共に、ホブゴブリンがどうと倒れる。残ったファイターたちも、動きの鈍ったところを俺と颯季で挟撃し、難なく仕留めた。
「……やった! やりましたね、皆さん!」
雫音が、興奮したように声を上げる。
「へへーん! あたしたち、結構イケるじゃん!」
颯季も、誇らしげに胸を張る。
「……ふむ。合宿の成果は確かに出ているな。連携精度は格段に向上した。個々のスキルも安定している」
燎兵も、珍しく称賛の言葉を口にした。俺も、強敵相手に見事な連携で勝利できたことに、大きな手応えを感じていた。最初のチェックポイントも、この調子ならすぐに通過できるだろう。
その頃、俺たちより数十分先行している『アビス・クロウズ』は、計画を実行に移していた。彼らは、正規ルートから外れた、薄気味悪い横道へと続く分岐点にいた。
「……ククク、ここだ。ここなら、奴らも疑うまい」
忌部呪々(いんべじゅじゅ)が、薄暗い岩陰に手をかざし、『道標の呪い』を施す。
「正規ルートよりも、ほんの少しだけ『楽そうな近道』に見えるよう、微調整しておいた」
「まあ、わたくしの『誘引香』も、その手助けをしますわ」
蝮沼桔梗が、怪しげな紫色の煙を燻らせる小さな香炉を取り出し、『大蜘蛛の谷』へと続く道へとその香りを流し始めた。
「今頃、谷はお腹を空かせた子供たちでいっぱいになっているはずですわ」
「よし、仕掛けは済んだな! 早く行こうぜ!」
と鬼塚轟。
「落ち着け、轟。我々は、あくまで『偶然』通りかかるのだ」
煉獄院凶魔が制す。
「呪々、霧の呪符は?」
「……ククク、抜かりはない。谷の入り口に、数枚仕掛けておいた。奴らが踏み入れた瞬間、視界も、方向感覚も、そして希望も……全てが失われるだろう」
四人は満足げな笑みを浮かべると、再び闇の中へと姿を消した。
そして、何も知らない俺たち『四聖幻舞』は、上位種ゴブリンとの戦闘での勝利に気を良くし、順調なペースでダンジョンを進み、やがて、その運命の分岐点へと、確実に近づいていたのだった。第二チェックポイントを通過した俺たちは、少し開けたホールのような場所で、束の間の小休止を取っていた。
「はぁー、疲れたー! でも、なんか思ってたより楽勝じゃない? さっきのホブゴブリンたちも、結構あっさり倒せちゃったし!」
颯季が、水筒の水をゴクゴクと飲み干しながら、ケラケラと笑う。
「うん、ここまで順調だな。前のチーム……『アビス・クロウズ』だったか? あいつらが結構派手に戦ってくれたおかげか、道も分かりやすいし、モンスターも思ったより少ない気がするぜ」
俺も、壁に残された斬撃の痕跡や、焦げ跡を見ながら言った。あの禍々しい連中も、先行パーティーとしては役に立ってくれているらしい、とこの時はまだ思っていた。
「は、はいっ! 私も、ちゃんと魔法を当てられるようになってきました……! この護符のおかげか、なんだか魔力が安定する気がします」
雫音も、嬉しそうに胸の護符を握りしめている。
「油断は禁物だが、データ上は想定内のペースだ。先行パーティーの痕跡を追えば、大きく迷うこともないだろう。だが、各自、装備の再チェックと水分補給は怠らないように」
燎兵は、データパッドを確認しながらも、冷静に注意を促す。
短い休憩を終え、俺たちは再び歩き始めた。しばらく進むと、道は二手に分かれていた。
「ふむ、ここで道が二手に分かれているな」
燎兵が立ち止まり、データパッドと壁に刻まれた古い地図らしきものを見比べる。
「正規ルートとされているのは、右の通路のようだ。だが……左は、明らかに距離が短い。それに、先行パーティーの残した戦闘痕跡、そして微弱な魔力の残滓が、明らかに左に向かっている」
燎兵の分析に、颯季がすぐに反応した。
「えー! じゃあ左行こうよ! 近道だって! 前のチームもそっち行ってるんなら、安全なんでしょ? さっきのゴブリンたちも倒せたし、今のあたしたちなら大丈夫だよ!」
「そうだな……。わざわざ危険な道を選ぶ理由もないだろうし、前の奴らが行ってるなら、まあ、大丈夫なんじゃねぇか? 少しでも早く進みたいしな」
俺も、さっきの勝利で少し気が大きくなっていたのかもしれない。
「わ、私も……なんだか、左の方が……少しだけ、空気が澄んでるような……楽に進めるような気がします……」
雫音が、少しぼんやりとした表情で呟いた。その声には、確信というより、まるで何かに引き寄せられているような、奇妙な響きがあった。
「……分かった。では、左ルートを進む。だが、警戒は最大限に引き上げろ。何かがおかしい。僕の直感がそう告げている」
燎兵は、何か腑に落ちないような表情をしながらも、俺たちの意見を尊重し、左の道へと進路を取った。
俺たちは、何の疑いもなく、その薄暗い横道へと足を踏み入れた。それが、狡猾な『アビス・クロウズ』が仕掛けた、破滅への入り口だとも知らずに。
しばらく進むうちに、俺たちは、ダンジョンの雰囲気が明らかに変わってきたことに気づき始めた。不気味なほどの静寂、壁には粘つくような太い蜘蛛の巣、そしてどこからともなく漂う、むせ返るような甘ったるい腐臭。
「……ねえ、なんか変じゃない?」
颯季が足を止めた。
「さっきからモンスターに全然会わないし、この匂い……なんか、ヤバい感じしない?」
「確かに……妙だ」
燎兵も険しい表情で周囲を見回す。
「この匂い……何かの生物が発するフェロモンか……? データパッドの魔力センサーにも、微弱だが不自然な反応がある。それに、マッピングデータと実際の地形に、僅かなズレが生じ始めている……! 正規ルートではない……! まさか、誘導されたのか……!?」
「わ、私も……なんだか、空気が重くて……息苦しいです……!」
雫音が、不安そうに胸を押さえる。
「それに、お父様からいただいた護符が……少し、熱を持っています……! 何か、よくないものが近づいているような……!」
その言葉に、俺の背筋にもゾクリと悪寒が走った。
「……まずいな。ここは、正規ルートじゃないかもしれねぇ! 全員、警戒しろ! 何か来るぞ!」
俺が『雷迅刀』を構え直し、全員が戦闘態勢に入った、まさにその瞬間だった。ザワ……ザワザワ……。壁や天井から、無数の、何か硬いものが擦れ合うような、不気味な音が聞こえ始めた。そして、俺たちが進んできた道と、これから進むべき道の両方から、濃い、白い霧が、まるで生き物のように流れ込んできたのだ。視界は急速に奪われ、仲間たちの姿すら霞んでいく。
「な、なんだ、この霧は!?」
「視界が……! 燎兵、雫音、どこだ!?」
「キャッ!」
「うわっ!」
霧は、ただ視界を遮るだけじゃない。吸い込むと、頭がクラクラし、方向感覚がおかしくなっていく。
「まずい! これはただの霧じゃない! 皆、しっかりしろ! 互いの声だけを頼りに、離れるな!」
燎兵が叫ぶが、その声すらも、霧の中でくぐもって聞こえる。
ザワザワ、ザワザワ……。無数の、不気味な音は、確実に、俺たちへと近づいてきていた。
俺たちが『濃霧の呪符』と『誘引香』の罠の中で方向感覚を失い、混乱している頃――ダンジョンの少し離れた高台、岩陰から、四つの影がその様子を嘲笑うかのように見下ろしていた。『アビス・クロウズ』だ。
「……ククク、見事だ。面白いように罠にかかってくれたな、『四聖幻舞』の諸君」
忌部呪々が、薄気味悪い笑みを浮かべながら双眼鏡を覗いている。
「あの霧は、僕の自信作だ。視界を奪い、方向感覚を狂わせる。それに、微弱な魔力妨害効果で、『シグナル・リベレイター』の精度も格段に落ちるはずだ」
「まあ、わたくしの『誘引香』も、良い仕事をしてくれているようですわね」
蝮沼桔梗が、うっとりとした表情で、霧が立ち込める谷底へと視線を送る。
「あの甘美な香りに誘われて、今頃、お腹を空かせた麻痺毒大蜘蛛が、うじゃうじゃと集まってきているはずですわ」
「これで奴らも終わりだな! まとまって蜘蛛の餌にでもなればいいぜ!」
と鬼塚轟。
「フン、せいぜい、恐怖に泣き叫びながら、絶望の淵に沈むがいい」
と煉獄院凶魔。
「我々は、もう少しここで高みの見物を楽しむとしよう。奴らが完全に弱りきった頃合いを見計らって、『救助』に向かってやれば、我々の評価はさらに上がるだろうからな」
一方、俺たち『四聖幻舞』は、まさに地獄の真っ只中にいた。
「くそっ、前が見えねぇ! 燎兵、颯季、雫音! 無事か!?」
俺は『雷迅刀』を握りしめ、必死に声を張り上げる。霧はますます濃くなり、数メートル先すら見通せない。
「雷牙! こっちだ! 声を頼りに集まれ!」
と燎兵。
「雫音、大丈夫!? 手、離さないでね!」
と颯季。
ザワザワ…シャカシャカシャカ……。霧の奥から、無数の何かが近づいてくる、嫌な音が聞こえる。蜘蛛の足音だ。それも、一体や二体じゃない。
「このままじゃ、ジリ貧だ! まずは、このクソみてぇな霧を何とかしねぇと!」
俺は叫んだ。
「燎兵! なんか手はねぇのかよ!?」
「この霧は、単なる水蒸気ではない。微弱だが、明確な魔力を含んでいる。だが、爆発的な熱量を伴う風を一気に発生させ、この霧を瞬間的に吹き飛ばすことができれば……あるいは……!」
「どうやるんだよ!?」
「僕の持つ最も強力な火の呪符を数枚、同時に起爆させる。だが、それだけでは指向性が足りない。……颯季!」
「な、なに!?」
「君の風の力を借りる! 君が風を巻き起こし、僕の呪符の爆炎を、巨大な熱風の渦としてこの空間全体に拡散させるんだ! 雫音、雷牙は、その間、僕たちを全力で守ってくれ! 何が来ても、だ!」
「りょ、了解! やってみる!」
「おう、任せろ!」
「は、はいっ!」
燎兵が懐から呪符を取り出し、印を結ぶ。颯季がその場で高速回転を始め、強風を巻き起こす。俺と雫音は、背中合わせになり、迫りくる見えない敵に全神経を集中させる。
「――五行相生、火は風を呼び、風は火勢を増す! 急急如律令! 爆炎符、連鎖励起! ――喰らえ、『業火旋風』!!」
燎兵が呪符を投げ放つと同時に、颯季が巻き起こした風がそれに合わさり、次の瞬間、凄まじい爆音と共に、灼熱の旋風が俺たちの周囲で荒れ狂った!
ゴオォォォォォォォッ!!
熱い! 息が詰まるほどの熱風が、濃霧を飲み込み、吹き飛ばしていく! 俺たちは、その場に必死で踏みとどまる。数秒間続いた灼熱の嵐が収まった時、あれほど濃かった霧は、嘘のように綺麗さっぱりと消え去っていた。
「……やったか!?」
俺が目を開けると、視界はクリアになっていた。だが――。
そこに広がっていた光景に、俺たちは言葉を失った。
霧が晴れた「大蜘蛛の谷」。その名の通り、そこは巨大な谷底のような空間だった。そして、その壁、天井、地面……視界に入る全ての場所に、おびただしい数の、巨大な蜘蛛がうごめいていたのだ。大きさは、小さいものでも子犬ほど、大きいものは小型の馬車ほどもある。
赤黒い甲殻、無数の複眼、そして鋭い牙からは、絶えず毒液が滴り落ちている。
数えることすらできないほどの、麻痺毒大蜘蛛の群れ。
その全てが、一斉に、俺たち『四聖幻舞』へと、その禍々しい視線を向けていた。
「……嘘、でしょ……」
颯季の掠れた声が、静まり返った谷底に虚しく響いた。
霧は晴れた。だが、それは、新たな、そしてより絶望的な悪夢の始まりに過ぎなかった。
ご一読いただきありがとうございます!
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