第159話 退職後、"ゼロ"からの日々
「ゼロから始める現実生活」は、
退職後に直面する“リアルな不安と希望”を描く導入回になります。
──目が覚めた。
目覚まし時計は鳴らない。
スマホの通知も、今日に限っては驚くほど静かだった。
(ああ、今日から……)
会社員じゃなくなった初日。
それは、誰も待っていない朝だった。
スーツに着替える必要もない。
「遅刻だぞ」と怒られる心配もない。
代わりに胸を締めつけてくるのは、
妙な焦燥感と、手放したはずの“重圧”だった。
(……オレ、本当に辞めたんだな)
異世界から戻ってきて、現実の世界に違和感を覚え、
気づけば、勤めていた会社を辞めるという決断をしていた。
そのときの自分に、嘘はなかった。
だけど。
いざこうして“自由”を手にした今、
健太郎は布団の中で、漠然とした不安と対峙していた。
(……これから、どうする?)
会社という“所属”を失ったとたん、
世界との接続がぷつりと切れたように感じた。
誰かに認められる場もない。
明確な目的地もない。
毎月振り込まれていた給与さえ、もう存在しない。
「これが……ゼロか」
呟く声は、どこまでも空虚だった。
でも、それは始まりの証でもあった。
健太郎は、枕元の“黒いノート”を手に取った。
異世界で手にした、自由を生きるための記憶の遺産。
ページを開く。
そこには、5つの力の言葉が静かに並んでいた。
「貯める力」
「稼ぐ力」
「増やす力」
「守る力」
「使う力」
──まずは、何から始めるべきか。
答えは、師匠の声が教えてくれた。
『水のない井戸では、畑は育たん。
でも、せっかく水を貯めても、底が抜けてたら意味がない。
まずは“漏れ”を止めるんや』
つまり、“支出”を見直すこと。
貯める力──ここが第一歩だ。
◆
午後。健太郎は、自分の財布を開いて中身を見た。
レシートの山、よくわからないポイントカード、
どこで何を買ったかも思い出せない現金の減り。
それが、今の自分の“現実”だった。
(まずは、把握するところからだ)
家計簿アプリをインストールし、
過去のクレジット明細を確認し、
生活費をノートに書き出していく。
──驚いた。
「意外と、無駄が多い」
食費、通信費、保険、サブスク、交際費……
ひとつずつ精査し、固定費の“ムダ”を切り落としていく作業。
面倒な作業なのに、なぜか心が軽くなっていく。
不思議だった。
でも、たしかにそこに「主導権」が戻ってきたからだ。
会社に命じられて動く毎日じゃない。
オレが、オレの人生を“管理”しているという実感が、
この小さな作業の中にあった。
◆
夜。
今日だけは外食せず、久しぶりに自炊をした。
冷蔵庫の奥で眠っていた食材を使い切り、
鍋ひとつで簡単にできる味噌汁と焼き魚。
手間はかかったけど、なんとなく満ち足りていた。
節約って、ガマンすることじゃないんだな。
“選んで使うこと”なんだ。
風呂上がり、ノートの新しいページに一文を書き足す。
『自由に生きる力は、見えないところから育っていく。
まずは、自分の足元を整えるところから』
その文字を見つめながら、健太郎は深く息を吸い込んだ。
不安はまだある。
収入も、明確な道も、ない。
けれど──
「ゼロってのは、“何もない”って意味じゃないんだな」
“何にでもなれる”ってことだ。
静かな夜。
遠くで風が吹いたような気がした。
異世界で感じたあの風に、少しだけ似ていた。
数日後、
誰にも責められない静かな日。
だけど、心の中ではずっと警報が鳴りった。
(やばい……このままじゃ、金が尽きる)
銀行アプリを開くのが怖い。
残高を見ても、増える気配はない。
そして“給料日”という言葉が、もう自分に関係ない現実に変わっていた。
ふと頭をよぎるのは、クレジットカードの引き落とし日。
家賃、水道光熱費、スマホ代──次々と迫る支払いたち。
(あと何ヶ月、持つんだ?)
焦燥。恐怖。
目に見えない敵に追い詰められるような、息苦しい日々。
異世界で魔物と戦ったときより、よほど怖い。
そんな中、健太郎は“あるキーワード”を思い出す。
「……失業保険?」
退職のとき、総務から渡された厚紙の書類。
その中に確かにあった。
【雇用保険被保険者離職票】──その言葉を、あのときは深く考えなかった。
「いや、まさか……そんな都合よく支援なんか──」
半信半疑でハローワークの公式サイトを開いてみる。
スマホでスクロールしていくうちに、見つけた。
■失業給付(基本手当)について
正当な理由で退職した被保険者は、
条件を満たすことで所定の日数分の給付が受けられます。
──そこに、金額の目安があった。
【月額:およそ12〜15万円程度(年齢・条件による)】
【給付日数:90日〜150日】
「……えっ、マジで?」
その瞬間、肩の力が抜けた。
もちろん、豪遊できる額じゃない。
でも、“すぐに詰む”と思っていた不安が、少しだけ遠のいた。
(何もせずに浪費してたらダメだけど──)
(時間を確保しながら、立て直す“猶予”はあるってことか)
その日、健太郎はようやく家計簿アプリをまともに開いた。
残高と支出、保険の条件。
そして、次の動きを考えるためにノートを開く。
ページには、あの文字が並んでいた。
「貯める力」──その第一歩は、“恐怖を可視化すること”。
敵の正体を知れば、戦い方が見えてくる。
明日、健太郎はハローワークに行く。
雇用保険の申請手続きをしに。
異世界では、国を建てる前に“村の安全”を整えたように。
現実世界でも、“足場”を固めることが最初の仕事だった。
『自由に生きるには、まず“安心”を確保せよ』
ノートに、そう書き記した。
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