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あなたの可愛さをたたえて

作者: ペンのひと.

 伯爵令嬢ヘレナには、可愛さが足りなかった。

 彼女の死後、多くの女がそういう意味のことを言った。


「気の毒だけど、ヘレナ嬢には可愛さが足りなかったのよ。あれじゃあポッと出の可愛い男爵令嬢に婚約者を奪われたって無理もないわよね」

「そうねそうね、ヘレナはたしかに有能だったけど、けして可愛くはなかったわ」


 十七才の春を目前に、ヘレナは亡くなった。

 侯爵令息に婚約を破棄され、純潔を裏切られた直後に。

 馬車に轢かれての事故死だったが、それが偶然によるものか、それとも婚約破棄を苦にヘレナ自ら馬車道へ飛び込んだのかは不明のままだ。


 ヘレナは生真面目な娘だった。

 父親は伯爵位ながら宮廷財務官に重用され続けたダン伯爵である。

 父に似て、彼女もまた数字に強く、経理・財務分野で活躍する将来を嘱望されていた。


 倹約家庭のダン伯爵家にあって、長女に生まれたヘレナは早くからまるで堅実な秘書のようですらあった。

 家計簿も会計帳簿も、彼女は見事に管理した。おかげで家令を雇う必要すらなく、その分の経費もずいぶん浮いた。


 御産死した母に代わって、ヘレナは妹の面倒もよく見た。

 十も年の離れたその妹モニカを、彼女はいつも溺愛していた。

「私の可愛いモニカ」

 そう口にして小さな妹を抱っこするとき、ヘレナは他ではけして見せない微笑みに顔をほころばせた。

 妹がすっかり姉になついたのは言うまでもない。



 ヘレナが十六の年のはじめに、縁談が舞い込んだ。

 宮廷勤めの父ダン伯爵が、エギル侯爵家の跡取りとの縁組を仰せつかってきたのだ。

 エギル家といえば、王都の華々しい社交界に幅を利かせる富豪。

 だがその反面、湯水のように金を使って中小商会を牛耳るやり口が貴族間で槍玉にあがらないでもない。


 エギル侯爵家にとってみれば、ここらでお堅い宮廷財務官の娘を娶るのは悪くない選択だ。自分たちが金に物を言わせるだけの無鉄砲な資産家ではないと、多少なりとも周囲に印象付けることができる。貴族にとって、見栄というのは金や人脈と同じくらいには価値があった。

 むろん、ダン伯爵家とすれば上位貴族からの申し出を断る理由も権利もない。

 家同士の思惑と事情が一致しての、婚約成立だった。


 しかし、当のエギル侯爵令息ハメスは不満たらたら。

 彼はヘレナと添い遂げる気などありはしなかった。


「金にも恋路にも不自由したことのない僕が、どうしてあんなつまらない女を相手にしなきゃならない? 化粧っ気もなし、いつも安物の地味で無難なドレス、それが皆ご存じのヘレナ嬢だろう? お利口なだけの退屈な女。あいつと僕の共通点なんて、ただ同い年ってだけじゃないか。やれやれ、親の機嫌取りも楽じゃないよ」


 婚約当初からハメスは王立学院の友人たちにそう言ってみせた。

 その友人の一人である、年下の可愛い男爵令嬢アイリーンの気を引きたかったのもある。

 彼の試みはうまくいき、浮気がアイリーンの妊娠によって両親さえ認めざるを得ない公然のものとなったタイミングで、ヘレナに婚約破棄を突きつけた。


「悪いけどさ、ヘレナ。君ってつまらないんだ。だってちっとも可愛くないんだもの」


 馬車に轢かれて死を迎える瞬間、ヘレナがどんな思いでいたのか。

 それは誰にもわからない。


 当時、まだ七才にも満たなかった妹のモニカにも、とうてい知りようのないことだ。

 


        ♢



「私の可愛いモニカ」


 ダン伯爵令嬢モニカは、いつも姉にそう呼ばれて育った。

 大好きな姉が亡くなってしまうその日まで。


 姉のヘレナと自分の容姿に、さして違いはない。

 ダン伯爵家系に特有の、薄灰の縮毛と細い鼻筋、一重まぶた。

 モニカにとってはむしろ、姉ヘレナこそが憧れの女性だった。


 宮廷財務官たる父伯爵の期待をわずかも裏切らぬ、経理・財務の才。

 質素倹約の家風に従順な、控えめで清楚な居住まい。

 数理の学業成績は常に学院トップ。

 何より、妹の自分をいつも優しく抱きしめてくれるあの聡明な微笑み。

 

 けれど、婚約破棄の直後にこの世を去った姉ヘレナについて、うわべの同情を示しこそすれ陰で嘲笑する者は少なくないようだった。

 そのような人たちは、声をそろえて言う。

 ヘレナは可愛くなかったから、まあ仕方ない、と。

 化粧っ気もなし、いつも安物の地味で無難なドレス、お利口なだけの退屈な女。

 婚約者を可愛い男爵令嬢に奪われても、文句は言えなかったのだ、と。

 

 現に、姉ヘレナに婚約破棄を突き付けたエギル侯爵令息ハメスは、男爵令嬢アイリーンとの真実の愛を誓う宴席で友人たちにこう漏らしたという。

「そりゃあ気の毒ではあるさ、ヘレナ・ダンのことはね。でも、しょうがないだろう? つまらないんだ。お堅いだけで、可愛くなかったんだよ、あの娘」


 姉ヘレナの死からしばらく、モニカは口がきけなくなってしまった。

 比喩的な意味ではなく、まったく声が出せないのだ。

 そのかわり、涙もまったくでなかった。ただのひとしずくも。

 けっきょく数年間そんなパニック状態は続き、そしてなんのきっかけもなく終わった。


 それからモニカは決めた。

 可愛い、とは何か。

 その意味を探そうと。


 ようするに、モニカが出した結論とはこのようなものだった。


 私は欲しい。欲しがりな妹だ。

 お姉様が叶えられなかったものすべてが欲しい。

 何もかも、私がかわりに叶えるのだ。

 だからこそ、そう。

 私は可愛さを学ばなくてはならない。

 妹たるもの、可愛さを知らなければ。



        ♢



 キュメール洋裁店。

 王都で五指に入るドレスメーカー・ブランドであり、可愛さの殿堂とうたわれる本店である。

 その門をモニカが叩いたのは、十五才の春のこと。

 もっと早くにそうしたかったのだが、父ダン伯爵の説得に時間がかかった。

 とはいえ、理屈を超えたモニカのかたくなさに最後には父も折れたけれど。


 アポイントは無し。

 慌てる従業員の制止も聞かず、らせん階段をスタスタと上り三階のディレクター室に押し入った。

 そしてモニカは言った。


「こちらで働かせてください。どんな仕事でもします」


 さて当然、これはちょっとした騒ぎになった。

 平民の奉公娘ならまだしも、あのダン伯爵令嬢モニカが洋裁店へ雇い入れを乞いに来るとは。そろそろ縁談かという年頃の貴族のお嬢様が、まさかお針子でもやろうというのか?

 父の役職と姉の死によって、モニカは界隈でそれなりに名が知れている。

 執務机から顔をあげたキュメール夫人が、丁重にこう諫めたのも無理はない。


「何かのご冗談でしょう、モニカ・ダン様。ここは洋裁店、ドレスメーカーです。ドレスを新調する時以外、あなたのような方が訪れる場所ではありません。ましてや下働きなど……。お引き取りください」


 キュメール夫人は忙しかった。デザイナーである夫は老いがたたって療養中であり、跡取りの一人息子は隣国首都の芸術学院へ行かせている。

 この宙ぶらりんの状況を、ディレクターとしてどうにか切り盛りしていく必要があるのだ。最近特に白髪が増えた気がする。小娘の世迷い言に付き合っている暇はない。


「お願いします、御夫人。精いっぱい勤めます。王都で最も可愛いドレスを仕立てると名高いキュメール洋裁店で、働かせて頂きたいんです。学ばせていただきたいのです。けしてご迷惑はおかけしませんから」

「もう十分に迷惑よ、だいたいあなた――」


 思わず声を荒らげそうな自分を抑えつつ、キュメール夫人はあらためて相手を見た。

 いかにもお堅そうな伯爵令嬢。

 ダン伯爵家系に特有の、薄灰の縮毛と細い鼻筋、一重まぶた。

 化粧っ気もなし、倹約志向の家であてがわれた、安物で流行遅れの地味極まりない無難なドレス。

 宮廷財務官の娘で頭はいいのかもしれないが、生真面目に過ぎる居住まい。

 まるで、お利口なだけの退屈な女の見本市だ。

 たとえ世辞にも、この業界向きとは言えないだろう。


「悪いけど、理解に苦しみますわ。モニカ様、いったい何が目的で……」

「私はこちらへ、可愛さの真髄を教わるために参りました。可愛さの意味を知るためなら、すべてをなげうつ覚悟でございます。ですから、どうか何卒‼」


 低頭するモニカの振り乱れた髪を見下ろして、キュメール夫人はため込んだ息をついに吐いた。


 ここは、キュメール洋裁店。

 王都で五指に入るドレスメーカー・ブランドであり、可愛さの殿堂とうたわれる本店である。

 これから、ますます忙しくなりそうだった。



        ♢



 ――数年後、キュメール洋裁店。


「モニカ、モニカはどこかしら?」

「はい、キュメール夫人。私はこちらに」

「コレクションの準備は万全ね? ご来賓は?」

「すでに皆様ご着席なさっています。万事支障はございません」

「それは結構。ああ、いよいよなのね」


 一階の広間に向かいながら、長いらせん階段を降りる女二人の靴音がコツコツと響く。

 今日は新ブランドコレクションの発表会だ。

 すでに事前の台覧コンペティションで多くの競合ブランドを押しのけ、王室御用達の内定を一手に勝ち得た、キュメール夫人自慢の新ライン。

 その御披露目となる、一般公開の初日である。


「あなたのおかげよ、モニカ。こんな日を迎えられて、最高の気分だわ」

「いえ、私は何も」

「謙遜しないの。あなたを秘書に雇ってから、きりきり舞いだったウチはすこぶる上向きになったんだから。さすがは経理・財務の鬼たるダン伯爵家の末娘ね」

「お戯れを」


 キュメール夫人の称賛は誇張ではなかった。

 いかに王都で五指に入るドレスメーカー・ブランドとはいえ、もしこの有能な秘書がそばにいなかったらと思うとゾッとする。

 夫も跡取り息子も不在の窮地に、マネジメントの事務業務の多くを任せられる存在がどれだけ支えとなったか。

 

 モニカ・ダンの成長は凄まじかった。

 この業界に飛び込むや、恐るべき早さで仕事を覚えこなしていった。

 外聞もあり秘書として雇い入れたわけだが、彼女は業務に関わるあらゆることについて学びたがった。

 採寸係にも裁縫師にも会計係にもボタン付けのお針子にも、彼女は等しく頭を下げ教えを乞うた。


 気付けば夫人の片腕にふさわしいまでの力量に到達していたが、それでもモニカは従業員として学ぶことをやめなかった。

 ほとんど寝ている様子さえない秘書に、キュメール夫人は今日まで休息を促したことが何度となくある。

 しかしその度に、モニカ・ダンはこう答えるのだった。


「ありがとうございます。でも、私にはまだ可愛さが理解できておりませんから」と。

 

 その底知れぬ懸命さが、キュメール夫人にある種の着想をあたえた。

 可愛さとは何か。

 我がキュメール洋裁店も、いま一度それを見つめ直すときではないか?

 可愛さの殿堂などとうたわれるうちに、そこに甘んじてドレスメーカーとして重要な何かを失ってはいなかったか。


 療養中の夫とも相談し、今回の新コレクションでは大きく趣向を変えることにした。

 可愛いドレスを作るのではなく、それぞれの女性の可愛さを最大限にひきたてるドレスを仕立てる。

 それをコンセプトにした。

 自分たちが目指してきた可愛さとは、本来そのようなものであったはず。


 コンプレックスや低評価の対象となる容姿に悩む女性にも、むろん、本当は一人ひとりに可愛さがある。

 その可愛さを演出する服飾やコスメを前面に打ち出す、原点回帰にしてキュメール洋裁店の新機軸だ。

 リボンも刺繍も、チュールもサテンシフォンも水玉模様もスパンコールも、すべてはその捧げもの。

 自店舗内の独自ラインナップとして、新ブランド名も付けることにした。


「さあ、はじめましょう、モニカ」

「はい、御夫人」 


 二人の女がドアを開ける。

 その開かれた扉を抜けて、コレクションのドレスをまとったモデルたちが次々に広間へ入っていく。体型も容貌もばらばらな、最高に可愛いモデルたちだ。

 満員の会場から喝采が沸く。

 その中には、王室での台覧コンペティションに惨敗したエギル家一派の商会連中の歯噛みもまじっていただろうが、誰も聞いてはいなかった。

 

 可愛さが、その喜びが、会場を満たしていったからだ。



        ♢



 ……深夜。

 コレクション初日を終えたその広間に、モニカは一人居残っていた。

 控えめに言って、素晴らしい一日だったと思う。

 新ブランドの立ち上げとしては、これ以上望むべくもないほどに。


 私は欲しい。欲しがりな妹だ。

 お姉様が叶えられなかったものすべてが欲しい。

 何もかも、私がかわりに叶えるのだ。

 だからこそ、私は可愛さを学ばなくてはならない。

 妹たるもの、可愛さを知らなければ。


 そう思って飛び込んだ、ドレスメーカーの世界。

 可愛さの殿堂、キュメール洋裁店。

 できうるかぎり、精いっぱい働いてきたつもりだ。

 可愛さの真髄を知るには、それでもまだ足りない。


 ――ただ、わかったこともあるわ。


 閑散として、半ば照明の落とされたコレクション会場。

 愛らしいドレスのかけられたマネキンを見つめ、モニカはそこに姉ヘレナの面影を重ねる。

 そして話しかける。


「自分の欲しかったものが、求めていたものが何なのか。こんな素敵な日に、やっとそれがわかったの、お姉様」


 声が少し震える。ふるえてもいい。

 目の前には姉の面影があり、ドレスがある。


「こんな素敵なドレスを、あなたに着せてあげたかった。可愛いあなたに、たくさんたくさん、着せてあげたかった」


 姉の面影が、淡く微笑む。

 小さなモニカを何度も抱っこしてくれた、優しく聡明な微笑みで。


「ありがとう。私を可愛いって言ってくれて、ありがとう。大好きよ。大切なたいせつな、『私の可愛いヘレナ』」


 ずっと流せなかった涙。

 それをいま、姉だけは見守ってくれていた。



        ♢



 後々までキュメール洋裁店の主力ラインとなったその新ブランドは、ここに記した逸話の精神にたがわず、「ヘレナ&モニカ」というブランド名で現在もなお健在である。


 命名者はキュメール夫人であるという説と、その他の関係者であるという説がいまだに混在している。最も有力なのは、キュメール夫人の息子であり帰国後ほどなくモニカを妻に娶った御曹司ルース・キュメールの証言によるものだろうか。いわく、「神から当家への授かりもの」だとか。

 残る記録によって時系列が曖昧であり、もはや確定の術がない。


 美談の誉れ高きこの逸話そのものを、「宣伝目的のブランドによるでっちあげだ」とする否定派も一時は存在した。

 エギル侯爵家の凋落とともにそんな否定派の声がパッタリと消えたのはどうしたことだろう?

 愚息ハメスと無能な浪費妻アイリーンの代に多額の負債を抱え破産すると、エギル家の信用は一気に地に落ち、即刻の爵位剥奪からとうとう持ち直すことはできなかったようだ。



 いずれにせよ、「ヘレナ&モニカ」のブランドロゴには、当時と変わらぬ輝かしくも控えめな添え書きがこうあしらわれている。



 あなたの可愛さをたたえて

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