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少女人形

作者: 彌厘

 僕は紹介されたその屋敷を見上げた。

 二百年以上前に建てられたという割には綺麗だった。白かったのであろう石壁は長年雨風にさらされて変色しているがそれも味があっていい。それに石造りの建物はもちろん、色とりどりの花が咲いている庭も手入れが行き届いているようで美しかった。

 パリの郊外にあるので何か入り用の際は不便かもしれないが、別荘にするつもりなのでそれほど大きな問題でもない。

「いかがでしょうか?」

 不動産屋が愛想のいい笑顔を浮かべて言う。

「申し分ない物件ですね。すぐに契約したいくらいだ」

 僕も笑顔で答える。

 しかし何故か不動産屋は複雑そうな顔をした。

「有難うございます。ですが……お話しなければならない事がございまして……」

 なんとも歯切れが悪い。

「なんの事ですか? 古い建物だから雨漏りするとか?」

「いえ。それは大丈夫です。ただ、以前こちらの物件をご購入された方々がいらっしゃるのですが、みなさんすぐに売りだしてしまったのです」

 僕は目を丸くした。

「一体どうして? もしかして、いわくつきというやつですか?」

 不動産屋は苦虫をかみつぶした表情をする。

「……はい。私はそういったものを見聞きした事はないのですが……みなさん口をそろえて幽霊が出たと仰いまして……。おそらく、昔この屋敷で亡くなった方の幽霊なのでしょうね」

 そうして彼は僕にこの屋敷で起こった悲しく切ない出来事を語ってくれた。


 一七八九年七月十四日。バスティーユ襲撃を契機として自由・平等・同胞愛を掲げて、フランス革命が起きた。それより五年前の一七八七年、フランス・パリ。

 名門アリスクレイト家の家紋が入った馬車が、商店街を走っている。この馬車に乗っているのはアリスクレイト家の長男の青年とその執事、御者の三人だ。

 十八歳前後の青年は車窓から街の様子を眺めていた。

「トリスト様、お体の方はいかがですか?」

 五十代くらいの白髪の執事が病弱なトリストを気遣う。

「有難う。大丈夫だよ、セルヴィトゥール」

 トリストは髪と同じ茶色の目をセルヴィトゥールに向けた。

「すまない。君まで家を追い出されるなんて……」

「滅相もございません。私はあなた様の行くところ、どこへでも付いて参ります」

 それを聞いたトリストは自嘲する。

「君の主人は僕ではない。父だ。僕に付いてくる必要なんてない」

「……確かに私の主は旦那様です。しかし、私がお慕い申しあげているのはトリスト様だけです」

「嘘でも嬉しいよ」

 そうしてトリストは再び視線を窓の外へ戻した。これ以上話すことはないという意思表示である。今はどんな言葉も、彼の心には響かない。

 このパリの街も彼と同じくらいに病んでいた。

 みすぼらしい格好のやせ細った子供が地面に座り込んでいる。住む場所も食べるものもないのだ。この街では珍しくもない。

 その横を丸々と太った貴族が汚いものを見る目で見て通り過ぎる。嘲笑いながら。これも珍しくない。むしろ当たり前の光景だった。

 この世界は腐っている。自由も平等も愛も幻想だ。

 それを見たくなくて視線を空に向けようとした時、金色の何かが視界に入った。それが何か気になり目を下へ戻す。

 目的のものは進行方向にあった。

 それは金の髪を持った少女の人形だった。酒場の店先の質素な椅子に座らせられている。等身大であるせいか人目を惹いていた。

 馬車が人形に近付いていくにつれて人形の顔が見えてくる。着ている汚らしい服とは裏腹に、かなり精巧につくられていた。大きなエメラルド色の瞳が愛らしい。

 馬車が人形を通り過ぎる直前にその翠の目が瞬いた。

 息を呑んで過ぎ去っていく人形を凝視する。

 人形が瞬くはずがない。という事は、あれは――。

「トリスト様、どうなさいました?」

 セルヴィトゥールの声で我に返る。

 トリストは御者席に向かって叫んだ。

「止めてくれ!」

 御者が慌てて馬車を止める。トリストは御者が扉を開けるのも待たず、自分で開けて飛び出した。そして来た道を駆け戻る。生まれて初めて全力疾走というものをした。おかげで息苦しくて仕方ない。

 人形の目の前で立ち止まった。

 近くで見れば確かに、人形にしては精巧すぎる。肌の質感などは人間そのものだ。人間だとすれば十四、五歳くらいだろうか。

 ただ人間だと断言するには何かが足りない。今もトリストが目の前にいるのにこちらを見ようともしないのだ。ぴくりとも動かない。

 見間違いだったのだろうかと思い始めた時、再びそれは瞬いた。

 やはり見間違いではなかった。これは――彼女は、人間だったのだ!

「トリスト様、一体どうなさったのです? お体に障りますよ」

 振り返ればセルヴィトゥールと馬車が側に控えていた。

 トリストはどう説明しようかと悩む。自分でも何がしたくてここまで戻ってきたのかよくわからないのだ。何故この少女がこんなにも気になるのか。

 そこに一人の身なりのきちんとした男が近付いてくる。

「いらっしゃい旦那。今日はどういったご用件で?」

 今まですっかり忘れていたがここは酒場の前なのだ。この男は酒場の店主だろう。

「この少女は君の娘か?」

「まさか! 商品ですよ」

「商品?」

トリストが顔をしかめたのに店主は気が付かなかったようだ。愛想笑いを浮かべて言う。

「見た目がいいからこうして置いているんですが、見ての通り愛想がなくてね。話しかけてもほとんど反応もしないしで処分に困ってたんですよ。それより、中にはもっと上物がありますよ。ぜひ見ていってください」

 どうやらこの酒場は日常的に人身売買を行なっているらしい。

 店主がトリストを店に招き入れようとする。それをセルヴィトゥールが割って入って止めた。

「トリスト様。そろそろ参りましょう」

 セルヴィトゥールはトリストが幼いころから仕えている。それ故に彼が、人を『モノ』扱いする場所に心を痛めている事を知っていた。だから彼をかばおうとして言ったのだ。

 だがそのトリストが執事を制した。

「待ってくれセルヴィトゥール。――店主、この娘はいくらだ?」

「旦那、まさかこれを買うつもりで?」

「ああ、そうだ」

「トリスト様?!」

 セルヴィトゥールは困惑顔でトリストを見る。

 彼は執事から少女に目を移した。自分よりも年下の汚らしい格好の少女。何故こんなにも彼女が気になったのかようやくわかった。

「……僕と似ていると思わないか? 売られて感情を失くした彼女と。病気のせいで家を追い出され、別荘送りにされた僕と。僕はたまたま貴族の家に生まれたからこうならなかっただけだ」

 いつかは追い出されるだろうと思っていた。自分が病気だとわかった途端に、家族は自分をいないものとして扱っていたから。だが実際にそうなると想像以上に辛いものだ。結局家族は彼のことを、アリスクレイト家の跡取りとしか見ていなかったと思い知った。

 そう考えているときにこの娘を見つけたのだ。トリストにとって彼女を見捨てるのは、自分の家族と同類になる事を意味する。

 そう言われるとセルヴィトゥールも何も言えなかった。

 トリストは代金を支払うと、少女と目線を合わせるために屈んだ。

「今日から僕が君の面倒を見る事になった。宜しく頼むよ」

 人形のような少女は相も変わらず虚ろな瞳で虚空を見ていた。きっと彼女を人間にするのが自分の使命なのだ。彼はひそかにそう思う。


 今日からトリストが住む別荘は緑と花に囲まれた美しい屋敷だ。どこで暮らすかは彼の意思で決める事を許された。だからトリストは花が好きなのでここに住む事を即決したのだった。

 むしろ本邸よりずっと暮らしやすいだろう。ここには家族はいないのだから。自分が見えないように振る舞う父も。悲しげな眼で見るが決して声をかけようとしない母も。侮蔑の眼で見てこちらに聞こえるようにメイドに彼の事を罵る弟も。皆いないのだから。

 そう自分に言い聞かせながら少ない荷物を片付ける。元々この部屋は自分の私室として以前から使っていた。必要なものはほとんど揃っている。

 ノックの後に扉の向こうからセルヴィトゥールの声が聞こえた。

「トリスト様。お嬢様をお連れ致しました」

 お嬢様というのはあの少女の事だろう。メイドに頼んで身なりを整えてもらっていたのだ。

 トリストは片付ける手を休めて返事をする。

「どうぞ」

「失礼いたします」

 セルヴィトゥールに連れられて室内に入ってきた少女を見てトリストは目を見開いた。先ほどとは別人かと思うほど見違えていたのだ。元々美しかったがそれに磨きがかかっている。

 ぼさぼさだった金髪は整えられて艶を取り戻した。陶器のように白い肌に小さな唇。服も上流階級の娘が着る華やかなものだがよく似合っている。翠の瞳はやはり虚ろなままだけれども。

 気品さえ漂い花のように美しかった。貴族の令嬢だと言ってもだれも疑わないだろう。ただし表情がないので高価な人形にも見える。

 トリストは言葉もなく少女に魅入った。代わりにセルヴィトゥールが微笑んで言う。

「美しいお嬢様ですね」

「あ、ああ……そうだね。それで……そう、僕の名前はトリスト・アリスクレイトだよ」

 あまりの美しさに動揺したが互いに名前を知らない事に気が付いた。無反応な少女と視線を合わせて自分を示しもう一度言う。

「僕の名前はトリストだよ。トリスト。ほら、言ってごらん」

 少女の目がゆっくりと動いた。そしてトリストと目が合う。

 彼は期待に胸が高鳴った。もう一度繰り返す。

「トリストだよ、トリスト」

 彼女の唇がゆっくりと動く。

「……お、い、うお」

 ――喋った! もうひと押しだ。

 今度はゆっくりと言う。

「トリスト」

「といふお……とい、うと……とり、す、と」

「そうだよ、トリストだよ! 言えるじゃないか」

 思わず笑顔になって少女の頭を撫でた。

 そして今度はつつましく控えている執事を示す。

「彼はセルヴィトゥールだよ。言ってごらん、セルヴィトゥール」

「……える、び、うー」

「セル、ヴィ、トゥール」

「せる、び、うー」

「トゥール」

「うーう」

「……私の名は難しいようですね」

 このやり取りを静かに見守っていたセルヴィトゥールが近づいてきた。彼は穏やかに笑って少女に言う。

「セルヴィで構いませんよ」

「せるびー」

「はい、セルヴィです」

 トリストはずいぶん可愛い名になったと思い、笑いながら彼女に尋ねた。

「それで君の名前は? 名前」

「な、まえ」

「そう、君の名前」

「きみ、の、なまえ」

 どうやら理解していないらしい。

 どうしようかとセルヴィトゥールと顔を見合わせた。

「もしかしたら記憶がないのかもしれません」

「記憶がない?」

「はい。人はあまりにも肉体的または精神的に大きな衝撃を受けると、記憶を失う事があると聞きました。もしかしたら彼女も――」

 もしも親に売られたのだとしたら、確かに記憶喪失になったとしても不思議ではない。

「トリスト様、あなた様が名付けられてはいかがでしょうか?」

「僕が?」

 頷くセルヴィトゥール。

 確かに名前がないといろいろと不便だ。

 この娘の名前……。思案してみるが思い浮かばない。

 何かないかと室内を見回してみる。クローゼット、ベッド、机、本棚。窓の外には緑と花。

(そうだ、花の名を付けよう)

「……カトレア。カトレアはどうだろう? 花言葉は『美しい』『純粋な愛』」

「カトレア様。ええ、お嬢様によくお似合いだと思いますよ」

 セルヴィトゥールに肯定されてトリストは安堵する。

 少女の方に向き直った。

「今日から君の名前はカトレアだ。カトレア」

「……あとえあ……かと、れ、あ」

「そう、君はカトレア」

 少女――カトレアは何度も自分の名を繰り返していた。


 その日の夕食は戦争だった。

 カトレアはナイフとフォークはおろか、スプーンすら使えない。そのせいで彼女は皿に顔をくっつけて動物のように食べるのだ。慌ててメイドが止めると食事を取られると思ったのか暴れだす始末。メイド三人がかりで彼女に食べさせた。

 トリストはただポカンとしてその光景を見つめていたのだった。

 この小さな戦争のせいでメイドたちはすっかり憔悴した様子である。それを見かねたトリストがカトレアを彼女の部屋まで連れて行った。

 その部屋は数時間前まで客間だったことを感じさせない。内装にはリボンやレースがふんだんに使われ、ぬいぐるみまで置かれている。見事に可愛らしい少女の部屋に生まれ変わっていた。

 後でメイドたちを労ってやらなければならない。

 室内を一通り見回しそろそろ自室に戻ろうかとカトレアに目を向ける。

「――な、何をしている?!」

 彼女は胸元のボタンを外し始めていた。慌てて少女の手を掴んで止めさせる。

「一体何を考えて……!」

「しないの?」

 今自分の耳が何を聞いたのかわからなかった。この部屋には自分とカトレアしかいない。ということは今の声はカトレアという事になる。

 自分達の言葉を繰り返すか無意味な音を発するだけだった彼女が。明瞭な声で喋った?

「い、今何て……?」

 あまりの衝撃にカトレアが何を言ったのか全く覚えていなかった。

 虚ろな翠の瞳がこちらを見ている。

「しないの?」

 『しない』とは一体何のことか。彼は真剣に今の状況を思い返す。

 彼女は服を脱ごうとしていた。そしてこの言葉。意味は明白だった。

 性行為をしないのかと聞いたのだ。

 トリストは顔が熱くなるのを感じた。口を開いたが何を言えばいいのかわからない。

 代わりに彼女が唇を動かす。

「……捨てるの?」

「なっ……? 捨てたりしないよ! 何故そんな事を……?」

「しないのに?」

 つまり行為をしないと捨てると言われたのだろう。おそらく前の主人に。

 息を呑んだ。今度は顔から血の気が引く。予想していたはずなのに……。

 トリストは現実を前にしてなす術もなく突っ立っていた。

 虚ろな翠の眼がこちらを見ている。

「……もうそんな事はしなくていいんだ。捨てたりしないから」

 そうして逃げるように部屋から出た。

 いや、逃げたのだ。あの恐ろしい翠の眼から。

 トリストは早足で自室へと向かった。

 急にのどに違和感を覚える。両手で口を押さえたのと同時にせき込んだ。鉄の味がする。手にどろっとしたものが溢れた。

 壁にもたれてせきが止まるのを待つ。震える手を見下ろした。

 やはり、血だ。

 死期が近い。そのような事は医者に言われなくても知っていた。早く彼女を人間にしてやらなければ。時間がないのだから。

 自室に戻ったトリストは死んだように眠ったのだった。

 彼女と出会って二日。カトレアが突然奇怪な行動をとる以外は大きな問題はなかった。

 しかし正直なところカトレアとどう接すればいいのか悩んでいた。初日の夜に見せたあの眼が恐ろしい。

 それに彼女を助けたいと思うのも自己満足のためだ。決して彼女のためではない。

 一体自分に何ができるのか。何をしてやれると思って引き取ったのか。トリストは自己嫌悪に陥っていた。

「――トリスト様?」

 はっとして顔を上げる。

 いつの間にか自室のドアが開いていて入り口付近にセルヴィトゥールがいた。

「無断で侵入して申し訳ございません。お返事がなかったので何かあったのかと……」

「いや、考え事をしていただけだ。僕の方こそ心配をかけてすまない」

「カトレア様の事、ですか?」

 苦笑して頷く。彼に隠し事はできないようだ。

「僕は彼女に何をしてやれるだろうと思ってね。……でも何も思い浮かばないんだ。何も。僕は無力だ……。彼女に人間らしい感情を取り戻させるなんて思い上がりだった」

「そのような事はございません。人はだれかが側にいてくれるだけで心温まるものです。彼女もあなた様がいてくだされば、きっと人の温かさを感じられます。――ご自分を卑下してはいけません、トリスト様」

 この執事はいつもほしい言葉をくれる。

「しかしどう接すればいいのかわからないんだ」

「あなた様はどうなさりたいのですか? 彼女をメイドにしたいのですか?」

「違う! 僕は半強制的にあの娘をここへ連れてきたんだ。仕事まで押しつけたくない」

「ええ。あの方は私どもと違って、ご自分の意志でここへ来られたわけではありませんものね」

「僕はただ……美しいと。感情があればもっと美しいだろうと思って。笑ったところを見てみたいと……。それに、僕に似ているとも思った。だから放っておけなくて……」

「それでは家族として接してみてはいかがです? 彼女を妹として見ては?」

「妹……」

 それはいい考えのような気がする。実弟のいる自分には容易い事だ。そしてなにより、家族はトリストとカトレアが失くしてしまったものでもあった。

「有難うセルヴィトゥール。そうしてみるよ」

「お役に立てて光栄です」

 優秀な執事のおかげで気が楽になる。


 それからほどなくしてカトレアはスプーンが使えるようになった。

「ほら、こうやって持つんだよ」

 カトレアの手をとってスプーンを握らせる。そのスプーンでスープを掬う。そして彼女の口まで持っていく。彼女が口を開けるのでスープを流し込んでやる。

「こうやって使うんだ。わかったかい? 今度は自分でやってごらん」

 トリストはカトレアの手から自分の手を離す。

 彼とメイドたちが見守る中、カトレアはぎこちない動作でスプーンをスープに突っ込む。それを掬いあげ、ぽたぽたとこぼしながら口元に運ぶ。そして口の中におさまった。

 メイドたちが歓声を上げて手を取り合う。トリストも嬉しくなり、笑みを浮かべて彼女の頭を撫でた。

「よくできたね! えらいよ、カトレア」

 彼女は眼を丸くして、トリストとメイドたちを見比べた。

 トリストはメイドたちに頼らず、自分で彼女にさまざまな事を教えていた。言葉を教えたり本を読み聞かせたりする。体調のいい時は二人で庭を散歩するのが日課だ。とはいえ、さすがに着替えと入浴はメイドたちに任せているが。

 カトレアは徐々に表情が現れるようになった。何も知らない人間が見れば無表情に見えてしまう程度にだが。

 変わったのはカトレアだけではない。トリスト自身もよく笑うようになった。家族や病気の事でふさぎ込みがちだった彼を、カトレアの存在が明るくさせたのだ。

 トリストは今までただ生きていた。何の目標もなく夢もない。ただ死ぬのを待つだけ。そんな毎日をカトレアが変えたのだ。

 彼女の成長を見るのが楽しかった。笑ったり怒ったり泣いたりするところを見たい。友達もつくってやりたい。

 彼は本当の家族のようにカトレアを愛していた。

 だから三ヶ月を過ぎた頃には、二人は仲のいい兄妹そのものになっていた。

「はな」

「そう、花だ」

「がーでにあ」

「うん、そうだよ。よく覚えていたね」

 トリストはカトレアの頭を撫でてやった。彼女は気持ちよさそうに目を閉じる。

 二人は花の咲き誇る中庭を歩いていた。

 トリストが花を指さす。そうしてカトレアがその花の名を言えるかどうか確かめているのだ。

 次はどの花にしようかと花壇を眺めていた。

「――っ!」

 唐突に息苦しくなる。めまいがして近くの木に手をつく。激しくせき込んだ。

 足元の緑が紅く染まる。

 せきが止まらない。息ができない。身体に力が入らない。

 トリストは地面に倒れた。

 自分は死ぬのだろうか。そう思った時カトレアが目に映った。エメラルド色の瞳でこちらを見ている。

(死ねない。今はまだ死ねない。死にたくない……!)

 ここに来る前は死んでもいいと思っていた。自分には失うものはなにもなかったから。だが、彼女と出会って生きる楽しさを知ってしまったのだ。死にたいなど思えるはずもない。

「……カト、レ、ア」

 消え入りそうな声で名を呼ぶ。カトレアに誰かを連れてきてもらおうと思ったのだ。

 彼女は近付いてきた。トリストの横に膝をつく。そして。

 背中をさすってくれる。

 今まで自分から動いた事などなかったのに。いつの間にこのような事を覚えたのだろうか。前にせき込んだ時セルヴィトゥールがそうしたのを覚えていたのかもしれない。

 トリストの目から涙が流れ落ちた。苦しいせいか、それともこの上ない幸福感のせいか。

 先ほどとは裏腹に死んでもいいと思った。否定的な意味でそう思ったわけではない。今ならば現実とその先にある死すらも受け入れられる。

「カ、ト、レア……!」

 カトレアのトリストを見る目は確かに虚ろではなかった。不安や労りの光が宿っている。

 彼女はもう、人形ではなかった。

「――トリスト様?!」

 セルヴィトゥールの悲鳴のような声が聞こえた。

 意識が遠のく寸前に。

「トリスト。死なないで」

 その声は確かにカトレアだった。

 ――やはり、まだ死ねないらしい。

 血の臭いに交じってルピナスの匂いがわずかにした。花言葉は『いつも幸せ』、『あなたは私の安らぎ』。


「それで、その青年貴族は死んでしまったんですか?」

 僕は思わず不動産屋に話しの続きを催促した。

「いいえ、一命を取り留めました」

 彼は微笑んでそう言うと、屋敷の方を振り返る。僕もつられてそちらを見上げた。

 不動産屋は悲しげに屋敷を見つめ、昔話の続きを語る。

「しかし、その後が悲惨でした。それまでの生活がたたって少女の方が先に死んでしまったのです。それをひどく嘆いた青年は、彼女によく似た等身大の人形を作らせました」

「その人形は、今はどこに?」

「今も彼女の部屋にありますよ。なにしろ、人形を捨てようとでもすれば何か良くない事が起こるといわくつきですから。病気になったり、夜な夜な夢に出たり……」

「それでこの屋敷は、人手に渡ってはすぐに売り出される?」

「はい。それで困っておりまして……」

 確かにそれは気味が悪いかもしれない。

「でも、どうしてあなたはそんなにこの話に詳しいんです? まるで見てきたような口ぶりだったじゃないですか。それになにより僕に売ってしまってから話せばよかったのに」

 普通この手の話は最後まで隠し通すものなのではないだろうか。それなのになぜ不動産屋は僕に話してくれたのか。それが気になった。

「……どうせ、後でわかってしまう事ですから」

 どうもそれだけではなさそうだ。

「ところで、この庭の花の世話は誰がしているんですか?」

「私がしております」

 それは好都合である。

「僕が思うに本当は、あなたはこの屋敷を手放したくないんじゃありませんか? だから僕に昔話を聞かせた」

「まさか」

 彼は笑って否定した。

「本当ですか?」

「……話の中に執事が出てきたでしょう? 実は私は、彼の子孫なんです」

「なるほど。それで話に詳しかったんですね」

「ええ。先祖がお仕えした方のお屋敷ですから、本来なら私が管理したいのですが……。お恥ずかしい話ですが、最近は資金繰りが厳しくて……」

「買います、この屋敷。その代わり、草花の世話をあなたにお願いしたいんです。僕はそういう知識がないもので。もちろんお金は払いますよ」

 不動産屋は目を丸くして僕を見つめた。

「ほ、本当によろしいのですか?」

「はい、買います。それともやっぱり売りたくないですか?」

「いいえ、あなたのような方にならぜひ」

 僕と不動産屋は再び屋敷を見上げた。

「――それで、青年貴族はその後どうなったんです?」

 ふと思い出し、僕は不動産屋に尋ねる。

「人形のできた二年後に亡くなりました。晩年、彼は人形を本物の少女だと思い接していたそうで……」

「じゃあ、今も人形のそばにいるのかもしれませんね。そのせいで人形を捨てようとすると良くない事が起こるとか……?」

「あの、本当によろしいのですか? あなたの身にも何か起こるかも知れませんよ?」

 僕はそれを聞いて笑った。

「大丈夫ですよ。僕は人形を捨てようなんて思っていませんから。彼のそばから彼女を引き離そうなんて、僕にはできません。それに幽霊と同居できるなんて面白いじゃないですか」

 不動産屋の方を見ていたずらっぽく笑うと彼もつられて笑う。

 そのとき確かに、ルピナスの香りがしたのだった。

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