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世界終焉の日に君は何を想ふ  作者: 凄音キミ
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第五章・軋轢

 流々香の心当たりがあるという“彼女”に会うために、流々香を追って荒廃した市街地跡にやってきた。

 ひび割れたアスファルトには、どこからか綿毛が風に乗って飛んできたのだろうか、冬の寒さを耐え忍ぶロゼット状の蒲公英(たんぽぽ)の葉や、どこからか種が零れたのだろうか、冬の寒さをものともせずに咲き誇るフユシラズの花が散見された。

 高く(そび)えていたはずの電信柱や街灯は“へ”の字に折れ曲がりその(こうべ)を地につけ、倒壊した鉄筋コンクリート造と見られる建物群には蔦が不気味に巻きついていた。周囲にはドアが開け放しにされたままの乗り捨てたと見られる自動車が散在しており、中には当時の光景そのままであろう、街灯に正面から衝突し前方(フロント)部分が大きくひしゃげた乗用車の姿もあった。残された光景から、人々が突如現れた脅威に混乱状態(パニック)に陥り逃げ惑う姿が容易に想像できた。


「君の言っていた彼女……友達はこんなところにいるのかい?」

 ポニーテールを揺らしながら歩く彼女は何も答えない。ふと疑問に思い、

「そういえば連絡手段がないって言っていたけどどうして居場所がわかるんだい?」

 ポニーテールを左右に揺らすばかりで口を噤んだまま何も答えない。

 彼女は歩くポニーテールなのだろうか。

「この間はたくさん話してくれたのに今日は全然会話してくれないね。機嫌でも悪いのかな」

 彼女は立ち止まりもせず(ものう)そうに振り返ると、

「……全部声に出てるよ」と歩きながら言った。

「出してるんだよ」

 彼女は立ち止まってこちらを見ると、じとーっとした目つきで「変な人」と言った。――いまのは彼女のほうがおかしいと思うのだが。俺はただ話しかけただけなのに。

 流々香はこちらを向いたまま、

「こないだは曲がりなりにも体を張って僕のことを助けてくれた感謝とか目が覚めたばかりのあなたに対するお見舞いとか僕にもいろいろと思うところがあったから少し優しくしただけであって勘違いされても困るんだけど」と少し早口で言った。「よくよく考えたらあなたを助けるために僕も体を張ったわけだしあなたに優しくする必要なんてなかったかも。優しくして損しちゃった」

 身振り手振りを交えてせいいっぱいの皮肉をぶつけてくる彼女の仕草も、憎たらしさも、狂おしいほどに愛おしかった。


「ごきげんよう流々香、連絡もよこさずにいきなり訪ねてくるなんてどうしたのかしら?」

 横から聞き覚えのない声が聞こえ、そちらを見ると、腰まではある長い金髪の女性がこちらに向かってゆっくりと歩いてきていた。その桃色の目は虚ろに揺らぎ、流々香ではないどこか遠くを見ているようで、焦点が合っていないように見える。腰には物々しい銃剣を下げていた。

「連絡してくださればわたくしのほうから会いに行きましたのに」

 妙に恭しいその女性は流々香に近づくや否や抱きつき、

「久々に会えましたわね。わたくしの愛しい流々香」とほっぺを擦り合わせた。

 流々香よりひと回りほど大きい女性に無理矢理抱き締められ、流々香は足が浮きかけ“く”の字に折れ曲がっていた。流々香は心底嫌そうに顔を遠ざけ、

「やめてよ。詩織(しおり)」と女性の肩を押して引き剥がす。「髪の色が違うから一瞬誰だかわからなかった」

「まあ、なんてひどいことを仰いますの。わたくしは流々香の見た目がどんなに変わっていようとも一目で気づいてさしあげますのに」

 詩織と呼ばれた女性の明るく振る舞う姿はなんだか空元気のように思えた。

「流々香はこちらの色のほうがお好みかしら?」

 そう言うと、彼女の髪色がみるみるうちに明るいピンク色に変わっていく。それを見て流々香は、

「そういえばあなたには擬態(そんな)機能があったね。髪色だけ変えるなんて器用なこともできたんだ」と言った。

「“機能”? “能力”ではなくて? おかしなことを言いますのね」

「ところでなんで髪色を変えているの?」

「元の色では目立ちすぎますから。それに……」再び彼女の髪がすーっと金色に変貌していく。「美しいわたくしには金色(ブロンド)の髪がお似合いでしょう?」

 そう言って髪を片手で振り払い靡かせた。

 流々香が明白(あからさま)に棒読みで、「そうだね」と心にもなさそうなことを言ったが、それにもかかわらず彼女は、

「流々香が褒めてくださるなんて珍しいですわね。感激のあまり天にも昇るような夢見心地ですわ~」と大袈裟なリアクションをした。

 元気そうに振る舞う彼女であったが、相好(かおつき)のせいだろうか。精神が摩耗しているような、どこかやつれてしまっているような、そんな印象を受けた。彼女も流々香と同じ機械生命体(アンドロイド)であるはずだから、“痩せ細る”などということはありはしないと思うのだが。


 俺といえばすっかり蚊帳の外で、流々香らの微笑ましいやりとりを外から眺めていた。詩織と呼ばれた女性が、唐突に腰に下げていた銃剣を手に取り、その鋒をこちらに向けた。

「ところで流々香、その男は誰? なぜあなたがこの星の人間と一緒にいるの?」

 突如向けられた矛先に、俺も流々香も返事をする間もなく詩織は続けた。

「わたくしがいま解放してさしあげますわ」

 そう言うや否や襲いかかってくる。流々香が慌てた様子で間に割って入り、咄嗟に取り出した双小剣で詩織の振りかざした刃を防いだ。キンッと金属同士を打ちつけた高い音がなった。

「どうして、どうしてこの男を庇うの? ああ、かわいそうに。きっと悪い男に騙されているのね」

 刃がぎりぎりと音を立てる。

「待って。落ち着いて話を聞いて。僕たちに戦う理由なんて」必死に刃を受ける流々香が叫ぶ。「『この星の人間に僕たちの故郷を滅ぼされた』なんてすべて紛い物の記憶なの!」

 詩織は武器を納めることなく至って冷静に言った。

「愛しい流々香が言うならそうなのでしょう。もとより甚だ疑問には思っていたのです。なぜこの星の住民を殲滅せねばならぬのかと。わたくしにあるのはこの星を滅ぼせという強い衝動だけ。わたくしたちの故郷の星を滅ぼされた? 彼らにそんな技術力があるとはとても思えませんもの」

「なら――」

「でもその男は別。流々香をかどわす悪い蟲は駆除しないといけないわ!」

 激昂し、流々香を押しのけようとするが、それでもなお流々香は立ち塞がる。ぶつかり合う二人の刃から金属の擦れる音がする。

「お願い。邪魔をしないで。流々香のためなのよ」

 怒りか悲しみか、彼女の声は震えていた。狂気を孕んでいるようだった。

「この人とは何もないから! 勝手に僕に付き纏ってるだけ!」

 流々香がそう叫ぶと詩織はようやく興奮が治まったようで、圧しつけていた武器を下ろした。まるでゴミを見るような目でこちらを見て言った。

「余計ひどいじゃない」

「まあ……その……害はないから」と流々香はお茶を濁す。

「流々香がそういうのなら……。愛しい流々香に免じていまは生かしてあげましょう。ただし……」ぎろりと鋭い眼差しとぎらりと光る銃剣をこちらに向ける。「流々香に手を出すようなことがあったら――わかってるわよね?」

 喉元に鋒を突きつけられ、冷や汗をかきながらコクコクと頷く。

「ふん」と詩織は鼻を鳴らして言った。「まあいいわ。あなたのような虫けらに割く時間ほど無駄なものはないもの」

 細目でこちらを見ながら言ったその舌の根もまだ乾かぬうちに、

「そんなことより流々香、先ほど言っていたのはどういうことでして? 詳しくお聞かせ願えないかしら」などと言う。

 ――よくもまあ風見鶏のようにくるくると(たなごころ)を返す女だ。慎ましく、清廉で、花のように可憐な“お淑やか”という言葉がぴったりな流々香とは大違いでまるでグリンピースのような女だな。

 そんなことを考えている俺の横で、そんなこととは露知らず流々香が事の経緯を説明していた。

「やはりわたくしたちのしていたことは過ちだったのですね……」

 そう俯き呟く詩織の姿が、地面に影を落としていた。

 ――この女がいったい何人手に掛けたかは知らない。いくら事情があったこととはいえ、この女のしてきたことが許されることだとは思わない。だけど、この女の境遇を思うと少し不憫に感じた。〈父さんを殺したのがこの女だったとしても、俺は同じことを思っただろうか……〉自分に問いかける。……答えはわからない。ただ、そう思えるような人間でありたい、と強く思った。

「一緒に拠点へ帰ろう」

 俯く詩織に、流々香が優しく言った。世界で一番素敵な提案(さそい)。詩織は、自分の両の手のひらをゆっくりと胸の前へ持ってくる。自分の手のひらをどこか悲しそうな目で見つめて言った。

「わたくしの手は、洗っても洗っても落とせない血に染まってしまいました……。こんなわたくしを、受け入れてくださるでしょうか」かすかに声が震えていた。

拠点(あそこ)の人たちなら大丈夫。きっとわかってくれる」

 流々香は詩織の正面に立ち、宙で開いたままの詩織の両の手を優しく包み込むように手を繋ぐ。流々香たちの(たお)やかな指と指が絡まる。

「それにあなたの力が必要なの」詩織の目を見つめるようにして言った。

「流々香にそこまで言われて参らないわけにいきませんわよね」

 そう言って詩織は優しく微笑んだ。その時初めて彼女の顔に生気が宿ったような気がした。

 流々香が、握っていた詩織の手を放すと、詩織は自分の胸の前に出したままの両の手を、何かを確かめるようにゆっくりと握りしめた。

「――でもどうしていまになってこの話を?」と詩織が言った。

「それは……僕らが創られてからはずっと神の監視()があったから。それに僕一人で詩織たちを説得しても信じてもらえるかもわからないし……僕の存在を消されるのがオチだと思ったから」

「そう……。ずっと……ずっと一人で戦っていたんですわね。これからはわたくしも流々香のお力になりますわ」

「ありがとう」

「流々香の口から感謝の言葉が聞けるなんて……感謝感激雨霰、ですわ~!」

 いまにも心と体が浮き上がってしまいそうなのが、見ているこっちにも伝わってくる。きっと本心からそう言っているのだろう。だが、やはりどこか心に影があるような、そんな気がしてしまう。

「ところで……流々香たちの拠点はここから遠いんですの?」

「まあそれなりに」

「でしたら、一度立ち寄りたい場所があるのですけど。すぐそこなのですけれど――」

 そうして詩織と流々香はどこかへ向かって歩き出した。隙を見計らって流々香に耳打ちをする。

「ねえ、誤解を解いてくれないか。彼女のゴミを見るような目を見ただろ。俺のこと本当に殺す勢いだったぞ」

「まあいいじゃない。ひとまずは丸く収まったんだから」流々香も小声で答える。

「俺の立場は――」

 言いかけた途中で、流々香は話を聞かず先へ行ってしまう。ないがしろにされ、猛烈に泣き出したい気分だった。


 ――「ここは?」と到着してすぐに流々香が言った。

「……これは、決して風化させてはならないわたくしの犯した罪の証。その象徴なのですわ」

 俺たちの目線の先。そこには掠れて文字の読めない石碑があった。『――建立碑』文字が掠れてしまっているということは相当古い物なのだろう。だが、よく手入れが行き届いており、古ぼけた印象は受けなかった。手入れのされた石碑の前には、季節外れの白い蒲公英(たんぽぽ)の花が添えられていた。――墓標代わりなのだろうか。一目見てそう感じた。

 何かの建立の記念に植樹でもされていたのだろうか、舗装された道路の並ぶこの場所で、石碑のすぐ隣の一画だけは柔らかい土が顔を出していた。一本たりとも雑草の生えていないその場所は、一目見てわかるほど不自然なまでに均されており、人の手が入っていることは一目瞭然だった。異様なまでに不自然さを放つそこには、やはり、白い蒲公英(たんぽぽ)の花が供えられていた。

「――ここにはわたくしがこの手で死なせてしまった……いえ、殺してしまった女性の亡骸を葬ってありますの」

 石碑の前で、詩織は俯き気味に言った。詩織の声に釣られそちらへ振り返った時、ふと石碑の余白だったと見られるところに、真新しい文字であとから付け足されたように『R.I.P. Miharu』と彫られていることに気がついた。石碑に刻まれたその名前は、頑徹さんの娘さんのものと同じ名だった。

 ――詩織が、詩織こそが頑徹さんの娘さんの命を奪った張本人なのだろうか。もし仮にそうであったとして、はたして彼女と頑徹さんを引きあわせていいものか。そもそもなぜ彼女は葬った女性の名前を知っているのだろうか。さまざまな思いが葛藤となり、いたずらに俺の心を駆け巡る。

 その時、埋葬された場所の前で涙ぐむ詩織が小さく漏らした「ごめんなさい」が、俺の頭にどうしようもなく纏わりついて離れなかった。悲愴な面持ちで手を合わせる彼女の姿に、〈立場は違えど、あの日の記憶に苛まれているのは彼女も一緒なのだ〉とそう強く感じた。

 ――彼女が罪を贖い過去を清算するためにも、復讐をしないという選択をした頑徹さんが娘さんに胸を張って生きるためにも、一度彼女と頑徹さんは向き合ったほうがいいのかもしれない。たとえそれが、二人にとって辛い邂逅(げんじつ)であったとしても。……これは俺のお節介(エゴ)なのかもしれない。自分の考えを否定されるのが怖くて、二人には何も言い出せないまま、拠点へと帰ることになった。この選択が正しいのかはわからない。そんな不安を抱えながら。

 始めはあれだけ嫌そうにしていたのに、なんだかんだで詩織と仲睦まじく談笑しながら歩く流々香の姿に、隣を歩くのが俺じゃないことに、楽しそうに話す相手が俺じゃないことに残念さを感じながらも、旧友と会話を交わしながら歩く流々香をこうして眺めているのもまた一興だ、と思った。


 それは詩織を連れて拠点へと帰り着いた矢先の出来事だった。日は沈み、辺りは薄暗くなっていた。

「おう、今回は早かったじゃねえか」

 そう言って歩み寄ってくる頑徹さんが詩織の姿を見るや否や、

「お前、あの時の!」と血相を変えた。

 詩織にも心当たりがあったらしく、ハッとしたかと思うと、しきりに「ああ、ああ」と嘆いていた。

「あの時のおじさまですのね。わたくしは取り返しのつかないことをしてしまいましたわ。到底償いきれるものではありません。謝って許されるようなことでもないでしょう」

「あの時、あれから、俺がいったいどんな気持ちで!」

 頑徹さんは握り拳をわなわなと震わせていた。

「……弁解の余地もございませんわ」と小さく首を横に振る。「わたくしがどんなに綺麗な言葉を並べ立てたところで、口から出まかせを言っているようにしか聞こえず、その一つとしておじさまには届かないでしょう……。どんな罰も辱めも受ける覚悟はできていますわ。如何様(いかよう)にもしてくださいまし」

「自分のしたことの重大さを、俺の気持ちを、理解しているのか? 二度と同じことをしないと、そう誓えるのか?」

 頑徹さんは一つ一つの言葉をはっきりと、抑揚をつけるようにして言った。

「ええ、ええ。当然ですわ。……流々香からすべて聞きました。わたくしたちに戦う理由なんてないのだと。すべて偽りの記憶(かんじょう)なのだと。けれど他人(ひと)のせいにするつもりなど微塵もありませんわ。すべてわたくしのしでかしたことですもの」

 俯く詩織を薄明かりが照らす。その顔に暗い影を落としていた。

「おじさまの泣き叫ぶ姿を見てからというもの、ずっと自分に問うていましたの。『わたくしたちのしていることは本当に正しいことなのか』と。……こんなこといきなり言われても信じてもらえないでしょうけれど、わたくしあれ以来一人たりとも手に掛けておりませんのよ」

 愁嘆する彼女の様子に絆され、

「嘘……ではないと思います」と口をついた。「彼女、流々香(おれたち)と会った時も明るく振る舞ってはいましたが、随分と憔悴している様子でしたから。それに……美晴さんの(ものと思われる)お墓も。よく手入れが行き届いていて、毎年欠かさず、いえ、それこそ毎週、毎日のようにあししげく通っていることを示す真新しいお供え物も」

「そうか……」と頑徹さんは俯いて言った。「すまねえ。しばらく一人にさせてくれねえか」

 そう言ってどこかへ行ってしまう頑徹さんの後ろ姿に、詩織は声も上げずに涙でそっと頬を濡らしていた。

 そんな彼女に、流々香が「どこか落ち着ける場所へ行こうか」と声を掛けると彼女は黙って頷いた。重たい空気を背に、二人を居間(リビング)へと案内する。すぐに詩織は長椅子(ソファ)に腰を掛け、静かに泣いた。俺は、いまはそっとしておくほうがいいと思い、声を掛けることもなく、じっとそばにいた。流々香も同じ思いだったのか、彼女の隣で静かに座っていた。

 居間(リビング)に聞こえるのは、古時計の針が、カチッ、カチッ、と、規則的に時を刻む音だけだった。

 彼女の涙の雨で深い海ができるほど長い時間そうしていると紅葉さんがやってきた。

「朔、頑徹を呼んできてくれないかしら。頑徹の気持ちもわかるけど……こういうときこそみんなで食事をしたほうがいいと思うの」

「わかりました」


 ――コンコンコン。

「頑徹さん。食事、できましたよ」

 ――ガチャッ。扉を開き部屋から出てきた頑徹さんは何も言わずに歩き出す。とぼとぼと歩く頑徹さんのいつもは大きく見える背中が、小さく見えた。

 ダイニングへ行くと、紅葉さんたちは先に腰掛け俺たちが来るのを待っていた。俺たちも腰を掛け、「いただきます」と言って食べ始めた。誰も、無理に会話をしようとはせず、重たい空気が辺りを支配する。普段なら美味しく感じるはずの紅葉さんの手料理も、体が咀嚼することを拒む。料理を取る手も重たく、箸が進まない。味など何一つ感じなかった。

 頑徹さんはわかりやすく項垂れ、悄然としていた。やはり頑徹さんもあまり箸が進んでいないようだった。頑徹さんのその姿に、詩織は何かを閃いたようでパッと顔が明るくなった。

「わたくし、お手洗いに行って参りますわ」

 そう言って「おほほほほ」と白々しく笑いながらダイニングから出ていった。詩織が出ていってからも会話はなく、かちゃかちゃと、箸やフォークが食器とぶつかる音だけがしていた。

 ――しばらくして、見知らぬ女性がダイニングへやってきた。姿を確認した瞬間、咄嗟に身構える。その女性が笑顔で頑徹さんのもとへ歩み寄ろうとしたその時、

「なんのつもりだ!!」と、思わずその場にいた全員がビクッとするような怒号を頑徹さんが上げた。頑徹さんは勢いよく蹴立て、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 見知らぬ女性の顔が、見覚えのある詩織の顔へ戻っていく。

「どうしましょう。わたくしはただおじさまに喜んでいただきたくて」

 慌てた様子でそう言う詩織の瞳はほのかに潤んでいた。

「頑徹もあなたに悪気がなかったのはわかってると思うわよ」と紅葉さんが慰める。

「でも、あんなにお怒りになっていらして……」

「いまはそっとしておいたほうがいいかもしれないわね。こういうのは時間が解決してくれるわよ」

 そう優しく言った紅葉さんの話を聴いていなかったのか、

「そうだわ。甘味を作ってさしあげましょう」と詩織は言った。「台所、お借りしますわね」

「ええ、構わないけど――」

 紅葉さんが言いきるよりも前に詩織は動いていた。紅葉さんに材料の場所を尋ね、何かを作り始める。

「この星の人間は甘味が好きなのですよね。わたくしなりに仲よくなろうと勉強したのですわ。……おじさまもきっと、喜んでくださいますわよね……」

 彼女の独り言は、自分を安心させようと自分自身に言い聞かせているようで、彼女の目からはいまにも涙が零れ落ちそうになっていた。

 ――詩織が何かを作り始めてから三十分ほどが経ったころ、「できましたわ!」とキッチンのほうから大きな声が聞こえた。

「さっそくおじさまに持っていってあげましょう。流々香、おじさまの部屋はどこですの?」

「僕も(わか)らないから(かれ)に聞いて」

 流々香にそう言われ、渋々といった顔で俺に話しかけてくる。俺も流々香に話を振られたので渋々、詩織を案内してやることにした。

 詩織の持つ皿に乗せられたクッキーと思しき物は、ぼろぼろと形が崩れていてお世辞にも出来がいいとは言えなかった。焦げはしていなかったが。

 詩織を頑徹さんの部屋の前へ案内するが、礼もなく、そればかりか、こちらに対し、しっしっと手であっちへ行けと合図をしてくる。実に可愛げのない女だ。

 俺は立ち去ったふりをして、陰から様子を窺った。詩織が頑徹さんの部屋の扉をノックする。コンコン。――それではトイレのノックだろ。非常識な女だ。

「おじさま、先ほどは失礼いたしました。わたくし、おじさまのためにクッキーを焼きましてよ。よかったら食べてくださらないかしら」

 廊下はしーんと静まり返り返事はない。

「もう、お話もしてくださらないのですね……」詩織はそう言って俯いた。「クッキー、ここに置いておきますわね」

 そう言うとどこかへ走り去ってしまう。彼女の落とした涙が照明を反射し、きらりと宙で輝いた。

 慌てて詩織を追いかけるが、建物の外へ飛び出していってしまった。すぐにあとを追うと、彼女は木の根元で三角座りをし、頭を膝の間に(うず)めていた。

 彼女のもとへ歩み寄る。足音(こちら)に気づいたのか顔を上げ、

「ヒトの気持ちもわからぬ愚かなわたくしを笑いに来たのでしょう」と嘯いた。

 悲壮な面持ちで強がる彼女の姿はあまりにも痛ましかった。〈彼女を慰むるには、俺の言葉はあまりにも少なすぎる。俺の拙い言葉では彼女の心は動かせない〉そう思うと自然と体が動いていた。

「こんなの……ズルいですわよ……。いっそのこと、『馬鹿な女だ』と思いきり(なじ)ってくださったほうがきっと……わたくしの心は救われますのに……。どうしてでしょう。こんなにも涙が(あふ)れるのは」

 胸に溜まったものをすべて吐き出すように、わんわんと大きな声を上げ泣く彼女の慟哭が俺の心に爪を立て、きゅーっと胸が縮み上がるような閉塞感が気配を殺しながら押し寄せた。

「人肌とはこうも温かいものなのですね」

 耳元で囁かれ、少しドキッとしてしまう。慌てて離れると、彼女はもう泣きやんでいる様子だった。立ち去るわけにもいかず、気まずさを感じながらも彼女の隣に座った。

「あなた、流々香というものがありながらわたくしにも手を出すのですね。ふしだらな男」

 冗談めかして言う彼女はグリーンピースのようで、俺の心はいっさいときめかなかった。先ほどドキッとしたのは吊り橋効果か何かが見せるまやかしだったのだろう。

「流々香のことが好きだから。泣いていたのが流々香じゃなく君だったからこそ抱き締めることができたんだよ。もし、泣いていたのが流々香だったら……俺には抱き締める勇気なんてなかったと思う」

 (がら)にもなく思っていることを口に出した。

「あなたも流々香に似て不器用なのですね」

 そう言う彼女は微笑んでいるようだった。”流々香と似ている”と言われたことが少し、嬉しかった。

「しかし仮にも淑女(レディ)であるわたくしに面と向かって、『あなたにはいっさいの興味がございません』だなんて、いささか失礼がすぎるんじゃありませんこと?」

 彼女は明るくそう言うと、少し俯き、

「……なんて。機械の体なのに淑女(レディ)だなんて烏滸がましいですわよね」と自嘲した。

「そんなことないと思うよ。君の喋り方なんてまさにお嬢様そのものじゃないか」

「ふふ。なんですの、それ」と小さく笑った。「口調しか褒めるところがありませんの?」

 俺は彼女の問いには答えず、沈黙していた。彼女との間に流れた静寂(せいじゃく)は、気まずいものではなく、どこか居心地がいいものだった。俺は実感していた。たとえ何も持たない俺でも。たとえ不器用な心でも。人の心に寄り添うことで、誰かの力となれることを。揺れる思いでさえも、誰かの支えとなれることを。

「叶うことならばずっとこうしてあなたの優しさに甘えていたいところですが……おじさまと。わたくしのしてきたことと。きちんと向き合わないといけませんわね」

 ――詩織とともに頑徹さんの部屋へ行くと、詩織が部屋の前に確かに置いたはずのクッキーは姿を消していた。

「――頑徹さんならいまは研究室にいるよ」

 忽然と現れた流々香がそう言うと詩織はすぐに走っていった。

「随分とお楽しみだったみたいだね」

 流々香の言葉に少しどぎまぎする。疚しいことなど何もないのだが。

「見ていたのかい」

「僕も詩織が心配だったからね」

「もしかして……話聞いてた?」

「いや。そこまでは……なに? 二人で聞かれたら困る話でもしてたわけ? たとえば……僕の悪口とか」

 無邪気に悪戯っぽく言う彼女はとても愛おしかった。俺は彼女の咄嗟の冗談にうまく返すことができず、ありきたりな否定の言葉を返すことしかできなかった。〈つまらない男だと思われただろうか〉そんな一抹の不安を抱えながらも、駆けていった詩織を追って流々香と並び歩き、くだらない会話を交わす、そんなひとときがたまらなく愛おしかった。

心太(ところてん)、詩織って研究室の場所知ってるのかな」

 つと流々香が言った。あっと思い、流々香と顔を見合わせると、慌てて詩織を追いかけた――。

「おじさまどこですの~。いったいここはどこですの~。わたくしは誰ですの~」

 ふざけたことを宣いながら彷徨い歩く詩織の姿があった。しかし独り言の激しい女だ。

 こちらの存在に気づき、「流々香!」と大きな声を出し駆け寄ってくる彼女。その瞳はうるうると水分を放出していた。「しかしこいつは目の中で玉葱でも栽培しているのかと思うほどよく泣く女だな」

「全部声に出てるよ」流々香が言った。

「えっ」

「あなた……澄ました顔をして心の中ではそんなことを考えていたのですね。しかもあろうことかわたくしのことを『こいつ』呼ばわりですって! 許せませんわ!」

 昂る詩織を落ち着かせようと、

「そんなことより早く頑徹さんのところへ行こうよ」と話題を逸らそうとした。それがいけなかった。

「『そんなこと』? 『そんなこと』とはなんですの!」

 火に油を注いでしまったのか、いまにも「キィーッ」と聞こえてきそうに地団駄を踏み、ややヒステリックに叫ぶ彼女を流々香が宥める。

 そのまま三人で頑徹さんのいるダイニングへと向かうが、後ろから四つの瞳に睨みつけられているのを第六感でひしひしと感じ取っていた。

 耳に優しく浸透するような美しく繊細な流々香の声とはほど遠い彼女の甲高い声は、キーキーと(やかま)しく金切り声のように思えてならなかった。


 ――研究室の扉を開けた瞬間、頑徹さんと紅葉さんが揃ってこちらを見た。先ほどまでの元気はどこへ行ったのやら、詩織は頑徹さんを前にした途端、金魚のように口をぱくぱくさせ、オットセイのようにあうあうと鳴いていた。

「おじさま……あの……先ほどは失礼いたしました……」

 しゅんと肩を落とした様子の詩織に、頑徹さんはぽりぽりと頭を搔きながら、

「あー、その……俺も悪かった。お前さんに悪気がなかったことは頭じゃわかっていたんだが、その……気持ちのほうが追いついていなくてな」と言った。「その……クッキー。うまかったぞ。不思議と美晴が作ってくれたものに味が似てたなあ」

 懐かしむように言う頑徹さんに釣られ、思わず感涙しそうになる俺の横で、紅葉さんがぼそっと「美晴さんも生地を冷やさずにクッキーを焼いたのね」と呟いたのを俺は聞き逃さなかった。慌てて、

「どちらも食べる人のことを思って作られた物だからじゃないですか!」と少しわざとらしく言った。

「少しあなたのこと見直した」流々香が言う。「たまにはいいこと言うんだね」

 流々香の紡ぐ何気ない言葉。その一言二言で、俺の星空(こころ)はさんざめいていた。流々香と詩織では雲泥の差だった。――“たまには”は余計だと思うのだが。


 その()俺たちはダイニングへ移り、食事を再開することにした。多少の気まずさは残っていたものの、重苦しい雰囲気ではなく、明るい雰囲気であるように感じた。俺の心持ちのせいだろうか。心なしか世界が明るく見えた。

 さすがに頑徹さんと話すのは気まずかったのか、詩織は紅葉さんと会話をしていた。似た口調(もの)同士波長が合うのか、会話が弾んでいるようだった。

「――ではわたくしたちのお姉さまに当たるというわけですわね」

「ええ、そういうことになるのかしら。もっとも……性能面で言えばあなたたちのほうが(あね)になるわけだけれど」

「面白いことを言いますのね」

「そうかしら? そういえばあなた“姿”を、見たことのあるものに変えられるのよね」

「ええ」

「興味深いわ……。どんなものにでもなれるのかしら?」

「『どんなものでも』とはいきませんわ。そこまで万能な力ではありませんの。なにしろ骨格や体格までは変えられませんから。ですから、現実的に化けられるものといえば人間、そして、それと近しい種族だけですわ」

「私にもなれるのかしら」

「ええ、もちろんですわ」

 そう言うと詩織の姿が紅葉さんそっくり……いや、紅葉さんそのものに変化(へんげ)していく。この能力(チカラ)があれば……不埒な考えが頭に浮かんだが、すぐに忘却(あたま)彼方(かたすみ)へと追いやり、二度と出てこないように鍵を掛け閉じ込め蓋をした。重たい漬物石を載せて。

「すごいわ。いこみきのようにそっくりじゃない」紅葉さんが感嘆の声を上げる。

「『いこみき』? ってなんですの?」

 紅葉さんは近くにあった鉛筆を取り、筆を走らせる。

「“已己巳己”互いに似ている物のことよ」

「そうなんですのね。口で言われてもなんのことやらでしたが、こうして文字で書いてみればなんてことありませんのね」

 以前紅葉さんの書斎にあった辞書か何かで目にしたような気がする。紅葉さんの書いた文字を見ながらそんなことを思っていた。ふと視界の端で、頑徹さんも身を乗り出し覗き込もうとしているのが目に入った。頑徹さんも二人の話に耳を傾けていたようだった。――別に傾けずとも聞こえてくるのだが。

 俺はときおり、談笑する二人のほうへ目をやりながらも、横目でちらちらと流々香を見ながら食事をしていた。流々香がただ黙ってそこにいるだけで、その姿を見れるだけで幸せだった。――流々香と会話を交わすことができればもっと幸せなのだろうが。

 ひととおり食事を済ませたころ、詩織が意を決したような顔をして頑徹さんに言った。――それまでもずっと話すタイミングを窺っていたのだろうか。

「これ……彼女のしていた簪ですわ。渡しそびれてしまって……」

 詩織は懐から取り出した、黒を基調として、淡い水色の氷の(けっしょう)をあしらった簪を頑徹さんに差し出した。頑徹さんは大きく目を見開き、驚いたような顔をすると、ぷるぷると両手を震わせながら大事そうに受け取った。

 詩織は俯かずにしっかりと頑徹さんを見据えて言った。

「肌身離さず持っていたのです。わたくしの犯した罪の証として。……名前の彫られた注文製作(オーダーメイド)の物でしたから。とても大切な物なのだと思いまして」

「ああ、間違いねえ。こりゃぁ美晴の(もん)だ。あいつがまだ小せえころにプレゼントしてやったやつでなあ。そんな大したもんでもねえのに……大人になってからも後生大事そうにしてやがって……」

 頑徹さんのくしゃくしゃになったかおは実に複雑怪奇で、懐かしんでいるのか、悲しんでいるのか、それとも、微笑んでいるのか、俺にはわからなかった。

 雨上がりの晴れ渡る空のように、パーッと辺りが明るくなったような気がした。二人の心に残った腫瘍(わだかまり)がすぐに消えることはないだろうが、春になってもとけきれずに残っている雪のように、少しずつ、少しずつ、ゆっくりとでもとけていくことを切に(こいねが)う。

 喜ばしいはずの光景に、ちくりと(いたみ)が胸を刺す。俺ははたして頑徹さんのように、白玖を、父さんを殺したあの男を赦すことができるだろうか。未来(あす)へと新たな一歩を踏み出す二人の横で、俺の心はいまだあの日の(きおく)に絡めとらわれていた。


 ――その日の晩。なかなか寝つけず渇いた喉を潤そうと、ダイニングへ飲み物を飲みに行く途中、研究室から光と声が漏れていた。

 紅葉さんと流々香と詩織が三人で集まって何かをしているようだった。少し気になりはしたが、構わずダイニングへ行き喉を潤すと、すぐに自室へと戻り床に就いた。

 目が冴えてしまい、なかなか寝つくことはできなかった。無理に眠ろうと思えば思うほど頭は熱を持ち、白玖の影が頭をチラついて仕方がなかった。

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