第四章・幽玄
研究室へ行く道中、見慣れたはずの廊下に妙な未視感を感じていた。流々香が隣を歩くからだろうか。彼女と会話を交わすことはなかったが、初めて隣を並び歩く彼女に密かに心躍らせていた。
一方、流々香は俺のことなどそっちのけで、ずっと下ろしたままだった綺麗な長い髪を頭の高い位置――顎の先端と耳の先端を結んだ直線の延長線上に当たるゴールデンポイント――でポニーテールに結び直しながら歩っていた。
俺より少し背の低い彼女に合わせ自然と歩幅が少し小さくなる。そんな些細なことにも幸せを感じていた俺の脳裏を、二人で幸せそうに笑う在りし日の父さんと母さんの姿が掠めていく。俺の心に実った幸せの果実は、こんな何気ない瞬間でさえもいつかかけがえのない瞬間になるのだ、と強く俺に訴えかけていた。
彼女とこうしていつまでも歩きつづけていたかったが、無情にも廊下はすぐに終わってしまう。そこの角を曲がればもう研究室はすぐそこに。足を止める甲斐性もなく、一歩一歩、幸せを噛みしめるように、いつもより小さい歩幅で歩いていった。
研究室に到着してすぐに紅葉さんと頑徹さんもやってきた。医務室で目覚めてからほとんど話せなかった頑徹さんと軽く挨拶を交わしていると、
「あなたたちには聴いてほしい。白玖たちの目的。そして真実を」と流々香が仰々しく言った。
「朔には少し話したけど……僕――僕らの正体は機械生命体なんだ。……もうお察しの通りだと思うけど。アンドロイドやロボットと言うほうがわかりやすいかな。といっても人間の手によって作られた物なんかじゃない。あなたたちが“神”と呼ぶ超越した存在にこの惑星を滅ぼすために創造されたモノ。白玖たちはそんなこと知らずに自分たちのことを人間だと思い込んでるけどね。白玖たちがこの惑星を襲ったのは白玖たちの故郷である星をこの惑星の住民によって滅ぼされたと騙されているからなんだ。そう。僕たちは“神”の掌の上で踊らされてる傀儡にすぎない」
「一つ、いいかしら」と紅葉さんが口を挟んだ。「“神”によって偽りの記憶をインプットされているのであれば、流々香はどうして操られていないのかしら」
「それは……僕にもわからない。僕は特別他の個体より記憶力がよかったから偽りの記憶をインプットされたという記憶が偶然残ったのかもしれない」
流々香の返答に、紅葉さんは眉を顰め釈然としない様子だった。
「少し腑に落ちないけれど……まあいいわ。あなたも私と同じ機械の体であることは紛れもない事実だものね」
紅葉さんの口から唐突に発せられた言葉をうまく飲み込めずにいるのに、なぜか妙に納得している自分がいた。初めからどこか違和感はあったのかもしれない。
「あなたたちは知る必要があるわ。この地球、そしてあなたたち人間の誕生の秘密について。あなたたちにはあまりの突拍子もなさに御伽噺のように感じるかもしれないわね。少し……いえ、長い昔話になるわ。楽にして聞いてちょうだい」
紅葉さんはそう言って椅子に腰を掛け、俺たちが腰を掛けるのを玉響に待ってから話した。
「そう、あれは遥か遠い遠い昔。この世に生命が誕生するよりもずっと前の話。そこにはただ広大な宇宙空間だけが広がっていた。いまのように空に明るく輝く星も、ひりひりと照りつける太陽もない。それはそれはとても深い、深い闇。それだけが世界のすべてだった。だけれどあるときね、なんの因果かしら。一つの生命が産まれた。それはとても、小さな命だった。“小さい”といっても宇宙規模の話だから、あなたたちからするとはるかに巨大な生命なんだけれどね。それから、何十年も、何百年も、いや……もっと想像もできないほど途方もなく長い時間だったかもしれないわ。悠久の時をずーっと……何もない広大な宇宙空間にすることもなくただ独り……さぞかし退屈だったでしょうね。あるときふと彼――いや彼女かもしれないわね。いまは便宜上“彼”としておきましょう。ふと彼は自分の能力に気がついた。自分の望んだものを、なんでも思い通りに創り出すことができることに。それから、長い時間を掛けて彼はたくさんのものを創ったわ。彼にとっては一瞬のことだったのかもしれないけれど。空に浮かぶ、あなたたちが星と呼ぶものも、惑星と呼ぶものもすべて彼が創ったものよ。そして彼はとうとう愛玩動物を創り上げた。そう、それはほんの退屈しのぎにすぎなかった。愛玩動物は最初は大した知恵を持たなかったわ。当然ね、知恵を与えられずに創られたのだから。超越した存在である彼にも、彼と同じような完璧な生命は創れなかったのか、愛玩動物は不完全な生命だったわ。放っておけばすぐに死んでしまう。だから彼は愛玩動物を管理するための生命体を創り出したの。そう、今度は決して死ぬことがないように機械の身体で知恵も与えてね」
あたかも自分で見てきたことのように詳らかに語る紅葉さんの話に「まさか……」と思わず言葉を漏らす。
「ええ、そのまさかよ。その時に創られた愛玩動物があなたたち人間、その始祖なのよ。……そして私も。あなたたちを管理するために創られた原初の機械生命体なの。いままで黙ってて悪かったわね」
不思議と、驚きよりも納得のほうが大きかった。
「では、流々香たちもその時に?」
「いえ、私が創られたときには彼女らはいなかったわ。この地球の管理も私一人に任されていたし……彼女らが創られたことも私はいまのいままで報されていなかった。いえ、いまも報されていないわね。これは私の推測だけど……“彼”はあなたたち人間を恐れたんじゃないかしら。人間はあまりにも文明が発展しすぎた。いつか自分の命を脅かすかもしれない。だからあなたたちを滅ぼすことにした。彼女ら機械生命体を利用してね」
「んな、バカな!」頑徹さんが声を荒らげる。
「……人類の技術や文明が大きく発達したときには宇宙人の存在があったのではなんて話もありますけど、もしや古代文明の発達や人類の発展などにも紅葉さんが一枚噛んでいたんですか?」
「繰り返すようだけれど私は原初の人類の誕生と同時期に人類を管理するためだけに創られた生命体なの。人類の生存に必要な最低限の知識以外与えられていないわ。当然、人類の発展に大きく寄与するような知識なんてものは与えられていない。人類の発明・発展は紛れもなく人類の手によるものよ。いまの私があるのも、ただ人よりも長い時間を掛けてたくさんのものを吸収したからにすぎない。もっとも……自分の体のことは識っていたから……機械工学、その一点については人類よりも遙かに進んだ知識と技術を持っていたことは間違いないけれど。私が人類の発展に干渉などしていないことはこの地球の機械工学がそこまで進歩発展していないことからも明らかでしょう」
「なるほど。“神”は思うがままに創造できるのであれば、なぜ偽りの記憶を植え付けるなんてまどろっこしいことをしたんでしょうか?」
「私にもわからないけれど……愛玩動物として創ったあなたたちが怖くなったから滅ぼせなんて命令は恥ずかしくてできなかったんじゃないかしらね。そんなことをしたら自分が本当は臆病なこともバレてしまう。私たち機械生命体に反逆される可能性も恐れたんでしょう。自分自身を偽るためにも彼女たちが自発的に人間を滅ぼすように仕向けた。それとも……人間と機械生命体の戦いをいまもどこかで楽しんでいるのかもしれないわね」
そう言った紅葉さんはどこか笑っているように見えた。
「自分で言っておいてなんだけど……私たちの戦いを楽しんでいる……と考えるほうが自然ね。その気になれば地球丸ごと滅ぼすことなんて造作もないでしょうし」
「どちらにせよ俺らが戦う理由なんて何一つねえってことだな」腕を組み黙って話を聴いていた頑徹さんが口を開いた。「そんな! そんな身勝手な理由で美晴は殺されたってのかよ!」
頑徹さんの握り拳はやり場のない怒りにわなわなと震えていた。
「……やるせないわね」ぽつりと紅葉さんが言った。
重たい空気に、恐る恐るといった様子で流々香が話す。
「……この話を僕の仲間にも伝えればきっとわかってくれると思うんだけど……連絡を取ろうにも通信装置がずっと以前から壊れてて連絡ができなかったんだ。白玖との接触には失敗しちゃったし……。それで僕のことをなおせた紅葉さんならもしかしたら通信装置も直せるかもと思ったんですけど……」
俺のことを決して名前で呼んではくれない流々香に、名を呼ばれた紅葉さんに嫉妬を感じていた。
「今朝も話した通りあれを直すのは難しいわね。稼働している物でも見られれば話は別だけれど……」
「そのことなんですけど僕にあてがあるんです。彼女なら話ができると思います」
恭しく話す彼女もまたいいものだ。
「あー、本当に大丈夫なのか?」と頑徹さんが心配そうに尋ねる。
「う……。白玖のことがあったばっかりだから信用ないかもしれないけど……今回は大丈夫。白玖のときのような“願望”じゃなくて“確信”だから。彼女が僕に危害を加えることは絶対にない」はっきりとそう言いきる言葉とは裏腹に、なぜか嫌そうな顔をしていた。「それに……白玖があれだけ敵意を剥き出しにしたのも朔がいたからだし……」
その言い草ではまるで俺が悪いみたいではないか。彼女の言葉に意地になり、
「俺も一緒に行くよ。流々香一人だとまた無茶しそうだし」と言った。
「話聞いてた? 彼女が僕に手を出すことは絶対にないだろうけどあなたはどうか知らないよ」呆れたような顔で冷たく言った。「またあなたを庇って傷つくなんて金輪際ごめんだからね」
彼女が心配であるというのは紛れもない本心なのだが、それよりも何でもいいから理由をつけて彼女と少しでも長く同じ時間を過ごしたいという想いが強かった。そんな俺の想いなど見透かしているようで、彼女の心が俺の持つ引力にひかれることはなかった。だのに、彼女の感情の潮だけは俺の引力によって高まったり静まったりしていた。
「一人では行かせらんねえってのは俺も同意だな」と頑徹さんが助け舟を出す。
「はあ」と流々香が珍しく大きなため息をついた。「忠告はした。どうなっても知らないから。今度は助けないからね」
深刻な話をよそに、俺は実に暢気なもので、流々香のため息を吐く姿に可愛さを、流々香と一緒に行けることに喜びを感じていた。