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世界終焉の日に君は何を想ふ  作者: 凄音キミ
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第二章・邂逅

 青く澄み渡る(そら)(もと)、頑徹さんと二人、(くだん)の森を目指し歩く。背中には長銃を携えて。

 昨日(きのう)の夕餉の時に紅葉さんから聞いた話だと、一昨日(おとつい)の晩から降りつづいていた細雪も昨日(きのう)の昼のうちには止んでいたようで、辺りに積雪は見られず今日(きょう)は朝から気持ちのいい快晴が続いていた。ぽかぽか陽気の中聞こえてくる、のどかな風景に見ゆるそうそうと流るる小川のせせらぎと、虫の(すだ)く声とに春の訪れを感じていた。


 いざ森へと足を踏み入れると雰囲気が一変し、冷たい空気がつんと頬をさした。それは、神社のような神聖な場所で感じる心まで洗われるような冷たく澄んだ空気ではなく、山奥にひっそりと佇む廃トンネルに足を踏み入れたときのようなそんな恐ろしさを感じさせるものだった。

 背中に担いでいた長銃をすぐに撃てるよう両手に持ち、冷たく恐ろしい空気を肌で感じる鬱蒼とした木々の中を、周囲の警戒をしながら連れ立って歩いていく。まだ昼間だというのが嘘のようで、どこか薄気味悪さを感じるほど仄暗く、ところどころには木の葉の上から重みで落下したと思われる雪の山がちらほらと残っていた。

 陰気な気配を感じさせるこの森はとても人が暮らしているような雰囲気ではなかった。

「しっかしこんなところに本当に集落なんてあるんですかねー」

 大きな背中で先を歩く頑徹さんに後ろから声を掛ける。

「さあな」と頑徹さんは振り返らずに歩きながら答えた。「ま、火のないところに煙は立たねえだろ。何も手がかりがねえしとりあえず前回襲撃のあった場所を目指すぞ」

「道はわかるんですか」

「あたりめえだ。犠牲者の墓でもあるんだからな」

 そう言ってから立ち止まってこちらを振り返り、

「この薄暗さだ、銃身のカバーは外すんじゃねえぞ。敵に居場所を教えるようなもんだからな。いつ襲撃があるともわからねえ、片時も気を抜くなよ」と真剣な眼差しで言った。

「了ー解」と元気よく返事をしてすぐに光が漏れていないか、手に持っていた銃の銃身にカバーがしっかりと付いていることを目視で確認する。

「目的地までそれなりに距離がある。途中でバテんじゃねえぞ」


 森の奥へと進むにつれその暗さはよりいっそう増していき、気づけば辺りは夜と見紛うほどにすっかり暗くなっていた。それに加え辺りはひっそりと静まり返り、自分たちの靴音だけが寂しく鳴っている。

 ふと頑徹さんが立ち止まった。先ほどとは違い、こちらを振り返る様子も話しかけてくる様子もない。

「どうかしました?」と立ち止まって声を掛けた。

「紅葉が言うには熊に襲われたって話だったが、それにしては生き物の姿が見えないどころか気配すら感じねえ」

 立ち止まったことでまた一段と静けさが際立ったのだろう。森の静寂(しじま)はあまりの静けさに恐ろしさを感じるほどで、目を瞑り、耳を澄ませても木の葉の揺れる音一つ聴こえてこない。シミュラクラ現象のような脳の錯覚ではなく、純然たる事実として、生い茂る木々の一本一本に目があり見られているのではないか、と思うほどの不気味ささえ感じられる。

「なんだか気味が悪いですね」

「ビビってんのか?」

 暗くて顔はよく見えないが、声の調子からにやにやしているのが聞いて取れた。

「別にそういうわけじゃないですけど」

「『帰らずの森』なんてまことしやかに囁かれているくらいだからな。ま、その正体もいまとなっちゃあ……」

「……戻ってこない方たちも無事に集落に辿り着けているだけだといいんですけどね……」

「どうだかなあ……。もうちょっとで目的地だ。そこまで行ったら少し休憩を取ろう」

 再び歩き出すと、辺りにはやはり足音だけが響いていた――


「よし、確かこの辺だったな」

 広場のようになっているところに出たあたりで頑徹さんが足を止めた。それなりの時間歩っていたため暗闇に目が慣れてきたのか、少しばかり夜目がきくようになっていた。

「犠牲者の方たちを埋葬したのはどの辺りなんですか?」

「ちょうどその木の根元の辺りだな」と指をさす。

 頑徹さんが指し示した場所へ行き、屈んで目を瞑り手を合わせた。犠牲者を悼む俺の耳は静寂(せいじゃく)に包まれていた。この時ばかりは恐ろしいほどの静寂(せいじゃく)に、身を委ねるような安心感を感じていた。

「供養は済んだか? 行くぞ」

 少し経ってから声を掛けられ(おもて)を上げると、巨大な黒い影が(いや)に目に付いた。じっと目を凝らすとそこには、ゆうに3メートルは超えるであろう巨体の熊の剥製――と思しきモノ――が吊るされていた。なぜだか自分でもよくわからないが、直感的に剥製であると認識していた。異様とも言えるその光景は、俺にはなんだか回向(えこう)のために亡くなった方へ捧げる供物のように思えてならなかった。

「頑徹さん! これ見てください!」と声を張り上げると、頑徹さんは何事かと慌てて駆け寄ってくる。

 頑徹さんはその奇妙な光景を、「なんだこいつぁ」と言いながらつぶさに調べていた。吊り下げられた熊の周りをぐるぐると回りながら観察していた頑徹さんがふーむ、と鼻を鳴らしたような声に続けて言った。

「獣除けか、はたまた人除けの(たぐい)か……」

「奴の仕業ですかね」

「十中八九そうと見て間違いはねえだろう。ここのところに強力なエネルギー弾が貫通したような丸く焼け焦げた痕がある」

 そう言って吊り下げられた熊の剥製の脳天を指す。

「しかし、これまた綺麗にくり抜かれてやがるな。こんな芸当ができる奴が他にいるとは思いたくねえが……最悪の想定はしておいたほうがいいかもしれねえな。そうでなくとも奴が他の武器を持っている可能性もある」

「引き返しますか」

 頑徹さんは俺の問いかけに、一瞬左上に眼を動かし考え込む様子を見せたが、決断を下すのは早かった。

「いや、調査は続行しよう。どのみち()けては通れねえ道だ。出直したところでこれ以上の戦力があるわけでもねえしな」

「わざわざこんなメッセージ性のあるものを残すくらいですから会話の余地はあると思うんです」

「一理あるな」今度はにやりと笑ったのがはっきりと見て取れた。「さて、いよいよ手がかりがなくなったわけだが……」

 ――その時目の端で何かが動いたような気がした。頑徹さんも気がついたようで、人さし指を立てて口の前に持ってくる。息を殺し、何かが動いたと見られる方向へと二人で向かっていく。辺りは静寂(せいじゃく)に包まれ物音一つとしてせず、動く影も見当たらない。ほどなくして、先を進んでいた頑徹さんが唐突に右手を差し出し俺の行く末を遮った。

「おい、朔。止まれ」

 そう言われ正面を見据えると、漆黒のローブを纏った何者かがこちらの様子を窺うように佇んでいた。こちらが気づいたことを気取(けど)ったのか、すぐに踵を返し走り去っていった。遠目ではあるが、武器の(たぐい)は構えていなかったように見えた。

「追うぞ」

 頑徹さんはそう言い間髪(かんはつ)()れずに走り出す。すぐさまあとに続いた。凄まじい速度で遠ざかっていく何者かであったが、こちらが見失うすんでのところで立ち止まり、こちらが追い付いたのを確認してから再度走り出した。嚮導するかのような動きに頑徹さんが訝しげに立ち止まる。

「妙だな」

「罠、ですかね」

「さて、な。鬼が出るか蛇が出るか。ただ、わざわざ姿を見せた以上こちらを誘っていることは間違いねえだろう」

「どうします?」

 一瞬の間があった。

「他に手がかりもねえし行ってみるしかねえだろう。たとえそれが罠だったとしてもな。警戒は怠るなよ」

「了ー解」

 周囲に気を配りながら見失わないように追従していく。しばらくは付かず離れずこちらを誘導するかのように振る舞う何者かであったが、突如として速度を上げぐんぐんと離れていき、ついには闇に混じって虚空へと消えてしまった。突然のことに呆気にとられたが、何者かが消えたと思われる方向を見やると奥のほうからうっすらと明かりが漏れてきていることに気づいた。

「向こうのほうが明るいですね」

「行ってみるか」

 胸の前で長銃を構え最大限の注意を払いつつ進み、段々と明かりに近づいていく。決して長銃からは手を離さない。


 やがて拓けた場所に出るとそこには燦々と木漏れ日の降り注ぐ集落があった。風はそよそよと柔らかに吹き渡り、先ほどまでの静けさとは対照的な木々のざわめきと、どこからともなく聞こえてくる「チチチチ」と鳴く鳥の声とが織りなす喧騒がどこか耳に優しい。

 それまでの陰鬱な雰囲気の森とは打って変わり実に麗らかなところで、その安穏な風景に自然と長銃を持つ腕を下ろしていた。

「ここが噂の――」

「あんたら、こげなとこまで何しに来なすった。そげな物騒(ぶっそ)恰好(かっこ)ばしよって」

 言いかけたところで不意に声をかけられ振り向くと、そこには睨むような相好の老夫が立っていた。驚きを表に出さないよう繕いすぐに長銃から手を離し、

「どうもすみません、お爺さん。俺たちはこことは別の集落から来ました。助け合うことができないかと思って。なにせこんなご時世ですから。この恰好は自分の身を守るためのものです。決してお爺さんたちに危害を加えるためのものではありませんよ」

 そう言いながら空っぽになった両手を宙に(ほう)ってみせると、耳が悪いのかこちらへ向けた耳に手を当てて話を聴いていたお爺さんの表情が心なしか和らいだように見えた。お爺さんは、

「ほー、そうかい、そうかい」と大きく頷く。「ありがてえ話だけんどもわしらに助けは必要なか。それと、爺さんじゃのーて婆さんだがの」

 そう言って眉を上げるお爺さんに咄嗟に、

「すみません」と返した。

「ジョークじゃよ」

 ほっほっと高笑いをするお爺さんを尻目に思わず苦笑いが零れてしまう。

「あまり不安を煽るようなことを言いたくないんですが、ついこの間もこの辺りで熊に襲われた方がいたり、ローブ姿の不審な人物が目撃されたりしています。ここもいつまで安全かわかりませんよ」

 顔を近づけ、耳元で優しく諭すように話す俺とは対照的に、ご老人が大きな声で、

「とんでもねえ、ありゃあ女神様だで」と顔を後ろに大きく引きながら言った。声を潜めるようにして続ける。「ここには女神様の加護があるけん。危険なんてなかろうもん。わしらがいま、ここでこうして暮らしてられるんも、全部女神様の加護のおかげですじゃ。ほんにありがてえ話だ。それにな、ここにはあんたらのように、外から来た(もん)も大勢おるが、わしらのように、昔から住んでる(もん)も、ぎょーさんおるでな。愛着も加護もあるこの地を、離れるなんて、考えられりゃあせん」

 歳のせいでうまく頭が回らないのか、ゆっくりと語るお爺さんの話をときおり頷きながら聴いた。

 『いったいどういうことだ』と言わんばかりに頑徹さんが首を傾げる。そこへ、どこからともなくローブの女が姿を現した。目元まで覆うように深く被ったフードの隙間から、ちらりと見え隠れする垂らした横髪は色鮮やかな江戸紫色をしていた。

「あんらあ、女神様だで。ありがたやあ、ありがたやあ」

「女神様はやめてっていつも言ってるでしょ。悪いけどこの人たちと大事な話があるから、行くね」

 白粉(おしろい)のような雪化粧をする高く(そび)える霊峰に、こんこんと湧き出る澄んだ天然水のような綺麗で透き通った彼女の繊細な声が、春の芽吹きをもたらす雪どけ水のように俺の心を芽吹かせる。

 “女神様”と呼ばれた彼女はこちらを一瞥すると、「着いてきて」と一言だけ発して歩き出した。道中すれ違う人々が皆口々に「女神様」、「女神様」と言うその様子に素直に感嘆し、

「随分と慕われているんだね」と先ゆく彼女に声を掛けたが、こちらをチラッと見たきり何も答えることはなかった。


 集落の奥にある小屋へと案内され扉をくぐると、窓が開け放しになっていたようで心地よい風がそっと頬を撫でるように吹き抜けた。優しい風を肌で感じながら腰を下ろした。

「お前さんにはいろいろと聞きたいことがあるが……なぜ俺たちをここに誘い入れた?」

 腰を下ろして早々(そうそう)頑徹さんが口を開いた。住民らに“女神様”とそう呼ばれる彼女はやや俯き、淡々とした口調で話す。

「……ここの集落はもう限界なんだ。噂が広まりすぎて僕一人の手には負えなくなった。知っての通りこないだもここに来る途中で襲われて亡くなった方がいる。僕一人ですべてを観ることはできない。食料にも限りがあるしこのまま人が増えつづければここで暮らすのにもいつか限界が来ると前々から考えてはいたんだ」

「そこでたまたま俺たちと出会ったってわけか」

「あなたたちは武装してたし落ち延びてきた感じじゃなかったから別の集落があることはすぐに見て取れた。それも武装して散策に出るくらい余裕がある、ね。それに……あなたなら信頼できると思ったから。僕と初めて会ったあの時僕に対する激しい怒りと負傷者に対する心配がひしひしと伝わってきた。だからあなたなら間違ったようには使わないだろうと思って犠牲者を少しでも減らすために武器を託した。あんななまくらじゃ僕たちに傷一つ付けることはできないから。そのあとあなたが一人で犠牲者を埋葬するところも影から見てた。信頼するにはそれで充分。手伝いたかったけど敵と誤解されてるようだったから出るに出れなかったんだ。本当は避難民の方が熊に襲われてたから助けに入っただけなんだけど。負傷者の治療をしようとしてるところにあなたたちがやってきていきなり襲いかかってくるし。あの時はとても話ができるような雰囲気じゃなかったし僕が何を言っても信用してもらえないだろうから誤解を解くためにも集落の様子を見てもらうのが一番だと思って」

 ぽつりぽつりと話す彼女ではあったが、一度話し始めると一息で話しきり、悲哀さを感じさせることなどはなく、ただただ淡々としていて、感情をいっさい表に出さないその様子はどこか機械的であった。その様相に不思議と心が惹かれていた。

 それまでずっと俯いていた彼女が(おもて)を上げ、ほんの少し声を張り上げた。

「ここからが本題なんだけどここの人たちをそちらで受け入れてほしい。ここよりもずっと安全なところで暮らしているんだろう? もちろん『タダで』とは言わない。僕に協力できることがあればなんでもする」

 “なんでも”とそう言う彼女に一瞬不埒な考えが頭をよぎりそうになったが、その考えが形になる前に急いで振り払った。

 頑徹さんは迷うことなくすぐに返事をする。

「こちらとしても、もとよりそのつもりだったからそいつぁ構わねえんだが……肝心の住民が女神様とやらを盲信していて話にならねえぞ。ついさっきも移住する気はねえと言われたばかりだ」

 それまでは淡々とした様子の彼女であったが、力強くはっきりと、

「僕が直接説得する」と言った。

 彼女が不意に見せた凛々しさに、“大和撫子”という言葉を思い浮かべていた。

 頑徹さんは「ふむ」と頷き、それから、

「こちらで受け入れる準備はしておこう。とりあえず紅葉……うちの“女神様”にも念のため話を通さなきゃだがな」と言った。

 “女神様”という言葉に反応してか、彼女は少しムッとしたが、どうやら頑徹さんは気づいていないらしい。

「一つ気になることがあるんだが……」と頑徹さんが続けた。「(くだん)の場所に吊り下げられていた熊の毛皮は嬢ちゃんの仕業か?」

「そうだよ」

「いま朔が背負(しょ)っている長銃で撃ったような痕があったが俺たちと出会す前に倒していたのか? それにしちゃあ、あの場には熊の死体が見当たらなかったが」

 彼女は黙って首をふるふると横に振る。

「俺たちと出会したあとに倒したってえなら同じような武器が他にもあるってことか? それなら戦力の増強にもなるしありがてえんだが」

 頑徹さんの言葉に彼女は少し逡巡している様子だった。

「まあいいか。信頼の証として多少手の内を晒すくらいは」

 そう言って彼女はローブの(した)から、弧を描くように大きく湾曲した一対の双小剣を取り出した。

「これ弓にもなるんだ」

 彼女が二振りの剣の柄の部分をはめ合わせると「パチッ」と小気味のいい音がした。一体となった二振りの剣の鋒と鋒を繋ぐように紫色の光が張られると、“弓”と言われて一般的にイメージするような弓の形になった。といってもその見た目はとてもユニークでありふれた(もの)とはかけ離れていた。

「どういう技術なんだ? こりゃ」と頑徹さんが首を傾げる。

「さあ」と彼女は両手を横に広げた。「僕にもわからない。僕たちは与えられた物を使ってるだけだから」

 彼女の弓を「ふーむ」と唸りながらまじまじと眺めていた頑徹さんが、

「それで? いつまでそのローブを着ているんだ? お前さんの正体には薄々感づいてはいるが」となんの脈絡もなしに言った。

 目を伏せ沈黙を守り、韜晦(とうかい)したままの彼女の様子に、頑徹さんがふーっと大きく息を吐いた。

「話せない、か。まあ、いまはそれでもいいだろう。お前さんが悪い奴じゃねえことは十二分にわかった。だがせめて名前くらいは教えてくれねえか。どうにも不便でな」

 頑徹さんの問いに彼女はすぐには答えず、少し経ってから答えた。

「……流々香(るるか)

「流々香、か。かわいい名前じゃねえか」

 おちょくっているのか本心なのかははっきりとしなかった。頑徹さんのその言葉に、

「セクハラだよ」と彼女が今度はわかりやすく口を尖らせていた。

「いまのもセクハラになんのか」と頑徹さんが耳打ちをしてきたので、

「俺にわかるわけないじゃないですか」とぞんざいに返しておいた。

 頑徹さんが俺たちの名前を流々香に伝えるとすぐに、

「それじゃ僕はみんなを説得してくるから」と腰を上げ行ってしまおうとした。俺はそんな彼女に、

「俺も着いていってもいいかな」と慌てて声を掛けた。

『なんで?』と言わんばかりの冷たい眼差しをこちらに向ける彼女の瞳は、鮮麗な今紫色をしていた。

 彼女の氷のように冷たい眼差しに気圧され、

「や、その、変な意味はないんだ。ただその、俺たちの拠点に移り住むことになるわけだし、どんな人たちがいるのか把握しておく必要があると思って」としどろもどろに続けた。

「……好きにすれば」

 冷たい目をしたまま、聞こえるか聞こえないかくらいの非常に小さな声で呟くと、ふいっと顔を背け外に出ていってしまった。

 頑徹さんは窓辺へと移動し、頭をぽりぽりと搔く。

「あー、俺はここで休んでるから二人で行ってきていいぞ」

 慌てて彼女を追いかける俺の背後で、鳥の気を惹こうとしてか、頑徹さんが「チチチチ、チチチチ」と囀る真似をしていた。


 流々香を追って外へ出ると、いままさにご婦人を説得しようとしている場面であった。

「話したいことがあるんだけどいいかな」

「おやまあ、女神様があたしたちに話しかけてくださるなんて珍しいこともあるもんだねえ」

 彼女がぶっきらぼうなのは俺に対してだけじゃないとわかり安堵する自分がいた。

「実は……」彼女は小屋で俺たちにしたのと同じような説明をする。

「そうかい。女神様が決めたことなら私たちは反対なんてしないよ。いままで一人で全部背負わせて悪かったね。これからはあたしたちにも力になれることがあれば気兼ねなく言っとくれよ」

 ご婦人は「女神様」と口では敬っている割には流々香の肩に手を回し、随分と気さくな様子だったが、流々香もさほど嫌そうな感じではなく、むしろ嬉しそうにも見えた。気のよさそうな気さくなご婦人は、流々香とはまったく違うタイプだが、案外相性がいいのかもしれない、とその光景を見ていて思った。

 その()も一人一人丁寧に説得して回る流々香の姿に、話し方こそぶっきらぼうではあるがその実、不器用なだけなのかもしれないと思うようになっていった。

 説得して回った中には父親の脚に必死にしがみつく、まだ年端も行かない少女の姿もあり、その悽愴な姿になんだかいたたまれない気持ちになった。

 彼女の信頼が厚いためか説得自体はスムーズにいったのだが、なにぶん住民の数が多かったため、最後の一人の説得を終え二人で頑徹さんの待つ小屋へと戻るころにはすっかり夜になっていた。……“二人で”といっても彼女の後ろを勝手に着いていくだけなのだが。

 小屋へ戻って早々に頑徹さんが口を開く。

「思ったより遅かったな。待ちくたびれて首が天井まで届くかと思ったぞ」

「一人一人説得して回ってましたからね」

「道理で遅かったわけだ。そりゃあ効果覿面だっただろう」

「皆さん二つ返事でOKですよ。ところで頑徹さんはあれからずっと鳥の鳴き真似をしていたんですか?」

「アホか。そんなわけねえだろ」と軽く頭を(はた)かれツッコマれる。

 そこへ、ガチャリ、と扉が開き一人の女性がやってきた。ちょうど(はた)かれるその瞬間を目撃されたようで、やってきた女性は目を丸くしていた。少し気まずそうに、

「失礼」と言って話した。「女神様、食事を用意したんだ。たまにはみんなで一緒に食べないかい。もちろんお二人さんも一緒にね」

 そう静かに微笑むのは先ほどの気さくなご婦人であった。


 広場へ案内されると三台の長卓がちょうど合同の記号のように平行に並べられていた。長卓にはずらっと人が並んで座っており、数十名の住民が一堂に会しているその光景は、煌めく月明かりと揺らめく篝火とに照らされどこか幻想的であった。

 長卓の上にはたくさんの料理が置かれていて、流々香が目を丸くして、

「どうしたの。こんなにたくさん」と尋ねた。

「なーに、いつか女神様に食べてもらおうとみんなそれぞれ少しずつ切り詰めていたのさ。食事をしているところを見たことがないし、私たちのために無理をしているんじゃないか、ってね」

 流々香が申し訳なさそうに俯くが、ご婦人は構わずに、

「日持ちする果物や干し肉ばっかりで悪いね」とあっけらかんと笑っていた。

 住民たちも流々香の姿に気づいたのか、あちらこちらから驚くような声とひそひそと話す声が聞こえる。

 ご婦人に真ん中の長卓の一番端の席に着くよう促され、頑徹さんは俺の隣の席へ、流々香は俺の(はす)向かいの席へと座った。

 その場を仕切るご婦人に、

「おやっさんは酒飲むだろ? 女神様と坊っちゃんはオレンジジュースでいいかい?」と陽気に尋ねられる。

 それぞれが返事をし、飲み物が俺たちの眼前へと運ばれてくると、ご婦人が広場の中央に躍り出た。胸の前でジョッキを持ち、高らかに宣言をした。

「女神様と客人に対する感謝! 新天地への出立と、これからの安全を願って! 乾杯!」

 ご婦人が高くジョッキを掲げると同時に一斉に、「乾杯!」とあちこちから声が上がった。俺も見様見真似でオレンジジュースの注がれたコップを高く掲げた。オレンジジュースを一口だけ飲み、さっそく目の前に置かれた熊か、鹿か、何かの獣の肉を燻製にしたような物に手を付ける。よく燻されており、大変香ばしい匂いの肉を頬張る俺の横では、俺と同じ物を食した頑徹さんが「酒の肴にちょうどいいな」と言いながら一人お酒をぐびぐびと飲んでいた。

 自分でも気づかぬうちに、いつしか流々香を目で追ってしまっていた。食事をする彼女の(たお)やかな一挙手一投足に心がさんざめく。始めは果物を手に取り一口二口と口に運んでいたが、それ以降はほとんど料理には手を付けておらず、見かねて声を掛ける。

「流々香、この料理美味しいよ」

「馴れ馴れしい。勘違いしないで。僕はそこの大柄の男を信頼しただけ」と強い口調で流々香は言った。

 予想外の返答に面を食らってしまう。

「あなたのことまで信用したわけじゃない」

 彼女がそう吐き捨てるように言うと、頑徹さんが「がはは」と大口を開けて笑った。そんな頑徹さんに彼女は冷たく、

「いい気になってるとこ悪いけど敵意があるかどうかも確認せずにいきなり斬りかかってくるあなたもどうかと思うけど。僕だったから防げたけど相手によっては死んでてもおかしくなかった」と言い放つ。

「頑徹さんも言われてますよ」と彼女に便乗するように言う。

「うるせえ」と少し不貞腐れた様子で頑徹さんは言った。「第一ありゃあちょいと小突いてやろうと思っただけで本気で殺す気なんて――」

「知ってる。ちょっとからかっただけ。それにしてもあれは『小突く』なんてレベルじゃなかったけど」

 素っ気なく流々香は言った。彼女の冗談に驚くと同時に、人間味を感じさせる一面に、素顔も知らぬ彼女のことを愛くるしいと思っている自分がいた。

 喧々囂々とする騒めきの中、流々香を横目に料理を食べ進めていると、ことさら(どよ)めき立つ声が聞こえた。そちらの賑やかなほうへ振り向くと、遠くのほうで昼間話したお爺さんが「宴じゃ、宴じゃ」などと騒ぎ立て、両手に持った酒を浴びるように飲んでいた。隣の席の頑徹さんもその様子を見ていたのか、もし口に酒を含んでいれば吹き出したであろう勢いで失笑し、口元に笑みを浮かべたまま「元気な爺さんだな」と呆れたように言っていた。かくいう頑徹さんもかなりの量のお酒を飲んでいるようだった。

 そんな折、ふと流々香が席を立った。やはり彼女の所作をついつい目で追ってしまう。テーブルから少し離れたところでご婦人が機を狙ったように流々香に話しかけた。聴き耳を立てているわけではないが会話が聞こえてきてしまう。

「あまり箸が進んでないようだけど……お口に合わなかったかい?」

「気を悪くしたならごめんなさい。元々僕は食事をあまり必要としないんだ。とても美味しいよ」

「いいんだよ、無理しないでおくれ。こうして女神様と一緒に食事ができるだけで嬉しいもんさね」と屈託のない笑顔で答える。「女神様とともに食卓を囲む日が来るなんて夢にも思ってなかったよ。どこか近寄りがたい雰囲気があったからね……。これもあの二人のおかげかねえ」

「どうしてそこであの二人が出てくるの?」

「どうしてってそりゃあ――」

 二人のやりとりを眺めていると遠くのほうで「おーい!」と誰かが誰かを呼ぶ声がした。そちらを遠目に見ると先ほどのお爺さんが泥酔して倒れ込んでいる様子だった。

「っと。悪いね、ちょっくら行ってくるよ」

 ご婦人が話を切り上げ駆けていく。

「なにやってんだい、あんた! 奥さんにも飲みすぎるなって言われてただろ!」と叱責する声が遠くのほうから聞こえた。

 流々香はというと、駆けていくご婦人を見送ると輪の中から外れるように木陰へと移っていった。

 気づけば俺の隣では、酔いが回ったのかいつの間にか頑徹さんが(つくえ)に突っ伏し眠りこけており、辺りを見渡せば、夜も更けお開きになったのか人も疎らになっていた。


 何かに引かれるように流々香のほうへとそぞろ足が向く。先ほど彼女が移動したはずの木の根元には姿が見えず、どこへ行ったものか、と思っていると、一陣の風がびゅうっと吹き、上のほうからぱたぱたと布がはためくような音が聞こえてきた。

 音のするほうを見上げると、視界一面に満天の星空が飛び込んでくる。眼前に広がるその雄大で、カラスアゲハの体色を思わせる鮮やかで吸い込まれそうな深い色をした夜空は距離感を狂わせ、まるで空がそのまま落っこちてきたのかと思えるほど身近にあるようだった。届くはずもない夜空へと思わずこの手を伸ばしてしまうような、そんな光景だった。

 恐ろしさなど微塵も感じさせぬ冴えた空気が吐く息を白く染める。夜空に(ちりば)められたきらきらと瞬く星々に負けじ劣らじと、燦々と明かりを放つ満月とちょうど重なるように、漆黒のローブを纏う彼女は丈夫な枝の上に両手をついて足を投げ出した状態で腰掛け、星降るような夜空に淑やかに浸かっていた。

 心臓がどくんと音を立てて跳ねる。突風に曝されたからか、彼女が一貫して被っていたフードは脱げており、月明かりに照らされた鮮やかな江戸紫色のポニーテールが夜風にゆらゆらと揺れていた。それはさながらこごえる風に揺蕩うヒヤシンスのようで、凛々しくも美しくもあった。美しい髪を夜風に靡かせる、満月というキャンパスに描かれた彼女の奕奕(えきえき)とした艶姿は、夜空に咲いた一輪の百合の花のようにさえ思え、彼女という小さな存在が放つ無限大の存在感(かがやき)は俺の身も心も魅了してやまなかった。

 恍惚も束の間、流々香はすぐにフードを深く被り直してしまう。俺はそれを残念がりながら見つめていた。軽快な身のこなしで木の上へ登っていき、流々香の隣に腰掛ける。すると、ここからは辺りが一望できることに気がついた。

 隣に腰を掛けても流々香は特に反応することはなかったが、なぜだか彼女のほうを見ることを憚り、正面を向いたまま声を掛けた。

流々香(きみ)は寝ないの?」

 返事はない。あまつさえ物理的に距離を取られたのが横目に見え、「はは」と乾いた笑いが漏れる。彼女はまるで身を守るかのように、自分の殻に閉じこもるかのように小さく体育座りになっていた。

 ――万有引力。すべての物質は互いに引き合う力を持つはずなのに、不思議なことに、彼女の持つ引力に俺の心だけが一方的にひかれ、彼女の心は彼女自身の持つ斥力によって俺から離れていってしまっていた。引力と斥力が同時に同じ方向(ベクトル)に働くなど物理学的……いやそもそもの二つの言葉の定義としてあり得ないはずなのだが。俺の心はこんなにも彼女に強くひかれるのに、どうして彼女の心は離れていってしまうのだろうか。もどかしさが胸に募る。

「さすがに傷つくな」

 そう呟くが、彼女はそれにも反応しなかった。その時俺は、〈彼女との間には同符号の電荷を持つ荷電粒子間に働く静電気力のような何か大きな隔たりがあり、触れられるほど近くにいるはずの彼女へとこの手を伸ばしてみても決して届くことはない。むしろ“彼女のそばにいたい”とそう強く願うたびに、俺と彼女の間に働く静電気力(ふしぎなちから)によってますます彼女は離れていってしまうのだ〉と、確信めいたものを感じた。

 彼女の態度から見るにやはり嫌われているのだろうか。会ってからまだ間もなく、嫌われるようなことはまだしていないと思うのだが。今度は彼女の仔細な変化も見逃すまいと彼女のほうへやや向き直り、〈俺と話をすること自体が嫌なのかもしれない〉と心の奥底では思いながらも慎重に話題を選び、恐る恐る話しかけた。

「いつもこうして寝ずの番をしているのかい」……相変わらず返事はない……が、非常に小さく頷いたように見えた。少しほっとする。「今日は俺が代わるからたまには休みなよ」

「……どうして……どうして僕に構うの?」

 か細い声でこちらを瞥見することもなく正面を見つめたまま彼女は言う。

「ごめん、迷惑、だったかな」

「そんなことは……ないけど……」

 俯き、ごにょごにょと蚊の鳴くような声で言う彼女の言葉を聞き逃さないように神経を尖らせていた。彼女の真意はわからないが、少なくとも拒絶されているわけではないとわかり安堵する。彼女の「どうして?」という問いの答えが自分でもよくわからず、

「なんだか君のことを(ほう)っておけなくて」とありのままの気持ちを晒した。

 彼女は顔を上げ、こちらを見ずに、

「……さっきも言ったけど僕はまだあなたを信用したわけじゃない。あなた一人に任せて眠るなんて……できるわけないじゃない」と言った。

 調子が戻ったのか今度ははっきりとした声だった。

「なら俺も朝まで付き合うよ。もちろん君が嫌じゃなければ、だけど」

「……好きにすれば」

 そう言って顔を背ける彼女は三度(みたび)、非常に小さな声だった。

 それからはとくに話すでもなく、こちらから距離を詰めることも、ましてや彼女のほうから距離を詰めてくることなどありもせず、一定の距離感を保ったまま、辺りに異常がないか、とぼーっと周囲を見渡していた。

 空に瞬く星々もかすみ、明けの空が白んだころ、不意に大きな欠伸が出た。

「……眠いなら寝れば」

 どこか素っ気なく流々香は言う。だが俺は、彼女のほうから話しかけてきてくれたことがとてつもなく嬉しく、たったそれだけのことで馬鹿みたいに舞い上がり、地に足がつかないでいた。――木の上に腰掛けているのだから当然と言えば当然なのだが――

「なんでだろう。少しでも君と長くこうしていたくて」

 口をついて出た言葉は音になって初めて歯が浮くようなセリフであったことに気がつき、思わずかーっと赤面するほどの恥ずかしさに見舞われ、どうにもいたたまれなくなり顔を伏せる。……恐る恐る彼女のほうを見るが、何事もなかったかのように平然と正面を見つめていて、さほど気にしてはいないように見えた。

 ひょうひょうと吹く風に乗ってそよそよと漂い薫る(かのじょ)の匂いが俺の鼻と心をくすぐる。彼女を構成するそのすべてが俺の目を、耳を、鼻を、脳を通り抜け、骨の髄まで沁み渡り俺の心に彩りを灯す。

 明けの空にぽっかりと浮かぶ、膝に頬を当てるように体育座りをし、フードの端から覗く江戸紫色の麗しい横髪が風に揺れる彼女の横姿の、水面(みなも)に揺蕩う春花秋月の鏡像のような美しさと、それでいて、いまにも蜃気楼のようにゆらゆらと揺れて消えてしまいそうな儚さを併せ持つ、漆黒のローブを纏っていることなど忘れさせるほどの不思議な魅力に、俺の心は羽化したばかりの蝶の羽のように大きく羽撃いていた。

 鏡像と蜃気楼との間を揺らぐ彼女の不安定さは、ほんの一つのきっかけで彼女の存在そのものが風に吹かれた泡沫(うたかた)のようにふっと消えてしまいそうに感じさせ、雨上がりの(そら)に薄く架かった虹のようにどこか朧げで、どこか現実味がなく、思わず幻なのではないかと疑ってしまうような彼女の纏う儚く幻想的な雰囲気に、俺はそれ以上話しかけることができず黙って見つめていた。

 そんな俺とは相反するように遠くの空をじっと見つめる彼女の瞳に、俺の実像(ひかり)映る(とどく)ことはなかった。


 朝日も昇り、住民がわらわらと起き出してくる。どうやら昨日の片付けをするようで、そういえば頑徹さんはどうしただろう、と広場を見渡すが見当たらない。ちょうどそこへ気さくなご婦人がやってきたので、木から飛び降り挨拶を交わした。

「頑徹さんを知りませんか」

「おやっさんなら昨日の小屋で寝てるだろうよ。泥酔してて運ぶのがよいじゃなかったさね」

「そうだったんですか。すみません、ご迷惑をお掛けしました」

「いいんだよ。あんたらにゃこれから世話になるんだからね。女神様のこともよろしく頼むよ」

 颯爽と去っていくご婦人を〈相変わらず気持ちのいい女性だな〉と思いながら見送り、小屋へと戻った。


「おう朔坊、朝帰りとはやるじゃねえか」

「馬鹿なこと言ってないで一旦拠点に帰りましょう。紅葉さんに話さないと」

「言うようになったじゃねえか。朔坊も大人の階段を登っちまったか。ついこの間まではこーんなに小さかったのになあ」

 頑徹さんが大袈裟にジェスチャーをしてみせる。

「――彼にもセクハラするんだ」

 いつの間にか背後に流々香が立っていた。

「いまのもセクハラか?」

「セクハラですね」

『マジか』と頑徹さんは言いたげな顔をする。

「冗談ですよ」と俺は笑う。「別に俺は気にしてません」

「そうやってあなたが甘やかすから助長するんじゃないの」

 何やら冷ややかに手厳しいことを言っていたような気したが、正直彼女の話の内容などどうでもよく、流々香のほうから話しかけてくれたことが俺にはただただ嬉しく、心に満開の幸せを感じていた。

 耳から入った言葉は咀嚼されることなくそのまま体内を通り抜けると、尻からぷうっと放屁となって出ていった。流々香は飛び上がるように「くさっ」といままでで一番大きな声で言い、軽蔑した眼差しをこちらに送る。

「サイッテー……」と氷輪のように煌びやかな今紫色の瞳でこちらをキッと睨みつける彼女もまた、パープルローズを思わせる美しさだった。

 そうこうしていると頑徹さんが笑いながら、

「冗談はさておき……」と口を開いた。「ひとまず拠点に帰って紅葉に話をつけてくるか」

「僕はみんなと移住の準備を進めておくよ」

「先立つもんだけでいいぞ。大抵の(もん)は向こうにひととおり揃ってるからな。昼過ぎには戻ってこれると思う」

「わかった。みんなにもそう伝えておくよ」

 せっかく流々香のほうから話しかけてくれたというのに、俺は完全に返事をするタイミングを見失っていた。いまだ、返す言葉も思いついていないのだが。

 

 その()、流々香にしばしの別れを言い、頑徹さんと二人帰路へと着く。森は相変わらず薄暗かったが、自分の心持ちのせいか、集落の存在を確認したからか、来た時とはだいぶ印象が変わっていた。

 何事もなく拠点へと帰り着くとすぐに紅葉さんに話をつけた。そして、すぐに集落へと舞い戻り住民の方たちの護衛をしながらまた拠点へと帰るのだった。昨日(きのう)今日(きょう)で突然の話だったが、元々身軽だった者も多かったからか移住は思いの(ほか)あっけなく、あっという間に終わった。

 ひととおり住民を案内し終えたころ、流々香が遠い目をして、

「僕は集落に残ろうと思う。噂が広まってしまった以上それを当てにして目指してくる人もいるだろうし……それに僕のことをよく思わない人もいるだろうしね」と最後のほうは聴き取るのがやっとなほど尻すぼみに言った。

 突然の、予想外の提案に俺はショックを隠しきれずにいた。

 動揺する俺の横で頑徹さんが、

「あー、それなら大丈夫じゃねえか。俺らのところにゃ『帰らずの森』なんて噂が入ってきてる」と言った。

 そう言ってすぐに何か思いついたように、「そうだ」とぽんっと手を叩く。

「森の中に吊り下げられてた熊があっただろ。アレを森の入り口のもっと目立つとこに吊るしといたらどうだ? そうすりゃ気味悪がって近付く奴ぁいねえだろ」

「でもあれはあそこだから意味が……」と流々香はしばらく何やら考え込んでいる様子だった。「……そうだね、あとで目の着くところに移動させておく」

 煮え切らない様子の流々香に畳みかけるようにして頑徹さんが言う。

「避難民の中にはお前さんを心の支えとしている奴もいるんじゃねえのか? 嬢ちゃんがそばに居てやることが一番、そいつらのためになるんじゃねえかな」

 あまり気乗りしない様子の流々香だったが、頑徹さんの説得に折れたのか、

「……そういうことなら……念のため数日は様子を見るよ。新しく来る人がいないとも限らないし」と言った。

 胸の奥底から込み上げてくる嬉しさは一入(ひとしお)で、いまにも外へ(あふ)れ出そうだった。

 頑徹さんが頭をぽりぽりと搔きながら、

「そういや嬢ちゃんの部屋の割り当てがまだだったな。朔、紅葉のとこまで連れてってやってくれねえか」と言う。

「頑徹さんは一緒に行かれないんですか」

「ん? ああ、俺はちょいと野暮用があってな」

 どこか白々しい頑徹さんに「そうですか」と返事をし、流々香に「それじゃあ行こうか」と声を掛けると彼女は黙って頷いた。

 俺とは少し幅の違う足で後ろを歩く流々香を気にかけ、ちらちらと後ろを確認しながら紅葉さんのいるであろう研究室へと案内する。会話はなかったが、彼女とともに歩いているというその事実だけで、俺の心にはなみなみと注がれた喜びが満ち(あふ)れていた。

 研究室の前へと辿り着き、「失礼します」と外から声を掛けると、中から「入っていいわよ」と返ってくる。

 紅葉さんは俺たちが入室してすぐに“彼女”に気づいたようで、開口一番、

「あなたが例の……」と独り言のように言った。

「すみません、紅葉さん。流々香もここで――」

「流々香? あなた流々香というの?」

 紅葉さんは流々香の名前を耳にした途端俺の言葉を遮り、鬼気迫る形相で流々香に迫るが、流々香は臆面した様子もなく非常に落ち着いたもので、

「そうですけど」と気にも留めない様子だった。

「よく顔を見せてもらえないかしら」

 紅葉さんはそう言って流々香の肩に手を置き顔を覗き込もうとした。その瞬間、流々香は肩に置かれた紅葉さんの手を素早くバシッと振り払った。間を置かず、

「「ごめんなさい」」と二人同時に言った。

 紅葉さんはしゃくしゃくとした様子で、

「私のほうこそ悪かったわね。あなた、どこかで会ったことないかしら」と言う。だが、その顔はいつになく真剣だった。

「あなたと会うのは初めてですけど」

 はっきりとそう答える流々香は、少し訝しそうに目を細めていた。

「そう……そうよね……」

 どうも納得がいかない様子の紅葉さんに声を掛ける。

「どうかしました?」

「いえ、彼女の名前に聞き覚えがあったものだから。割と特徴的な名前だから記憶(メモリ)に残っているはずなんだけれど……」

 過去の記憶を辿っているのか、何やら一人でぶつぶつと言いながら考え込んでいる様子だった。そんな紅葉さんを置いて、流々香に「君の部屋のことはまたあとで確認しておくよ」と声を掛け、研究室をあとにした。

 研究室を出てすぐに流々香が一度集落へ戻ると言い出すので、あまり長く引き留めるのも悪いと思い、せめて見送りだけでも、と後ろを着いていく。

「それじゃあ」とあっさり別れを告げ行ってしまう彼女の姿に、なんだかどこか遠くへ行ってしまうような、もう二度と帰ってこないような、そんな不安を覚えて、少しずつ小さくなっていく彼女の後ろ姿からいつまでも、いつまでも目を離せずにいた。

 一旦彼女と別れてからは、そんな不安を希釈するように、心にぽっかりとドーナツみたいに空いた切り取って捨てることのできない穴を埋めるように、また逢える日をいまかいまかと心待ちにし、来る日も来る日もひもすがら流々香の去っていった方面へ立ち、彼女が戻ってくるその日をずっと待ちつづけていた。

 ――数日後、言葉通り(つつが)なく彼女は拠点へやってきた。待ちかねて、こちらから様子を見に行こうと思った矢先のことだった。

 朝方、こちらへやってくる彼女の姿が遠目に見えた。それだけのことで、空へ浮き上がってしまうほどに心と肩がすっと軽くなり、嬉しさのあまり駆け寄ろうとするが、何を話せばよいかわからずその場に立ち竦む。彼女が近寄ってきてからもなお、その場から動けずにいた。そんな俺に、見向きもせずに行ってしまう彼女のほうを振り向くことができず、声を掛けようと空中に差し出しかけた右手を、中途半端な恰好で宙に浮かべたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。

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