序章・追憶
作中、一部パロディや他作品のネタが含まれます。あらかじめご了承ください。
しんしんと降りしきる粉雪が辺り一面を白く染める真冬の夕暮れ。あまりの寒さに、首にはチェックのマフラーを巻き、赤い手袋をはめ、グレーのコートを纏う私の前を、息子が勢いよく半袖で駆けていく。
「ママー! はやくー! こっちこっち!」そう叫ぶ息子の口からは白い吐息が漏れていた。
拡声器のように象った右の手を口元へ持っていき、
「朔! 走ると危ないわよー!」と声を張り上げた。口元にやった手を今度は右の頬に持っていき、頬杖をつくような恰好でため息交じりに呟く。「それにしても元気ねえ、いったい誰に似たのかしら」
思わず自分の口から漏れ出たため息もまた、真白に染まっていた。
「君の若いころにそっくりじゃないか」と私より少し小さな歩幅で隣を歩く夫が笑う。
「そんなことないわよ。昔からお淑やかじゃない」
そんな他愛のないことを言い合いながら息子のもとへと歩み寄る視界の端で、ジェットコースターの看板に『運行休止』と書かれた紙が大きく張り出されていた。路傍には除雪されたと見える雪が堆く積み上げられており、〈この降り積もる雪のせいだろうか。もとより息子は身長制限のために乗ることは叶わないので、私たちには関係のない話だが〉などと思案をしていると、息子が服の裾を無邪気な笑顔を浮かべながらぐいぐいと引っ張り、
「ねーママ、次はこれに乗ろー」寒さのせいか息子の頬は赤みを帯びていた。
「はいはい、そんなに慌てなくても大丈夫よ」と息子に声を掛ける一方で、アトラクションの入り口前に設置されている案内板に目を通す。……「あら、二人乗りじゃない。あなた、どうする?」
「僕はいいよ。そこのベンチで待ってるから。二人で行ってきなよ」
「じゃあ、ちょっと行ってくるわね。外は寒いから、これ」と首に巻いていたマフラーを夫の首に掛ける。
「ありがとう」
夫はそう言って優しく微笑んだ。
雰囲気作りのためか、アトラクション内はルーメン値が抑えられ小暗くなっていた。座席へ着くと『安全のためしっかりとシートベルトをお締めください』とアナウンスが流れ、しばらくすると従業員がやってきて安全確認をする。
「それではいってらっしゃいませ」
従業員に見送られ、ゆっくりとゴンドラが動き出した。目の前に備え付けてある銃を構え、次々に現れる怪獣――を模した的――を淡々と撃っていく私の横で息子は、
「こっちは僕が倒すからママはそっち倒して!」とキラキラとつぶらな瞳を輝かせて大はしゃぎしていた。無邪気にはしゃぐ姿がとても愛おしかった。
ゴンドラが出口に近づいたとき一際大きな叫声が聞こえ、それに続いてあちこちから悲鳴が上がった。この短い時間のうちにジェットコースターが運行再開したのだろうか。通常であればいるはずのアトラクション終わりの客に対応する係員の姿も見当たらず、ただならぬ気配に息子を連れて慌てて外に出た。まばゆい太陽の光に思わず目が眩み、不穏な気配とともに血生臭い匂いが漂ってくる。生々しい血の匂いが鼻腔にへばりつく。
……ぼんやりとした視界が晴れるとそこには、全身を深紅に染めた端整な顔立ちをした白髪の男が佇んでいた。息子より一回りほど上に見える男の年齢不相応な白髪がとても印象的で、まるで手袋かのように深紅を纏う左手に握られた日本刀と見られる物の鋒からは、ぽたぽたと真っ赤な液体が滴り落ちていた。雲の切れ間から差し込む西日が辺りを照らす。男の周囲には大勢の人が夥しい量の血を流し横たわっていて、降り積もった粉雪は鮮血に染まっていた。こちらを見つめる男の瞳は鮮血を体現するような赤色をしていた。
異様な光景に体が竦み立ち尽くしていると、息子が事態を察したのかぎゅっと目を瞑り怯えた様子で脚にしがみついてきた。我に返り、屈んで優しく抱き締める。包み込む私の腕の中で、息子の体はカタカタと静かに震えていた。ふと男の足元に目をやると、着ている服の色がわからないほど出血がひどい男性が蹲っているのが目に入った。ほどなくして男性が身につけているチェックのマフラーに気がつき思わず叫ぶ。
「あなた!」
「お前たち! き、来ては駄目だ!」夫は男の足首を掴み、弱々しいがはっきりとした声で振り絞るように叫んだ。「朔を連れて逃げなさい!」
「あなた……」
すぐに夫の意図を汲み取り、今にも泣き出したい気持ちをぐっとこらえる。「こっちよ」と息子の手を取り男と反対方向――ちょうど遊園地の出入口の方――へ向かって走り出す。それと同時に息子が小さな体でせいいっぱいに、
「パパー!」と叫んだ。
背後からは息子の叫び声に木霊するように夫の断末魔の悲鳴と思しき声が聞こえた……
しばらく走ったところで無理に手を引っ張って走ったせいか、
「ママ、待って。痛い、痛いよ」と息子が音をあげた。優しく声を掛けながら少し歩を緩める。どうしよう、このままでは追いつかれてしまう。刹那、凄惨な状況で表情一つ変えずにいた男の異常性が頭をよぎる。――この子を連れてあの男から逃げきれるだろうか。
「ママ、どうしたの? 怖い顔してるよ」
息子の声にハッとし冷静さを取り戻すと、何者かがこちらへと走り寄ってくる足音が耳に入った。男がすぐそこまで迫ってきているのだろう。
「ごめんね、もう少しだけ頑張ってね」と可能なかぎり平静を装い再度走り出す。
少し行ったところで曲がり角に案内所のような建物を見つけ、角を曲がると同時にその建物に駆け込んだ。急いで息子を隅に座らせ、着ていたコートを脱いで頭から被せる。震える両手でそっと抱き締めると、息子もかすかに震えていて、
「ママ?」と私の耳元で心配そうに声を震わせた。
「大丈夫、大丈夫だから。ここでじっとしていてね。必ず迎えにくるから。いい? ママが迎えに来るまで何があっても声を出しちゃいけないわよ。あなたならできるわ」
息子を安心させようと気丈に振る舞おうとしたが、声が震えてしまっているのが自分でもわかった。そんな不甲斐のない私に、黙してコクリと頷く息子の姿に、〈夫に似て利口な子だ。せめてこの子だけでも〉そう決意し、息子の頭を撫で立ち上がる。
行こう、少しでもあの男を息子から遠くへ。深く息を吐き、勢いよく外に飛び出す。白髪の男を遊園地の奥へと誘導するように逃げる。後ろを一瞥し白髪の男が追ってきていることを確認し、それから、振り返ることもせずに無我夢中で駆ける。遠くへ、遠くへ――
――どれくらい走っただろうか。辺りはすっかり暗くなっている。呼吸が苦しい。脚が悲鳴を上げる。体はとうに限界を迎えていたが、“息子への想い”ただそれだけが体を動かしていた。こんなに必死で走ったのはいつ以来だろうか。夫と過ごした学生時代が想起され、思わず涙が滲む。愛した夫の「ありがとう」と言った優しい声が、微笑んだその顔が、最後に聞いた悲鳴が、頭の中で鳴りやまない。
薄雪かそれとも薄氷か、何かに足を取られ、とうとう足が縺れ勢いよく顔から転倒した。痛みをこらえ、すぐに涙と痛みとでぐしゃぐしゃになっているであろう顔を上げ、涙を拭う。そこでようやく自分の目の前にある物に気がついた。うねるような絶望が押し寄せ思わず言葉を漏らす。
「うそ……どうして……」
そこには入園ゲートがあった。無我夢中で駆けるあまり、いつの間にか園内を一周してしまっていることにすら気づけなかった。自分の無力さに涙に咽び、心の中で息子に対してしきりに、「ごめんね、ごめんね」と泣きじゃくっていた。
すぐ後ろでジャリッと聞こえ、ぎゅっと目を瞑る。震える声でぽつりと呟く。
「あなた、愛しているわ。きっとまた――」




