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三三急最終線

『もしぼくが流れ星だったのなら、君の願いを全部叶えてしまうのに』

 すっかり日の落ちた明るい闇の中、長い陸橋の上を歩きつつ、遠方を走り去っていく列車を見つめていると、不意にそんな台詞を思い出した。十年以上前に交通事故で死んだ詩人が書き残した古い絵本に、なんでもないように書き残されていた一節の文である。

 なぜそんなことを思い出すのか。俺は少し戸惑い、そして自虐的に笑った。

 あろうことか偶然視界に入った遠方の暗闇に走る三三急列車を見て、まるで流れ星のようだと小児的に形容し、それを契機として記憶の底の絵本の一文を回想したのである。自分にしてはやたらと感傷が過ぎる。そんな気がして、俺は再び自虐的に笑った。

「ちょっと、楽、何ぼーっとしてんのさ。もしかして、眠いの?」

 俺の少し先を歩く友人がこちらを振り返って言った。どこか温和な雰囲気の男、朝比奈玲である。

「なんだ、玲」

「『なんだ、玲』じゃないよ。さっきから気のない返事ばっかりして。ちゃんと僕の話聞いてた?」

「ああ、悪い悪い」俺は軽い調子で謝る。「えっと、なんの話だっけ?」

「やっぱり聞いてないじゃん」玲は大げさに呆れた顔を見せる。「再来週の定期試験、英語で赤点取らないように二人で対策しようって話だよ」

「そうだったっけ?」俺はとぼけるわけでもなく首を傾げる。考え事にふけっているあまり、玲とどんな話をしていたかすっかり覚えていなかった。というよりも、そもそも話を聞いていなかった。だが、それを伝えると今度こそ玲が機嫌を損ねるだろう。俺は、「ああ、そうだったな」と言葉を付け足す。

「やっぱり、単語を覚えていないってのは致命的だと思うんだよね」玲は指摘するように言う。「結局、文法をどれだけ理解したって何が書いてあるかわからないから解きようがないんだ」

「そうはいっても、テストまであと二週間だぜ。英単語なんてたいして覚える時間はない」

「あ、楽、お前、時間がないを言い訳にして逃げる気だろ?」

「そういうわけじゃねえよ」図星だった。

「どうせ今逃げたっていずれ必要になるんだし、今日から始めてみれば?」

「だから逃げてるわけじゃねえって。それにお前だって英語は俺と同じぐらいダメじゃないか」

「あのね楽、僕はたしかに英語は苦手だけど、それは楽のせいでもあるんだよ」

「なんでだよ。人のせいにするなよ」

 陸橋を歩きつつ、俺たちは互いに苦手な英語の試験をどう乗り切るか、足りない知恵を絞ってみる。

「そういえば、昔誰かから聞いた話だけど、毎日決まった数だけ英語を覚えるといいらしいよ」

「どういうことだ?」

「例えば一日に十個英単語を覚えるとすると、一年で三千六百五十個も英単語を覚えられるってわけ」

「その話なら聞いたことあるかもしれない」

「なら、今日からやってみる? 一日十個を二週間。百四十単語覚えられるよ」

「ええ、めんどくさ」

「ほら、楽がそんなだから僕の英語の成績が上がらないんだ」

「なんだその理屈。お前は一人で勉強しろよ」

「ええ、めんどくさいじゃん」

「同じじゃねぇか」

 俺は自分のことも含めてため息を吐く。

「ま、定期試験まであと二週間って時に、こんな夜中までぶらついてる時点で偏差値は低いよね」

 言われてみればその通り。辺りはすっかり日が暮れて、最早陸橋の上には俺たちの他に人はいない。時折下の道路を自動車が走り去る程度である。

「今何時?」俺はふと気になって玲にたずねる。

「十一時半ちょい過ぎてるぐらい」

「は? もうそんな時間?」意外だった。

「え、楽、気付いてなかったの?」玲は遠方にあるコンクリートの巨大な線路を指さして、「さっき走ってた三三急列車、多分最終線だよ」と言った。「それぐらい僕らは環状線をぐるぐる回ってたってわけだ」

「バカかよ」後悔を口にする。「財布電車に忘れるなんて」

「楽、お前はバカだよ」

「うっせ」

「ま、時にはそういうことあるんじゃない?」

「最近こういうこと多いんだよな。今日なんかスマホだって家に置きっぱなしで出てきちまったし」

「もうジジイじゃん」

「うっせ」

「でも、財布、見つかってよかったね」

「まあな」

「環状線ってあれだね、やっぱ、ちゃんとぐるぐる回ってるんだ。結局同じ駅で見つかるなんて」

「ネズミみたいに、いろんな駅をぐるぐる回る必要なんてなかったんだ」

「笑い話になってよかったじゃん」

 玲は愉快そうに笑った。

「明日絶対寝坊するわ」

 俺はこの後、風呂に入ったり飯を食ったりする時間を計算し、その未来を確信する。

「その覚悟があったんじゃないの?」

「ねえよ。入ってるの定期と四百二十三円だけだったし。こんなに時間がかかるならさっさと諦めるべきだったな」

「財布そのものは?」

「千円もしない安物だよ」

「なにそれ、ウケる」

「ウケんな。てか、悪いな玲。こんな時間まで付き合わせちまって」

「それは全然問題ないよ。むしろ、いろいろと都合がよかったぐらいだ」

「どういう意味だよ?」

「僕だってテスト勉強をサボる口実を探してたってことだよ」

「なんだよ」俺は玲に対する申し訳なさと、時間を無駄にしたもったいなさを、ポケットから取り出した財布にぶつける。「お前のせいだからな。ぽっけから落ちやがって」

「うわ、さすが最近の若者。財布にまでキレてるじゃん」

「うっせ。このまま道路に投げてやろうか」

 俺は陸橋の上から、下の道路にむかって財布を振りかぶる。小学生の時に友達と草野球をやっていただけの、素人のド下手なフォームである。もちろん本気で投げるつもりはない。そのことは玲もわかっているようで、高い声で笑っている。かと思いきや、

「えい!」

 と玲が突然俺の右手から財布を奪い取った。

「なっ」

 玲の方を振り返る。奴は両手に持った俺の財布を頭上に掲げ、うさぎみたいにぴょんぴょん跳ねながら、「投げるなら僕がもらっちゃう」と抜かした。

「おい。待てこら」

「待たないもんね」

 玲は陸橋を走り出す。俺も慌てて後を追う。

「おま、マジで盗む気か?」

「へへへ」

 玲は笑いながら一直線に陸橋を走っていく。足元に続くのは、駅と道路をはさんで反対にある通りをつなぐ長い陸橋。陸橋にしては長いとはいえ、走ればすぐに下の路地へと続く階段にさしかかる。俺も玲も運動神経は並みだ。走力も似たようなものだろう。だから、玲との距離はなかなか縮まらない。俺は玲を見下ろす形で階段をあわただしく降りる。

 俺も俺なりに全力で走っているが、玲も謎に全力で走っているようで、「待てやこら」と俺が息を切らせつつ叫べば、「ははは」と高い笑い声が途切れ途切れに返ってくる。無邪気な奴だ。

 夜中の路地。電灯が林立するアスファルトの歩道。決して広くはないものの、地方都市を覆った夜はどこか明るく、そして薄い。十メートルも離れていない玲を俺が見失うわけもなく、玲が飽きるかバテるまで、このおにごっこは続くだろう。

 そう思っていると、玲が急に左に曲がった。左手には雑居ビルが並んでいるため、途端に玲の姿を見失う。玲の奴、本当に四百二十三円パクるつもりだな。俺は呆れ気味にそう思いながら玲に遅れて左に曲がる。雑居ビル同士の隙間、エアコンの室外機を由来とする埃っぽいにおいがして、思わず目を細めたくなるぐらいに暗闇が濃くなった。が、その先は行き止まり。もちろん、玲もそこで立ち止まらざるを得ない。俺はそこで、「観念しろ盗人野郎」と玲の後ろ姿に言葉を投げようとしたが、玲の先にあるものを目の当たりにして、何も言えなくなった。

「な……」

 血だらけの男が、壁にもたれかかって座り込むような形で、倒れていたのだ。

 男の年齢は、シルエットから察するに、俺たちよりも少し上、十代後半から二十代半ばほどだろう。何せ暗いためよくわからない。

 だが、死んでいる、と直感的に思った。暗がりの中でもわかるぐらい、男は血まみれだった。男の身体の下には血だまりができていて、わずかな街の光を反射している。

「おい」ようやく口が開く。「なんだよそれ」

「人だ」玲はわざわざ言われずともわかることを言い、男の方に駆け寄った。それから、「救急車と警察を呼んで」と短く俺に指示を出す。

「あ、ああ」俺は空っぽのポケットに手を突っ込んで、そこで思い出す。「やべ、スマホ家だ」

 すると玲は口早に、「近くのコンビニで電話借りてくるから、楽はこの人見てて」と言い、そのまま来た道を走っていく。

「お、おい!」

 俺は玲に声を飛ばすが、玲は振り返りもしない。またたく間に俺はその場に取り残される。

 ……この人見てて、って言われてもな。

 俺は不安に思いつつ、倒れている男へ駆け寄る。

「あ、えっと、大丈夫ですか?」

 こんな経験は初めてだった。心臓がどくどくなっているのが耳の裏で感じられるが、それが現状に緊張してのことなのか、こここまで走ってきたからなのかもわからない。なんだか夢でも見ているみたいな浮ついた気分だ。

 どうすりゃいい?

 俺は男の傍にしゃがみ込み、男の肩に触れようとして、躊躇する。死んでいるかもしれない相手に、触れるのは避けたかった。結局俺は、「だ、大丈夫ですか?」と同じ言葉をかけることしかできない。

 その時だ。

「……う」

 と男が唸るような声を出し、かすかに身じろいだ。死んでいない。そうわかると突如として、ふわふわしていた目の前の光景が現実味を持つ。

「あ、え、だ、大丈夫です。い、今、玲が、と、友達が救急車を呼びに行っているんで」俺は焦燥で乾いてろくに動かない口を何とか操って、男へ声を投げかける。「こ、この辺で一番近いコンビニは駅前だから、数分もすれば救急車が来ると思います」こんなことを言ったって意味がないというのに、他に言うべきことも見つからない。

 すると、男はわずかに顔を持ち上げて、俺の方を向き、「やはりお前だったか……」と意味の分からないことを言った。次いで、「二十五……」とさらに意味の分からない数字を言う。その直後、明らかに血の混じった湿った咳をするので、俺は戸惑うことしかできない。

「え、えっと、喋らない方がいいと思います」

 しかし、男は俺の忠告など最初から聞こえていないのか、なにやらぶつぶつと口を動かすことをやめようとしない。何か伝えたいことがあるのかと思い耳を傾けてみるも、男の口からうめくように吐き出されるその声は非常に小さく、その上酷くかすれているため、夜の静寂の中でも満足に聞き取れない。

「ごほっ」

 男がまた、湿った堰を一つ吐いた。直後、タガが外れたのか、男は、「ごほっ、ごほっ」と繰り返し粘性を感じさせる空気の塊を吐瀉していくので、俺はそのたびに死んでしまうんじゃないかと心配になる。動揺している場合じゃない。

「え、えっと、止血しましょう」

 保健の授業で聞きかじっただけの知識しかないが、俺は応急処置を試みる。地面に広がる血だまりから察するに、また、暗がりでもわかるぐらいに血まみれの男の様子から察するに、身体のどこかに深い傷があるはずだ。そこを押さえて止血をする必要があるだろう。

「き、傷、見せてください」

 男の上半身を注視する。出血している場所を特定しようにも、血液で黒ずんだ衣服のせいで、光源の乏しい暗がりのせいで、どこを怪我しているのかまるでわからない。

「そ、その、服、脱がせますね」

 男の衣服にためらいがちに手をかける。怪我人に無暗に触っていいのかどうかは知らないが、そんなことを懸念するのは後でいい。俺は震える手で男の上着の裾を掴む。と同時に、俺はふと疑問に思った。なぜこの男は、夜中の路地裏で血だらけになっているのか。交通事故なら路上に倒れているべきだし、状況的に自殺未遂には思えない。……ひょっとして、この男、何かやばいことに関わっているんじゃないか?

 そう思った直後。

 どこにそんな力が残っていたのか、男は前のめりに崩れるように俺に掴みかかってきた。

「なっ」

 血まみれの男に抱きつかれるのは、気分のいいものではない。

「やめてください!」

 叫びそうになった。

 しかし、その言葉は声にならない。

 俺はどういうわけか、脱力していた。

 全身が軽くなったように感じるが、手足が自由に動かない。初めて感じる身体的矛盾に混乱する。

 俺は男にのしかかられる形で尻もちをつき、そのまま後ろに倒れた。

 硬い地面に背中がぶつかる衝撃があったが、なんだか遠くの世界で起きている出来事のように、現実味のない感覚で戸惑って、かわりに遅れたように胸に激痛が走った。

「うあっ」

 ようやく声が出た。というよりは、息が吐き出せた。が、その直後、口の中に何か生臭い塊がこみあげてきて、また呼吸ができなくなる。

 俺は上に寄り掛かるようにしている男を両腕でどかし、青ざめた。

 俺の胸のど真ん中に、金属の刃物が突き刺さっていた。

 男に刺されたのだ。

 それを理解した刹那、胸部に激痛が走った。

「あがっ」

 意識が乱れる。なぜ刺されたのか。すぐに逃げなければ。死にたくない。誰か助けてくれ。疑問と焦燥と恐怖と祈りが散文的にないまぜになって、しかし、目の前の景色は黒と赤でちかちかと点滅するばかりだから、身体が脳の命令を受け付けない。

 身体を起こせない。

 腕を操ることもままならない。

 暗闇が眩しくて、目を開けられない。

 胸部の痛みは熱になり、血が流れ出る度に背筋に寒気が走る。俺の意識は濁流に飲まれ、静けさの深度が増していく。

 そんなとき、不意に、すぐそばで声が聞こえた。

「やっぱり君はそういう死に方をすると思ったよ」

 その声は、黒と赤に点滅する視界の先で、俺のとなりに倒れている血まみれの男に語り掛けているようだった。

「きっと君は優しい人だったんだろうね」

 混濁の中、俺は声の方を見ようとした。助けを求めようとした。が、俺の周りは、既に濃闇が支配している。

 誰か。

 その見えない誰かは、おそらく、俺をちらりと見た。そして、そっと、胸の刃物を抜いた。同時に俺の口の中にはもう一度血潮が溢れてきて、血液に溺れていく。

 薄い夜が薄れていく。疑問も焦燥も恐怖も、薄れていく。俺は光のない世界へ沈んでいく。その最中、再び見えない誰かの声がした。

「……」

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