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第一章二話  始まりの森

 霧に包まれた森の中、白銀の髪が翻る。緑濃い濡れた風景の中、木々の合間を縫って飛ぶ白鳥のカザキリのように。

 すらりと長い足が踏み込むたびに、水をたっぷり吸いこんだ土をぴしゃりとたたく音がして、履き潰したブーツにじんわりと泥水が染みていく。

 きゅるる、と高く鋭い鳴き声と翼がひらめく音が着実に背後へ迫りくるその気配に、今まさに逃走劇を演じる少年は繊細な顔を歪めて、歯を食いしばりながらじっとりと湿った森の空気を如実に感じている。

 立ち込める霧のせいで、湿ったまつ毛が瞬きするたびに頬をくすぐる感覚と熱を増す焦燥感に頭がくらくらした。

しなやかな身体を躍動させて森を駆け抜けるのは、年の頃、15前後の少年である。

 目にかかるほどの長さの銀髪。大きな桃色の瞳は、どこか脱力した印象を抱かせる。薄いくちびるは透けるような白い肌に溶け込んで、死人じみた印象を抱かせた。細い体格を簡素で身軽な紺色の装束で隠しており、肌の露出は指先と顔のみの、外界を突っぱねるような服装。

 つんのめりそうになるような速度を緩めないまま、少年は後ろを振り返る。

 金属をひっかくような不快な鳴き声。

 飛翔しているからわかりにくいが、地面を歩いていたら大きさは人間の腰当たりまでの貧相で虚弱そうな体躯。青い鱗に覆われた身体から、ふわふわの羽毛に覆われた羽がアンバランスに生えている気味の悪い風貌。魔獣の名前は水鳶。一体一体の強さは、多少体を鍛えている程度の人間でも余裕をもって勝利できる程度であるが、徒党を組まれると厄介な知性の持ち主であり、不幸にも水鳶の集団を怒らせたこの少年は、今まさに死にかけている。

 唇を噛んで、この状況を打開する感触を探し当てようと懐をまさぐるも期待外れに舌打ち。

 少年は強弱はあれど皆が当たり前に行使する魔法が使えない、人類の落ちこぼれだった。


「魔石、残しときゃよかった…」


 魔法を使うのに必要な魔力をため込んだ特別な宝石。少年のような出来損ないでも一時的に奇跡の行使が可能なお助けアイテム。

 先日大枚はたいて購入したのだが、すべて使い切ってしまったのが悔やまれる。

 少年は想像した。

 自分よりも小さい生物に齧られながらなぶられる自分を。痛いことは怖くない。即死が望めないのは最悪だが、彼の心にともるのは背中をかすめる痛みへの恐怖ではなく───。

 それ以上に、じわじわとこみ上げるものがある。

もう一歩たりとも走りたくないと訴える脚を叱咤して、眼前に現れる木々をかわす、かわし切れずに時折髪を引っかけて、ぷちんと音がする。

 こみ上げるものがある。それは怒りだ。

 喉元がかっと熱くなる錯覚があって、体の芯は不思議と冷めている。若い身空では味わったことのない奇妙な感覚を持て余した。

 脳裏をかすめる記憶達に、碌なものはない。両親のと村人の血まみれの虚ろな顔。生前の姿を知っているだけあって、ただのモノと化した塊への強烈な違和感に吐き気がしたこと。身体に残った理不尽に身体をむしばむ異形。

 けれど、少年は足を止めない。土壇場で怖気づく自分が情けなくも、自分に巣食う呪いの解明という命題が、背中を絶えず蹴っ飛ばしている。

 ふいに視界が開けた。そこだけ忘れられたように木が生えていない。その秘密基地みたいな場所に飛び込んだと同時に人影が見えて、

───聖なる光が差したと錯覚した。


「よしよしどうどう。落ち着いて」


 うつくしく涼しげな声が、高ぶった神経に冷や水を浴びせる。

 思わぬ横やりに、少年は鈍くさくも速度を殺しきれずにその場でこけた。ぬかるみに顔から突っ込んで、地面に伏せたままの体制のまま、呆然と声がした方向を振り仰ぐ。

 木の根にその痩身を預けて佇むのは、薄暗い森の中、不思議に光を纏った女性だった。

 ゆるやかに波打つ長い黒髪とぞっとするほど白い肌。その対照的な色彩はどこか化生めいていた。

 神秘的な黄金色を宿す切れ長の瞳。白を基調に細かな意匠が施された、修道女のようなゆったりとした衣服。露出が少ないせいで体格が分かりにくいが、白魚のような指先から、ほっそりとした印象を抱く。

 人外めいた艶美だがにこにことほほ笑む表情が愛嬌たっぷりで、人型をとっている女性が化生の類ではなく人間なのだという安心感で、知らずに少年は強張っていた肩をおとした。

 女性が、這いつくばる少年に歩み寄る。質のよさそうなローブが汚れるのも構わずにかがみこんで、


「お困りかな。かわいい少年?」


とその手を差し出した。

 相対する少年は呆然と、その宝石のような瞳に釘付けになっている。そんな様子に彼女は訝しげに小首をかしげ、「ああ」とやがて合点がいったように破顔した。そして焦れたようにいつまでも返事を返さない少年の手を取って、強引に引き起こした。


「かわいそうに、怖くて声も出ないのだね。助けてあげるから、安心して」


 恐怖に固まる彼の背を安心させるように、女性はそっと撫でる。そして、「もっとも」といたずらっぽく、その瞳は優しさを失わないままあたりを睥睨する。

 むしり取られて飛び散る羽毛。見掛け倒しに脆い鱗に覆われた皮膚は、何か大きな刃で引き裂かれたようにずたずただった。泥と鉄錆のようなにおいが立ち込めて、あたり一面に血肉が飛び散る地獄絵図。


「もう、みんな死んでしまったけどね」


 惨劇を引き起こした張本人は、あっさりと言い放ち、優美な表情を崩そうともしない。

 何ということもない。女性が穏やかにふるまう傍らで、突然の闖入者と倒れ伏した少年に襲い掛かろうとした獣たちが、ひとりでにその身体を内側から破裂させたというだけのことで、その暴力の行使の中心にいたのが、神々しいまでの美しさを持つ彼女だったというだけ。

 なんの動作もなしに水鳶の群れを殺しつくした女性に、あっけにとられていた少年が、やっと言葉を発する。


「…ありがとう、ございます」

「とんでもない。それよりも君、大丈夫?」

「はい、大丈夫。少しびっくりして…。あの、あなたは」


 自分が言えた義理ではないが、どうしてこんなところにいるのか。そして何者なのか。両方の意味を込めて、女性を見る。

 自分よりも頭一つは小さいであろう体躯。無視できない存在感からは想像もできないほど存外小柄なので、少年は胸中で驚きを噛み殺した。

 どこか不安そうな桃色の瞳の視線を受けて、女性は聡くもその意思を感じ取り弁解するように慌てて言った。


「ああ、怪しい者じゃないよ。僕はしがない旅人さ。ふらふらしてたら眠くなってきてね、寝心地が良さそうな森があったから、入ってみたら君が変なのに追いかけられているものだから、心配になっちゃって」


 ふぅ、と一息ついてから、女性は少し背伸びをして少年のほうに顔を近づけ、


「それと、僕の名前はカトレアという。お気に入りの名なんだ」


 女性──カトレアは、綻ぶ花のような表情で、そのたおやかな名を名乗った。


「…うん、素敵だと思います。」


 カトレアがあまりに愛おしそうに自身の名を口にするものだから、ずっと曇っていた少年の表情が、晴れ渡るように柔らかくなる。しかしそれもつかの間のこと、ほころぶ目じりは次の瞬間には陰った。自己紹介が次は自身の番であると察したのだ。

 くちびるにためらいを残したまま、少年は忌まわしそうに自身の名前を吐き捨てた。


「俺は…ループス。野蛮な名前だと思うでしょう」

「勇猛な名だ。君の愛らしさが際立つね」


 飄々とそんなことを口にしながらにこにこと笑む、人畜無害を演出する人たらしの妖精のような女性の顔をしばらく見守ってから、


「そういってくれるのは、あなたくらいです」


と、やがてあきらめたような、疲れたような微笑を浮かべた。










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