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プロローグ  彼女の話

 肉が朽ちて、白く輝く者たちは美しい。

物言わぬ目のくぼみ、白百合のようになまめかしい体の細さ。整然と並び心臓まもる優美な檻。

 先生の瞳は陶然としていて、感情を見せるのは珍しいと思いながら、僕は可憐な鈴の音のようなその声に、口を挟まずに耳を傾けていた。それは先生の話がとりわけ面白いからでは無くって、ただ彼女の機嫌を損ねたくなかっただけだった。幼い僕には、先生の話を理解することができない。それが申し訳なくて、僕は彼女が語る小難しい話の一語一句を記憶していた。


 なにより、先生が訥々と語る声を聴くことは、当時の幼い僕にとって、母の胸に顔を預けて心臓の鼓動に微睡む行為と同義だった。


 先生はそんな僕を見て、少し悲しそうな顔をしていた。そして死者を尊ぶ彼女は、自分が抱く生きた感情に、きっと落胆していたのだと今になって思うことがある。

 物心ついた時には、僕は先生と一緒にこの小さな村で暮らしていた。彼女は僕の血縁ではなかった。この家に来た経緯も知らずに、両親の名前も思い出せずに、そして、養い手である女性の名前も知らない。当時はおかしな事だと思わなかったけど、僕は自らの出生について何も知る事が無かった。


 そして僕は養い手の事を、人に教えるような口ぶりがそれっぽいので、便宜上「先生」と呼んでいた。


 僕たちの住まいは先生の嗜好にあふれていた。、庭には季節の花々が咲き乱れて、瑞々しい果実が実る。潔癖症のきらいがある彼女らしく、屋敷の中は古びているけれど、とても清潔で埃一つ許されない。

 森深くの屋敷にこもって、厭世的な暮らしぶりの先生は、どうしたわけか村人にすごく慕われていた。

決まって月に2回、僕と先生は生活のための必要物品を調達するために村に下りた。村人たちは、先生から支払われる金を受け取ることを渋って、「あなたから、お金をいただくわけにはいかない」と突っぱねた。先生は困った顔をして「そういうわけにはいかないよ」と無理やりお金を置いていく。そんなやり取りを先生の影に潜むようにして、僕はじっと聞いていた。

 先生は僕に仕事を与えた。料理。掃除。庭の作物の世話。気まぐれな猫の散歩。それらは慣れると大した仕事ではなくなって、急速に日常に溶け込んでいった。


 心地の良い退屈な生活でなにより重大な僕の仕事は、先生の話を聞くことだった。


 穏やかな声音で紡がれる話たちは、オルゴールみたいに心地よかった。ロマンチックなおとぎ話と重厚な哲学、果ては小難しい魔法理論。あとは死者が如何に美しいかという事。

 彼女は人間が嫌いだった。

 人々の生命活動を嫌悪し、精神の停滞と肉体の終焉こそを愛した。けれど極度の寂しがり屋で、話し相手がいないと、美しい顔を歪めて拗ねた。

 彼女はいつも言っていた。「君は私のようになってはいけないよ」と。「私は君に、恨まれなければいけないのさ」とも。

 僕はいつもこう答えた。「僕は先生のようになりたいです」と。「僕は先生に感謝しているのです」と。

 先生は悲しい顔をして、「ごめんよ。私は君に、名前さえも与えられないのに。私が名づけるとそれは、呪いに変わってしまう」。


 そして先生は、僕が17の時に死んだ。

 焦臭さくて重たい煙は、容赦なく住み慣れた屋敷を舐めとっていく。

 知識の香りが匂いたつ書斎も毎日立った台所も。あまりに殺風景で先生に苦笑された僕の部屋。一度も立ち入ることを許されなかった先生の寝室。先生の鈴の音のような声に耳を傾けた安楽椅子。

 黒煙が体を麻痺させて、指先すら動かせずに、僕は考えていた。先生は無事だろうか。朦朧とした意識は、前後の記憶を曖昧にさせる。僕は何をしようとしていたのだろうか。今は何時だろうか。火の手はどこから上がったのか。

 ──先生は?

「無事ではなさそうだね」耳元で先生の声がした。

ご無事だったのですね、よかった。ねぇ先生逃げて。僕はもう死んでしまうでしょうから。


「君は冷静だなぁ。ごめんね。私は君を落胆させる選択をするよ」


髪を撫でられる感触がする。視界が機能していなくて、自分が目を閉じているのか、そもそも自分の眼球があるのか分からずに、世界と自分の境界がぼやけていく。


「君はずっと死にたがっていたね」


頬を嬲る赤い炎を、先生の冷ややかな指先が鎮火していく。


「私は君を生かすよ」


先生はご無事なのですか。


「残念だけど私はもう死ぬよ。さぁ、君に名前をあげようか」


 ふいに視界が開けて、先生の顔が見えた。長い黒髪がカーテンのように僕の世界を囲っている。病的なまでに白い顔。黄金色の切れ長の瞳。少し幼さを残した花のようなかんばせが。


「君の名前かぁ。考えていなかったわけではないんだよ。どんなのがいい?」


先生はのんびりといった。

これが最期なのですか。先生とお話しできる、最期なのですか。

知らずに問いただすような口調になった。そういえば、僕の発声器官はどこに行ったのだろうか。


「そうなるね。最期にどんなわがままを言ってくれるの?」


慈しみにあふれた声が鼓膜のあった場所を愛撫する。ほとんど考え込まずに、僕は言った。僕は先生を忘れたくないです。


「そうか。それなら、私の名前をあげようか」


先生の名前。


「そうだよ。私の真名はカトレアという」


あっさりとあかされた名前に、僕は半ば呆然とした。もったいぶることを知らない人だ。相変わらず結論から話す癖が抜けない。知っている。誰よりも近くでずっと聞いていたから。


「カトレア」


骨ばった華奢な指先が、僕の目が合った場所に触れる。途端に激痛が走って、思わずうめき声をあげた。苦痛を逃すためにもがきたいのに、そのための身体がなくて、気が狂いそうになる。


「カトレア。…これは私のエゴだよ。君を死なせたくないという。呪いを残して死ぬ私を恨んでもいいから、自分のことはどうか嫌いにならないでね」


先生。ただただ死を熱望する14年だったけれど、それでも死ななかったのは、先生の事が好きだったからです。

苦痛が満ち引きする。がしゃんとひどい音がして、屋敷が朽ちていく音が聞こえる。だんだんと体の輪郭がはっきりしてきて、先生との別れを近づく気配がする。


「おやすみなさい」


名前を失った彼女は、痛みに失神した愛弟子の額に口づける。自分の生き写しのような顔をやさしく撫でて、母親のように微笑んだ。















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