渾沌楼夢
十七歳の誕生日、深月はタクシーの中で目を覚ました。
隣には伯父が座っていて、伯父も深月も、親類の祝いの時だけ身に着ける白の長袍をまとっていた。
たぶんこれは夢なのだろうなと深月は思った。昨夜、深月は東京の下宿先で眠りについた。そもそもタクシーの中で目を覚ますはずがない。
ただ夢と笑い飛ばすには、窓の外をみつめる伯父のまなざしが真剣で、深月は口をつぐんで同じ方向を見ていた。
窓の外には夕暮れが移ろっていた。夏の残光は静まり、鴨川がゆったりと流れていた。
やがて車は橋を渡り、四条に入ったのがわかった。
「シン」
ずっと黙っていた伯父が口を開く。
「お前はちゃんとわかってるはずだ」
何もかもあいまいな言葉を、意識の深いところではわかっていた。
深月が答えを返す前に、車はどこかに停まった。
先に伯父が降りて、深月に向かってうなずいた。
深月は慣れない長袍の裾を持ち上げながら車から降りる。
顔を上げて目を見開く。
視界いっぱいに黄金の建物がそびえたっていた。瓦が重ねられ、石造りの柱が伸びる。古びた石畳がまっすぐに伸びて階段につながり、その向こうに扉があった。
中華街のような極彩色ではないが、かといって日本的な建物ではない。
四条の街で幼い頃から遊んで、隅々まで知り尽くしているはずだった。こんな建物が街中にあるはずがない。
これは宮殿で、そしてここは四条どころか、京都ですらなかった。
煌々とした灯りで照らされて、人のざわめきが風に乗って聞こえてくる。胃が引っ込むような、食べ物の匂いと共に。
思わず唾を飲みこんで、伯父を振り向く。伯父は先に階段を上って行った。
伯父の後に続いて階段を昇る。黒いスーツの男が左右に控えていて、伯父の姿をみとめると扉を開いた。
現れた宮殿の床はすべて金色の石で埋められていた。黄金のシャンデリアが中央から下がり、弧を描く階段が上階に続く。
二階の扉の中に入ると、そこは宴の最中だった。
まぶしいほどの黄金の明かりがシャンデリアから零れ落ち、テーブルの上のあふれんばかりの御馳走を照らし出す。それらを取り囲んで、上質な長袍や旗袍に身を包み、髪を結って宝石で着飾った人々が談笑している。
伯父は人の輪に入り、世間話を始める。
それにしてもテーブルの上の料理が美味しそうだった。独特の湯気の匂い、色鮮やかな肉の照り、たまらなくなる。
まだ誰も料理に手をつけていない。もったいない、冷めてしまう。
花が散らされたあの黄金のスープなんて、きっと食べたことがない味がするに違いない……。
けれどこういうパーティでは主賓がいて、主賓が手をつけるまでは料理を食べてはいけない決まりがあった。
無意識に顔も知らない主賓を恨んだのか、ただ料理から顔を背けたかったのか。深月自身もわからないまま、小部屋の扉を開いて中に入る。
一瞬、既視感があった。まぶしい宮殿が懐かしい景色に重なったかと思うと、深月は大原にある実家にいた。
深月が食事を運ぶためにリビングに入ると、母がソファーで横になっていた。
「こんなところで寝たらだめだよ、母さん。風邪を引く」
屈みこんで揺さぶるが、母は身じろぎ一つしない。それどころか息をしているのかもわからないほど、静寂をまとっていた。
細く癖のない黒髪に、染み一つない白い肌。古風な人形細工のように雅な目鼻立ちをしていて、子どもを産んだとは思えない華奢な体つきをしていた。
子どもの頃から入退院を繰り返していた。外で働いたこともなければ家事も、果たして育児もしたかどうか、深月には覚えがない。
けれどふいに深月の隣に立って、ため息のように母の名を呼んだ人がいた。
伯父は母の横に膝をついて、途方に暮れたような目で彼女を見ていた。
母は弱く、その弱さを何とも思っていない。その弱さと潔さに、一番心酔しているのが伯父だった。
伯父は独身で、子どももいない。伯父について女性の噂を聞いたこともない。
リビングに飾られている写真には、十歳の伯父が三歳の母を抱き上げて映っている。写真の中の母は小さな手に握ったお手玉をみつめて、伯父はそんな母をみつめている。今伯父が向けているように、困ったような、けれどそれ以上に安心するような眼差しで妹を見ていた。
「……ごはん」
ふいに母は目を覚ます。長い睫毛が動いて、濡れたような黒い瞳が現れる。
「ごはんが出来たの?」
「まったくお前は」
伯父は手を離して、写真の中のように困惑と安心の表情を浮かべた。
「人の顔を見ては飯のことばかり。私はお前の家政夫じゃないぞ」
「お腹が空いたわ。兄さん、連れて行って」
母は悪びれず、当然のように両手を伸ばす。
「まったく」
言葉とは裏腹に母を抱えあげた伯父から目を背けるように、深月は踵を返した。
廊下に出ようとしたとき、父が入口の裏に立っているのに気づく。
父はいつ見ても使用人のような紺の長袍姿で、威圧感の塊のような長身をしていた。
けれど両手には重そうな茶器を乗せた盆を持っていて、早く茶器を下ろしたいだろうに、中に入る様子もない。
「……父さんは」
今更父が怒るとも思わない。ただ湧き出る焦りのような感情のまま、深月は言わなくていいことを言っていた。
「父さんは怒ってもいいと思います。婿だからって、何でも我慢しなくても」
父は優しく笑って言った。
「そうかな。深月が思っているのとは少し違うよ」
そうなのだろうかと、深月は半分納得していない頭で思う。
ただ頭の半分では、まだ知らない父の感情に思いを馳せていた。
父はふいに振り向いて、鏡ごしに深月を見た。
「具合はどうだ」
「心配しないでください。病気じゃないんです」
百八十を超える頑健な父には、小学生ほどの体格の深月が頼りなく見えるのは承知している。
深月は鏡の向こうの自分に告げるように言った。
「私は私の形を探してるんです」
まぎれもなくこれは夢に違いなかった。
鏡の向こうには今も何の動物かを決めかねている自分がいるのを、深月はみつめていた。
目を覚ますと、大原の実家の自室のベッドの上だった。
昨日東京から夜行バスに乗って帰ったのを、今頃になって思い出す。
うつむいたまま、金色のノブを回した。
ひんやりとした白い大理石のホールが目の前に広がった。真っ白な床に反して、壁は暖かみのある薄茶の漆喰で出来ている。極彩色の立派な壺が置かれていると思えば、そこには白薔薇が生けてある。
「シン」
上から声をかけられて顔を上げる。
吹き抜けの二階に続く階段、その途中の踊り場に巨大な掛軸が天井から下がっている。
掛軸に墨で描かれているのは犬に似た獣で、炎の上がるたてがみと氷の滴る牙を持つ。黒一色だというのに、掛軸を破って出てきそうなほどの闘志をむき出しにしていた。
その掛軸を背にして、伯父が立っていた。
「自立すると大口を叩いておきながら、もう戻ってきたのか」
ゆったりとした袖と立襟を持つ白い長袍姿で、長身痩躯で鋭角的な目鼻立ちを持つ彼が着ると昔の官僚のようだった。実際、彼の祖父は明治期に日本に亡命した政府の高官だったというから、時代が違っていれば想像の通りになっていたかもしれない。
「面目ありません」
頭を下げると、伯父はふいにため息をついて、背後の動物の絵を見上げる。
「シン、これが何か知っているか?」
「渾沌でしょう?」
もう責めなくていいのだろうか。伯父が完全に怒気を収めたのを少し寂しく思いながら、深月は答える。
「古代、世界に災いが起きるときに現れた獣。自然界のものを自由自在に操り、動物を召喚するという凶獣ですね」
「そうだ。最後は自らの体まで食ってしまうほど食欲旺盛な獣でもある」
伯父はふっと笑う。
「お前には食欲が足らん。……それでよかった」
物音に振り向く。一階につながる隣室の扉が開いて、そこから足早に別の男が現れる。
「義兄さん。始めましょう」
「私も」
深月は言いかけたが、伯父は首を横に振る。
「わかってやれ。いくつになっても父親は娘に格好つけたいものだ」
父は苦笑してさっさと踵を返す。
深月は思わず父の背中を見送って、この年になってもわかっていなかった父の感情を考えていた。
父が料理をするときは、怒鳴り声に近い指示を出し、湯気と火で厨房が暑苦しいらしい。
普段大人しく伯父に従う父だが、料理のときだけは性格が変わるらしく、そういう姿はあまり深月には見せたくないのだとも言っていた。
だから今も深月は、父と伯父が料理をするときを知らない。
慌ただしく盛り付けを終えて、リビングに料理が運ばれる。入れ違いに、深月は厨房でお茶を入れていた。
深呼吸をして淹れ直した茶器を持ち上げた。絨毯張りの廊下を歩いてリビングに戻る。
「来たな、シン」
皆はもうテーブルについていた。我が家では丸テーブルを使っていて、曾祖父の書の掛軸を背にした上座に家長の伯父が座る。伯父の右に母、左が婿である父。父の左隣が深月で、深月の席は母の右隣だ。
上下関係がはっきり決まっていそうで、実は円形になっている。そんな家族の形を表している気がする。
数時間かけて煮込んだトンポーロー、オイスターソースの香るチンジャオロース、とびきり醤の効いた麻婆豆腐。
伯父と父の料理は外で食べるより美味しいと自信を持っているが、深月はそれらをほとんど食べられない。胃弱で、もっぱら深月のために用意された桃をつまんでいる。
団欒の時間に、ふっと意識が宙に浮く。
いつも無口な母が手を止めて、そんな深月に言った。
「おかえり。よく帰ってきたわね、シン」
ふいに心の中で保っていた感情の薄氷が割れた。
去年の四月、深月は東京で一人暮らしを始めた。
家族の、どこからが自分でどこからが他人なのかわからない距離感に抗うため、逃げるようにこの家を出た。
伯父は理由をわかるように説明しろと詰め寄った。あまり思いつめない方がいいと、そういうときだけ気が合う父と母にも反対された。
こらえていたものが次々と溢れていく。弱い自分が土くれのようにぼろぼろと崩れて、流れ出していく。
「うん……」
顔を覆ってそれだけ言うのが精一杯だった。
声を押し殺して泣く。自分がふがいなくて、家族の包み込むようなまなざしが痛い。
家族と境界を作ろうとしても、どこまでも境界はあいまいなのだと知っていた。
ちょうど渾沌のように、家族はいつまでも不完全で、それを補うようにして愛情を重ねあっては、形を確かめていく。
「誕生日おめでとう」
深月は小さくうなずいて、誰かが祝ったその言葉を聞いていた。