第15話 平凡な暮らしが一番難しい
彼と暮らし始めて分かったことがいくつかある。
一つ目は、彼は一通りの家事はこなせること。
やることはマイペースだが、一人暮らしでも問題ないレベルの生活スキルは身に着けているようだ。
二つ目は、以前彼が言っていたように非力だったこと。
一般の男性よりも力がないのではないかというレベルで、筋力がなかった。ただ、体力だけでいえば、ビリーやリリアよりも高かく、運動神経も悪くなかった。
力がないだけで、体の使い方はうまいのだろう。
そして、三つ目。
「それ、楽しい?」
リリアは、切株に腰掛け、ナイフを研いだり磨いたりしている彼に聞く。
「楽しくはないかなー」
エリックは磨き終わったナイフを太陽にかざす。
「うん、よきかね」
今日は、久しぶりによきかねおばあちゃんが来ていた。エリックは、太陽を反射しているナイフを眩しそうに見ている。
「じゃあ、なんでそんなことしているの?」
これが三つ目。エリックは、暇があればナイフを磨いている。
毎日磨かなくても良いだろうに。一体いくつ持っているのか。彼は何本もの刃物を磨き、鋭さを保つ。彼が言うには、もはや習慣になっているらしい。この行動を見たビリーは、思い当たる節があるのか、少し顔色が悪かった。
エリックはナイフを下ろし、リリアの問いに首を傾げる。
「サバイバル?」
「なんで疑問形なのよ」
エリックは、また新しいナイフを取り出し一から手入れを始めた。どうやらまともに答える気はないらしい。
「僕からもいい?」
「なに」
「リリアは、ビリーと駆け落ちしてきたの?」
「――は」
思ってもみない質問に、素で驚いた。どこをどう見たら、恋人同士に見えるのだ。
「うん、よきかね」
よくない。駆け落ちなどとんでもない。
「馬鹿言わないで、ビリーは私の執事よ。貴方に筋肉が付くくらいありえないわ」
「そうかなー」
「そうよ」
リリアは強く否定する。だが、エリックは納得がいっていないようだ。
彼からすれば、年頃の男女がこんな辺鄙な田舎で一つ屋根の下で暮らしているのだ。身分の差に悩み、駆け落ちしたのではないかと、二人の仲の良さを間近で見れば自ずと思うだろう。
「私たちに恋慕の情はないわ」
(そうかなー)
少なくとも、彼には恋慕の感情も少なからずあるように見えるのだが。だが、彼女の表情を見る限り、それは全然本人には伝わっていないようだ。
ナイフを太陽に翳す。まだ少し陰っている。下ろして、再び磨く。
「リリアは、この村が好き?」
「ええ、好きよ」
「僕も好き」
エリックは、育ったこの村が好きだ。
頼りないながらも、大事に育ててくれた父。
いつも寄り添ってくれた祖母。
自分の家族のように接してくれる村の人々。
エリックは、村の人のためなら何でもしたいと思う。
「僕、ずっとこの村にいたいんだ」
「そう」
「君も一緒だと嬉しいな」
「私も、この村にずっといたいわ」
エリックは、ナイフを下ろして手入れを再開する。
(伝わったかな?)
分かりずらいアプローチをした自覚はある。でも、少しでも伝わってくれたら嬉しい。伝わらなくても、違和感として覚えてくれたら嬉しい。この気持ちの、ほんのひと欠片でも届いたら、それで良い。
祖母はいなくなっていた。いついなくなったのだろう。だが、敏い人だ。彼女ほど、聡く、賢い女性をエリックは知らない。
チラリとナイフに向けていた視線を、彼女に送る。彼女はつまらなそうに、エリックの手元を見ている。それなら屋敷に戻ればいいのに、彼女はいつまで経ってもそこから退かない。
「僕と腕相撲しない?」
視線が交差する。リリアは、ふふ、と笑った。
「貴方が天国に行ったらね」
「今してくれないの?」
「貴方の手が壊れるでしょ」
「それじゃあ、まだ当分先だね」
一生こないとは言わないことにした。これは秘密。隠せたらいいなと思う秘密。
エリックの行き先は、地獄と決まっている。
暇そうに見えて、ビリーの仕事は山積みだ。屋敷の家事は彼一人で賄っていると言って良い。最近は、居候のお陰で余裕ができたが、それでも彼の仕事が減ることはない。
「ねえ」
声を掛けられる。振り向くと、件の居候がいた。彼は感情の読めない顔で、自分を見ている。
「僕のこと知ってる?」
「知ってますよ。ジンさんの息子のエリックさんですよね」
彼が求めている答えではないと知りながら、ビリーは素知らぬ顔で答える。しかし、それこそが彼の求める答えだったのか、エリックは訳知り顔で笑う。
「ありがとう」
「はい、どういたしまして」
「ごめんね」
「……」
感謝の意味は問わない。謝罪は受け取らない。
付かず離れず良い友人。戦わない、睨み合わない。取り合わない。
それくらいがちょうど良い。
「君も一緒だと嬉しいな」
この言葉に、エリックの思いが潜んでいることでしょう。