第10話 無自覚が一番危ないんだよね
ユナのご褒美という言葉に、イグニスが慌てる。
「それは困る。君のご褒美がないと私は生きていけない」
「だったら、我慢できるよね」
「ああ」
彼女の両手を握ったイグニスが、力いっぱい頷く。彼女は、彼のその言葉に納得すると、それまでの妖艶な雰囲気を消し、また愛らしく溌溂とした姿に戻る。
「それでこそイグニスよ」
握られていた手をほどき、彼の頭を撫でる。イグニスは、それを嬉しそうに甘受する。その姿は完全に、飼い主に褒められる犬のようだった。
リリアは、恐る恐る執事に視線を送る。目が合うと、二人は同時に頷いた。リリアは、深呼吸する。
「あのー、ユナさん」
「はい?」
「違っていたらごめんなさい、その」
リリアは言いづらそうに、彼女を上目遣いで見る。
「踏んでるの?」
「…はい」
リリアの質問に、ユナは恥ずかしそうに頷いた。
「裏切られたぁあ!」
ビリーがその場に膝を付いた。ソファが壁となり、彼の姿はユナ達の視界から消える。できればリリアも、目の前の机を真っ二つにしたい気分だった。
ユナは、ビリーが視界から消えたことにも気づかず、赤くなった頬を冷やそうと自分の両手を顔に当てる。イグニスは、そんな彼女を見ながら、幸せそうに乱れた髪を整えていた。
「私も最初は、彼に言われた時はどうしようと思ったんです。でも、彼のめったにない頼みだし、ちょっとくらいならって。初めは力加減とか分からなくて彼を痛くし過ぎちゃうこともあったけど、だんだん彼の良いところとか分かってきて、そしたら私も、楽しくなってきちゃって、こんなことイケナイって分かっているのに、でもイグニスの嬉しそうな顔を見たら、私も嬉しくなっちゃって、もっと喜ばせないとって思って」
「そ、そう。貴女も望んでやっているなら良いのよ」
恥じらっている姿も大変可愛らしいが、内容はなかなかにエグい。リリアは引きつった笑みを浮かべた。
「彼女の踏みは本当に素晴らしいんだ。焦らしながら、安定した力でこちらの欲求を満たしてくれる。さらに機嫌が良いときの彼女は、良い言葉を掛けてくれるんだ。やはり私の目に狂いはなかった。彼女は私の真に理想の女性だ」
「うん、もういいから黙って」
ユナの隣に座っているイグニスは、リリアに聞いて欲しいとばかりに、自分の婚約者がいかに踏みに適した人物かを力説する。
チラリとソファの後ろで蹲っている執事を見ると、「やっぱり変態を相手にできるのは、変態しかいないんだ」と言ってまだ打ちひしがれていた。
リリアは、ふう、と息を吐いた。そして、また目の前でイチャイチャし出した2人にニッコリと笑った。
「とっとと城に帰れ」
「今日はすっごく楽しかったです。また遊びに来てもいいですか?」
「ええ、いつでも大歓迎よ。ただし、今度は連絡くらい寄越してね」
上機嫌なユナを、ビリーが玄関前に待たせている馬車まで案内する。イグニスはその後ろを付いていかず、リリアの隣に立つ。
「彼女には、君が私の婚約者だったことは伝えていない」
「でしょうね、じゃなかったら、私の前で貴方との仲を見せつけないでしょ」
婚約者という立場を手に入れても、皆の負担を減らすために侍女の仕事を続けている。自分の結婚が延びても、誰かの為に動こうとする。そんな人間が、元婚約者の前であんな風にイチャつけるわけがない。
「どうせすぐバレるわよ」
「それまでには式をあげるさ」
「逃げられないと良いわね」
「逃げ道は塞げば良い」
「あらやだ、こわいこわい」
リリアは、肩に掛った髪をはらった。彼に本気で惚れられなくて良かった。彼のような人間は、一度捕まると一生離してくれないのだ。
「それで、本当は何しに来たの? 前みたいに、ただ会いに来たわけでもないんでしょ」
普段はふざけた態度を取ってはいるが、王子というのはそう暇ではない。今日だって忙しい合間を縫って来てくれたのだ。もちろん、彼女を自分に会わせるのも目的としてはあるだろう。しかし、それは副産物のようなものだ。彼の本当の目的は、もっと別にある。
「これは、父上と私しか知らない情報だが、タージェス王国が内紛を始めた」
ビリーは、ユナと話し込んでいる。リリアは、動揺を顔に出さないように意識する。
「どうして私にそんな重要な情報を?」
「内紛が始まったと同時に、東の区域周辺で死体が発見されるようになった。狙われているのは、ビリーのような若い男だ。すでに噂も広まっている。この村に届くのも遅くはないだろう」
「それが、お隣さんとどう関係が?」
「分からない。が、二つの事件が起きたのは同時期だ。関連付けない方がおかしい」
タージェス王国。リリアの住むシイカリラ王国の東側に接している国だ。ひと昔前は、あらゆる国に戦いを仕掛けることから、戦争屋と呼ばれていた。
また、あらゆる戦争の裏にはタージェス王国がいたのではないかと噂されている。
今は和平条約が結ばれており、周辺諸国が再び戦争を起こさぬよう目を光らせている。戦争が無くなってからは、それまでの威光が形を潜め、細々と貿易で賄っていたと記憶しているが。内紛とは、治安がなっちゃいない。
「奴等にとって、君の力はまたとない唯一無二のものだ。奴等の目的や、内紛の理由が分からない以上、ビリーが狙われないとも限らない。それで、君の力にまで目を付けられたら敵わん。用心しろ」
「あら、心配してくれるの?」
「数少ない友人のことだからな」
二人は顔を合わせ、にっと笑った。
「結婚式には呼んでくれるのかしら」
「とっておきの席を用意しよう」
「そ、じゃあ期待せずに待っておくわ」
イグニスはリリアから離れ、最愛の女性の元に向かう。二人の男女は、そのまま馬車に乗り込んだ。
「またねー!」
馬車が歩き出す。小窓から顔を出したユナが、こちらに向かって大きく手を振った。それにリリアも、小さく手を振り返す。馬車が見えなくなると、再び屋敷の中に入る。ビリーもその後に続く。
「ビリー、しばらく家出禁止よ」
「はい」
ビリーは反抗せず、大人しく頷く。
ユナは、思ったより頭の回る人間のようだ。ビリーが、時間稼ぎのために会話を長引かせているのを知っていて、それに乗ってきた。純粋なだけで、王族の嫁など務まるのか心配だったが。あれなら大丈夫だろう。
「イグニス様と何を話されていたんですか?」
前を歩くリリアに、返事の分かりきった問いを掛ける。彼女は振り向き、自分の人差し指を口元に当てた。
「内緒」
ビリーは、だろうなと肩をすくめた。