百円のビニール傘
「傘忘れた……」
クリスマスイブの午後。駅の入り口に立って俺は途方に暮れていた。外は雨が降っていた。まあこれくらいなら走って帰れないこともないが、クリスマスに風邪で寝込むのはさすがに気が滅入るからな。仕方ないからコンビニに傘買いに行くか……。
俺は駅前のでかいクリスマスツリーを恨めしげに睨み付けた。なんだよ無駄にキラキラしやがって……。
「100円になります」
店員に言われて俺はごそごそと財布を探す。するとカバンの底で何か筒状の物に手が触れた。一瞬何か分からなかったが、握ってみてはっきりと分かった。折りたたみ傘だ。そういや前にもこんなことがあって、それで折りたたみ傘をカバンに入れとくようにしたんだったな……。傘があるのに傘を買うなんてアホらしいが、もうレジは通しちゃってるし、このタイミングでやっぱり買いませんなんて言えないので俺は仕方なくもう一本の傘を買うことにした。
「あ~……ついてねぇ……」
例えば誰かのせいでこうなっているならまだいい。自分のせいでこの状況だから余計に腹が立つのだ。でも仕方ないから買った傘を使うかと開きかけた時、駅の入り口に女子高生が一人ぽつんと立っているのに気付いた。
「あれ……」
女子高生は手袋をした両手をすりあわせ、ぼんやりと雨雲の立ちこめる空を眺めていた。見た感じ傘は持っていない。
「あ、あの~……」
俺は恐る恐るその女子高生に近づく。別にもうすぐクリスマスだからとかそんな理由じゃない。ただ何となく、いいことがしたくなったんだ。もちろんその子が結構可愛かったからでもない。全然ない。
「……なんですか?」
その女子高生は訝しげに俺を見る。頼むから通報しないでくれよと思いながら俺はさっき買ったばかりのビニール傘を差しだした。
「もしかして、傘持ってないんですか?」
「まあ……持ってないですけど……」
女子高生は若干身を引きながら答えた。いや別に相合い傘しましょうとか言わないから……。俺は出来るだけ気持ち悪くならないように気をつけて言った。
「あのこれ……使います?」
「え、それ、いいんですか?」
「いいですよ。てかあげますよ。さっき傘持ってるの忘れてもう一本買っちゃって、僕のはこっちにあるんで」
俺はもう片方の手に持っていた折りたたみ傘を見せた。
「はぁ、じゃあ…………ありがとうございます」
女子高生はおずおずと頭を下げた。それを見て俺は爽やかに微笑むといえいえと手を振って踵を返した。
「いやしかしいいことしたなー」
家に向かって歩きながらそう呟いた。
「いやほんといいことしたわー」
冷たい雨が降っているが心は晴れやかだった。
「傘忘れた……」
私は駅の入り口に立って空を眺めていた。一応言っておくが、天気予報はちゃんと見た。ちゃんと見た上で忘れたのだ。なお悪いか……。
しかしまあ忘れてしまったものはしようがない。私が歩いて帰るか、遠回りだがバスで帰るかと考えていると、駅前のコンビニの方から男子高校生が一人歩いてきた。なんか妙にヘラヘラしていて少し気持ち悪い。そして男子高校生は私のもとまで来るとそのヘラヘラとした顔のまま手に持ったビニール傘を渡してきた。何でも折りたたみ傘があるのにもう一本傘を買ってしまったらしく、いらないから私にくれるという。くれるというなら貰っておこうと私はその傘を受け取った。
しかしいくらもう一本持っているからといって、見知らぬ女子高生に買ったばかりの傘を渡すだろうか。私は貰った傘を差して歩きながら考える。まあ大方私が可愛いからだろう。私は可愛い。みんなもそう言ってるから間違いない。
「…………でも、少し失礼だったかな」
仮に下心があったとしても、物を貰っておいてあの態度はなかったかも知れない。下心がなかったとしたらもっとひどい。
「ま、まあでも、どうせ百円傘だし、なんなら値札も付けっぱなしだし……」
私は百円と書かれた値札を指でつついた。でも本当はもう分かっていた。こんな風に言い訳じみた独り言を言うときは、かなり反省してるときだ。
「うう~……なんかもやもやする…………」
と、その時、私の視界に一人の女性の姿が映った。そこは私の家のすぐ近くにあるバス停。その小さな屋根の下に幼い子供を抱きかかえた若い女性が立っていたのだ。車道に背を向けているところを見ると、今まさにバスから降りてきたところなのだろう。傘は持っていない。私はこれだ!と思いその女性に話しかけた。
「あのー?」
「はっはい!」
女性はくるりと振り返る。その目は若干潤んでいた。
「もしかして……傘がなくて困ってたりします?」
私がそう尋ねると、女性は堰を切ったように話し始めた。
「そっそうなんです!この子が急に熱を出してしまって、病院に行こうと思って慌ててバスに乗ってきたんですけどバスを降りたら雨が降っていて、急いでたから傘も忘れてきて、それで……!」
「あ、あの、分かりましたから!少し落ち着いて……!」
勢いのままにまくし立てる女性を一旦なだめる。確かにここから真っ直ぐ行けば病院だが、そもそも病院に行きたいなら病院の目の前まで行く便もあるはずだ。それに乗ってない所を見ると相当慌てているらしい。私は手に持ったビニール傘を差しだした。
「よろしければこれ、使ってください」
「いいんですか!?」
「はい。私の家、この近くなので」
まあ多少は濡れるかも知れないが、元気いっぱいの女子高生と風邪を引いた赤ちゃんなら優先順位は考えるまでもない。
「でも、返すときはどうしたら……」
「ああ、別に返さなくていいですよ。実はこの傘、私も人から貰ったので」
「そうなんですか?ありがとうございます!ありがとうございます!」
そう言ってペコペコと頭を下げながら女性は病院の方へ歩いて行った。赤ちゃん、あんまり揺らさないであげてください……。
でもまあ、これでさっきの失礼な態度はチャラかな。今の良い行いはたぶん神様も見ていただろう。私は満足して歩き出した。
「あ、値札付けっぱなしだった…………まあいっか」
「どうしよう……ああ、どうしよう……!」
私の頭はパンク寸前だった。懐では去年のクリスマスに生まれた我が子が苦しそうに眠っている。昨日までは元気だったのに、今朝突然熱を出したのだ。私はびっくりして、慌てて抱っこひもで我が子をくくりつけ、カバンを掴むと家を飛び出した。
昔からあわてんぼうだと言われてきたが、この一年は特にそうだった。初めての出産に初めての育児で、頼れる人もいなくて、私はずっと慌てていたように思う。だが今日は特に慌てていた。だから傘を忘れてしまったのだ。というか、空が曇っていることすら気がつかなかった。バス停から病院まで五分ほど、雨は小雨だが、熱を出したこの子を濡らすわけにはいかない。かといって走って行くのもそれはそれでこの子に負担がかかる。どうしようかと私が泣きそうになっていたとき、一人の女子高生が私に話しかけてきた。彼女はなんと自分の傘を私にくれるという。その瞬間、私の目には彼女が女神様に見えた。
そして彼女と別れた私は急いで病院へと向かった。
「ただの風邪だね」
「そ、そうなんですか?」
「うん。インフルの反応はでなかったよ。それにしても急に熱が出たからびっくりしたでしょう。小さい子はそういうことがあるからねー。でも薬を飲んで安静にすればちゃんと治るから大丈夫だよー」
「よ、良かったぁ……」
ちゃんと治ると聞いて私は胸をなで下ろした。特に時期が時期だし、インフルエンザではないかと心配していたのだ。
「お母さん、子育ては初めてだったよね?」
「はい……」
「分からないことがあったら何でも相談してね。僕一応、小児科医だから」
「はい……!ありがとうございます!」
かかりつけの小児科医の先生。初老でいつも柔和な表情を浮かべているが、この日ばかりは彼が仏様に見えた。
広い待合室で待っていると視界の端にお爺さんがじっと何かを見ているのが映った。視線を辿ると少し大きめのクリスマスツリーが。キラキラと光るツリーを見ていると、去年のクリスマス、この子が生まれたときのことを思い出した。あの時は喜ぶ夫の顔がサンタクロースに見えたものだ。間違いなくこの子は、私の人生で一番のクリスマスプレゼントだった。そんなことを思っていると受付で名前が呼ばれた。薬を貰って病院を出る。雨は止んで、空には晴れ間が覗いていた。私は胸の中で眠る宝物をそっと抱きしめると、軽やかな足取りで家路についた。
「お父さんまた人の傘を間違えて持って帰ってきたでしょう」
私はこたつでぼんやりテレビを見ている夫に向かって言った。だが夫は「あー……」と生返事。私はため息をついて傘立てから傘を引き抜いた。
結婚して五十年。時に喧嘩をしながら今日まで連れ添ってきた夫だが、七十を過ぎた辺りから徐々にぼけ始めた。まだ妄想や妄言はないが、物忘れが激しく時折こうして他人の靴や傘なんかを間違えて持って帰ってきてしまうので非常に困っている。特に傘なんて持ち主も特に探していない場合が多く、誰の物かも分からない傘で傘立てが渋滞を起こしてしまっている。
だが今回は少し事情が違った。その傘には百円と書かれた値札が付いていた。値札が付けっぱなしということは、売り物の傘を黙って持って来ている可能性が高い。つまり、万引きをしてしまったのかも知れないのだ。
「ちょっとお父さん!これどこから持って来たの!」
今度は少し強めに聞くと、夫は「あー……?」と天井を見上げ考え込む仕草を見せた。
「クリスマスツリー…………」
「クリスマスツリーってあの駅前の?」
「駅前……?あぁ……クリスマスツリーだ。クリスマスツリーを見に行った」
「はぁ、分かったわ。じゃあ少し出てきますから、お父さんは留守番よろしくね?」
そう言って私は家を出た。
「駅前……駅前…………病院?そうだ、病院だ。あそこの病院のツリーを見に行ったんだ。おい母さん………ってもう行ったのか。あいつは昔からせっかちだからなぁ」
私はバスに乗って駅に向かった。駅前では毎年この時期になると大きなクリスマスツリーが設置されるのだ。この辺りでツリーを見に行くと言えばそこになる。おそらく夫が言っていたのもそのクリスマスツリーだろう。だが問題はこれが売り物だったのかどうかだ。
しばらく走るとバスは駅前に到着した。私はバスを降りてキョロキョロと辺りを見回す。すると私の目に一軒のコンビニが飛び込んで来た。…………あそこだ。
私はそのコンビニに向かうと店員に事情を説明した。すると店員は首を捻りながら傘を持って奥に引っ込んでいった。しばらくすると店長らしき中年男性が出てきた。
「えーっと、旦那さんがこの傘を万引きしたかも知れない……ということですよね?」
「はい……」
「確かにこれはうちで扱ってる商品なんですけど…………」
「ああ、やっぱり……」
私は額を押さえた。百円といっても犯罪は犯罪だ。私が謝罪の文句を考えていると店長が慌てて「あ、そういうことではなくて!」と訂正した。
「在庫を確認してみたんですが……たぶんうちで盗まれた物じゃないですね」
「え……、じゃあどこか他の店で……」
「それも思ってこの辺の店舗に電話してみたんですが、特に傘が盗まれたという話はなかったです」
「えーっとつまり…………どういうことでしょう?」
ここで盗んだ物じゃなくて、別の店舗で盗んだ物でもないということは…………。
「おそらく、誰かが買ってすぐの傘を間違えて持って帰ってしまったんじゃないでしょうか?」
つまり、夫は万引きをしていなかったということになる。
「ああ、良かった……」
私は胸をなで下ろした。でもこれで解決したわけではなかった。誰かの傘を盗んでしまったことに変わりはないからだ。
「これ、どうしましょう……」
しかしこんなことを言っては失礼だが、たかが百円のビニール傘である。持ち主が探しているとも思えない。するとその店長が一つの案を出してくれた。
「駅の忘れ物預かり所って知ってます?その横に忘れ物の傘を置く傘立てがあるんですけど、そこに差しておけば持ち主さんが取りに来るかも知れませんよ?」
「なるほど……」
しばらく考えてみたが、結局私は店長の案に乗ることにした。
駅の忘れ物預かり所は……あった。今まで全然気がつかなかったが、よく見るとかなり目立つところにあった。その横には店長の言っていたとおり忘れ物と書かれた傘立てがある。その端っこに私は傘を立てた。ふと値札が付いたままであることに気付いたが、もしかしたらそれが目印になるかも知れないのでそのままにしておいた。
「はぁ……なんだかどっと疲れたわ……」
駅を出ると真っ先に目に入るのが大きなクリスマスツリー。
「そういえば今日がクリスマスね…………さっきのコンビニでケーキでも買っていこうかしら」
クリスマスなんて今更意識することもないが、たまにはそういうのも悪くないかも知れない。
「傘忘れた……」
クリスマスの午後、俺は駅の入り口に立って途方に暮れていた。外は雨が降っていた。
まただ、また雨が降っている。そして俺はまた傘を忘れていた。しかも今日に関しては折りたたみ傘すら持っていない。昨日濡れたのでベランダに干しているのだ。念のためカバンの中を探してみるが、やはり折りたたみ傘は入っていない。ベランダに干しているのだから当然だ。
俺は目をこらして雲を見るが、晴れ間が出そうな気配はない。正直走って帰りたい気分だったが、雨脚は結構強く走って帰るのも難しそうだった。
「はぁ……せっかくのクリスマスだからって変な気起こすんじゃなかったぜ……」
俺はため息をついた。今日は日曜日で学校は休み。最初は一日中家でゲームをしようと思っていたのだが、何を血迷ったか急に本屋巡りでもしようかと思い立って家を出た。その結果がこれだ。結局本屋もリア充で溢れていて、俺は早々に切り上げ帰路についた。そして電車を降りた途端この雨である。ついてなさ過ぎて逆に笑える。いや、笑えない。
駅前のでかいクリスマスツリーは屋根に守られ相変わらずキラキラと光っているが、さすがにこの雨だとどこか寂しげに見える。俺はしばらくそのクリスマスツリーの電飾をぼんやりと眺めていたが、ふとあることを思い出した。
「あ、そういや……」
そしてそれを確かめるために忘れ物預かり所に向かった。
凄く目立つ場所にあるのに誰も知らないことで有名な忘れ物預かり所。その脇には忘れ物の傘を置いておく傘立てがある。その傘の持ち主はもちろんだが、実は傘を忘れた人がここから借りることも出来るのだ。俺も前に一度だけここの傘を借りて帰ったことがある。
「あった……!」
その傘立てを確認すると、一本だけ傘が置かれていた。
「ラッキー。やったぜ」
しかし俺はふとそこで思う。その傘というのが普通のビニール傘なのだが、なぜかやたらと綺麗だったのだ。いや綺麗な傘が残るっておかしくね?だってこういう時って大抵一番ボロい傘が残る物だ。でもこのビニール傘は明らかに買ってまだ間もない。そんな傘が残っているのはおかしい。だが、答えはすぐに分かった。この傘、柄に百円の値札が付けっぱなしになっている。おそらくこれのせいで敬遠されたのだろう。いくら困っていても、値札付きの綺麗な傘なんて借りづらいに決まってる。しかしそれが一本しかないなら話は別だ。是非も無し。
とまあそんなわけで、怪しい傘でないことは分かったし、俺はその傘を借りていくことにした。どうせ百円のビニール傘なんて持ち主も取りには来ないだろう。むしろ俺が貰っても良いんじゃないか?なんか新品で余り物って、佇まいも俺と似てるし。
「なんか今日はついてたなぁ」
俺はそう呟いた。総合すれば今日一日はついていないことになるのだろうが、終わりよければ全て吉田。いや全て良しだ。それにもしかしたら、残念なクリスマスを過ごす俺への神さまからの贈り物なのかも知れないしな。だとしたら本当についてる。帰ったら早速クリスマスガチャでも引いてみるか。俺は傘を差して歩きだした。百円の値札がひらりと風で揺れた。
神さま「わしゃなんもしとらん」