扉
私は、前途有望な若手会社員。人より大抵のことはよくできるし、物覚えもいい。某一流大学を出て、まず一流といって良い会社に入社し、全ては順調。
今日など、私の提案が採用された件で部長じきじきにお褒めの言葉をいただいた。いい一日だった。
カタリ。そう思いながらマンションの私の部屋の扉を開ける。
扉を後ろ手に閉めると、俺は重々しい足取りで職場へと向かう。
大学は出たものの、ろくな職にありつけず、バイトをして日々食いつないでいる俺は、昨日バイト先のレストランでヘマをやらかしてクビになってしまったのだ。もう一度だけ雇ってもらえるよう、頼み直すほかない。
「どうかお願いです。あのような失敗は二度としませんので」
「困るんだよね、君。君はクビっていったろ?さあ、帰った帰った」
「そこをなんとか」
「このご時世だ。君みたいな能無しを雇っておく余裕はないんだよ」
それを聞いて私の中の何かがプツリと切れた。
「能無しとはなんだ、能無しとは!下手に出ていればいい気になりやがって。もういい。こっちから願い下げだ!」
こんな日は、なにをやったってうまくいきやしねえんだ。帰って酒でも飲もう。しかし、えらく疲れた。
いつもと変わらず、崩れそうなくらい古くて汚いアパートの自分の部屋の扉を開ける。
パタン。
そして、私は希望に胸を膨らませながら歩み出す。
◆ ◆ ◆
その日、俺は夕暮れの公園のベンチに座って一休みしていた。
俺は平凡そのものの人間だった。
ある点では少し人よりも優れ、別の点では少し劣った。
これからも俺はこんな普通の人生を送るのか。人並みの苦労。人並みの幸福。人並みの死。人並みの人生。
ああ、全て人並みだ。
「まあまあ、人並みの幸せ。悪くないじゃあありませんか」
いつの間に現れたのか通りがかりの老人がささやく。
「そうでしょうか?私にはつまらないものに思えますが」
「失礼ながら私はあなたより長く生きている身だ。私ぐらいの歳になると普通ということに価値を感じさえするのですよ」
「そういうものなのですか?」
「なんなら試してみますか?代償は伴いますが。人生、良いことがあれば悪いこともあるものです……」
◆ ◆ ◆
目を覚ますと俺はアパートの自分の部屋の前に立っていた。
そして扉を開けると……
その日から俺は自宅のドアを境に、二つの人生、簡単に言って、良い人生と悪い人生を生き始めた。この二つは正反対で、悪い人生が悪くなるほど良い人生が良くなった。
きっと今日は良い日になるに違いない。再就職に失敗したのだから。
社に行くと案の定、昇進を告げられた。社内でもこれほどの若さでは異例なのだという。
幸福と不幸の振れ幅はどんどん大きくなった。
私はついに歴代最年少の部長となり一部門を任せられるまでになった。以前から気になっていた女の子と運良くお付き合いすることになり、トントン拍子で結婚にこぎつけた。
続く上昇。
それは他方で下降を意味した。
俺は、たちの悪いサラ金から金を借り、それを返すために別のサラ金から借金しているうちに、債務額は雪だるましきに膨らんでいった。もはや正常な精神でいられたものではない。酒に浸る。酒、酒、酒。
それでも足りなくて薬に手を出す。
酒、酒、酒、金、薬、酒、薬、金。
そのうち空き巣をやるようになり、ついには金持ちの老人の家に押し入って老人を殺し、金を奪った。それでしばらくは暮らせたが、ついに警察に捕まった。
そこからはコンクリート。冷たい壁。禁断症状。アル中の幻覚。
そして強盗殺人の裁判も進んでゆく。
俺は命からがら、逃げ出すと、ぼろアパートの扉の前に立つ。
パタン。
数日、数ヶ月、あるいは数年がたった。
その日は、史上最高の日だった。
宝くじを買えば当たるし、街を車で走れば信号にかかることもない。持っている株は予想外の上がり方を見せ、売り払うと、それだけでもずいぶんと儲かった。それ以外にも……
ああ、今日はなんて良い日なのだろう。
しかし不意に私は、恐ろしくなった。
この無尽蔵の幸運はあっちでの無尽蔵の不幸。
これだけの幸福を呼びうる不幸は一つしか心当たりがない。向こうで判決の決まった死刑の執行。一度脱獄したこともあり、逃げ出せぬよう、看守が厳重に向こうの私を見張っているため、逃げ出すことも不可能だ。
死ぬことだけはなんとしてでも避けねばならない。
そうだ!あちらの不幸はこちらの幸福。ならばこちらの不幸はあちらの幸福。私はなんとしてでもこちらで不幸にならねばならない。
「やい、金を出せ!」
私は稚拙な強盗を試み、わざと捕まることにした。
ところが、その日に限って銀行の電話が故障し、通報が遅れて強盗がうまく成功することとなった。思わぬ臨時収入だが、今は喜べない。
どうすればいい?
高いところから落ちて怪我をしてやろうと社の二階から飛び降りると、偶然、積まれてあった廃棄予定の緩衝材の山に着地して無傷。しかもそれがきっかけで緩衝材に紛れて捨てられそうになっていた重要書類を見つけて社長から特別褒賞をもらう羽目になった。
もうやめてくれ。
路端で転んだが、溝に落ちた大金を見つけてしまった。無視して歩き去ろうとすると
「素晴らしい。あなたは、この拝金主義の蔓延した世の中で珍しく無欲なお方だ。そんなあなたなら役立ててくださるだろう。実は私、それなりの財産はあるのですが、身寄りがなく、先も長くないとのことなので、誰に財産をお譲りしたものかと悩んでいたのですが……」
「いえ、そんな。よしてください」
「いやいや。こうしてお金を置いておくと大抵の人は辺りを見回し、サッと懐に滑り込ませるものです。しかしあなたはそうしなかった。あなたにぜひ私の財産を……」
やめてくれ……
人間の死と釣り合う幸福。それがどんなものかは知らなかったし、最後まで知りたくもなかった。
私は公園のベンチでうなだれていた。
「どうでしたかな?」
気づくといつかの老人が目の前に立っている。
「ひどいものです。ええ、本当に」
「そうでしょうな。やり直したいですか?」
少し考える。
「そうですね。叶うことなら」
「実は、始まってもいないのですよ」
いつの間にか俺はアパートの前に立っていた。
パタリ。ドアを開ける。
そこには俺の部屋があった。
俺の部屋。随分懐かしい気分になった。
不意に涙がこぼれた。
今日は長い一日だった。