9.
真昼間。泉からの連絡があり、その内容は「これから悠君ちに遊びにいっていい?」というものだった。「アルコール、買っていくから」という文言つきだった。「ちょっと、えっと、泉さん」といったふうに、僕の口調は滑らかさを欠いた。だけど、「とにかく行くから」と言ってくる。「もはや決定事項だから」と言い切ってくれる。受け容れるしかないと考えた。止む無く住所を教えた次第だ。
白いシャツとデニムパンツに着替えた。大音量を奏でるヘッドホンを耳に当てたいところだけれど、来客を告げるインターホンを聞き逃してしまうのはよろしくないだろう。だから黙して待った。だるまみたいに。
ピンポーン、とは鳴らなかった。くだんの二人は当たり前のように入室してきたから。
「悠君、ハロー」
黒いスーツにノーネクタイの泉が顔の横でひらひらと右手を振った。左手にはビニール袋。その中に収まっているのはジャックダニエルのボトル、計五本。七百二十ミリリットルのモノだ。彼女と同じく黒い背広姿の本庄はというと、小さくではあるけれど、申し訳なさそうに頭を下げた。あねさん女房の突拍子もない行動については、少なからず、否、大いに辟易していることだろう。
お気に入りの座布団の上で丸くなって眠っていた黒猫のみーちゃんが動いた。本庄のすねにすりすりする。「へぇぇ」と興味深そうに発しながら、彼は両膝を折って彼女の頭を撫でた。
「忍足先輩、猫好きだったんスか」
「喉、ごろごろ鳴ってる?」
「鳴ってるッスよ。普段は人見知りするタチなんスか?」
「それはわからない。他人をこの部屋に上げるのは初めてだから」
「一人が好きなんスか?」
「職業を考慮しているつもりだよ」
「ま、それが、べき論ッスよね」
僕は腰を上げ、キッチンへと向かおうとした。
「あ、グラスならいいッスよ、忍足先輩」
「要らないの?」
「はいッス」
本庄がそう答えた時には、泉はすでに四角いちゃぶ台の前であぐらをかき、ボトルのラッパ飲みを始めていた。乾杯もせずに飲み始めてしまうあたりは彼女らしい。
僕もボトルから直接すする。一定のペースで口にする。耐性はあるので酔いはしない。あまり美味しい酒ではない。「不味い酒は、ただ酔いたい時に飲むんだよ」という泉の言葉は真理だ。
「ところで悠君、最近、面白い話題はないの?」
「ないです」
「相変わらず、きっぱり言うね」
「泉さんはどうなんですか?」
「数だけはこなしてる。必要なのは実績だからね」
「わかる理屈です」
「だよね。私もわかってる」
「本庄君はどうなの?」
「え、俺ッスか?」
泉が左手を伸ばして、本庄の頭をがしがしと掻いた。
「コイツはまだまだ勉強中。私が先生ってわけ。感謝してもらわないとね」
「うるせー、ったくよ」
泉の手をのけた本庄。あぐらをかいている彼の脚の上では、みーちゃんが丸くなっている。微笑ましい様子だ。いっぽうで、自分以外の男性と仲良くしてほしくないなあと内心で少し妬いたりもするのだけれど。
最初に酔い潰れたのは本庄だった。なんだか珍しいなと思う。彼がフロアに転がり、無防備な寝顔を晒すなどとは考えもしなかった。
本庄の頬をそっと撫でると、泉は「いつもとんがってばっかりだけど、寝てると案外、可愛いでしょ?」と、どことなく自慢げに言った。実際、静かな寝顔だ。すっかり安心しきっているように見える。
「ねぇ、悠君、君、なにか悩んでない?」
「どうして、そう?」
「なんとなく、だよ」
「悩みのないニンゲンなんているでしょうか?」
「いないだろうね」
「だったら、泉さんにだってなにか悩みがあるんじゃないですか?」
「グッド。いい質問。でも、あるのは悩みじゃなくて心配事かな」
「話だけなら聞きますよ」
「ううん。ヒトに話すようなことでもないんだよ」
「本庄君には話したんですか?」
「それもいい問い掛け。話したよ。もはやコイツは私のことを全部知ってる。心も体も、全部ね」
「他人にそこまで委ねられる。僕にはわからない感覚です」
「いつか君にもそういうヒトが現れることを祈って」
「余計なお世話です」
「あら、素っ気ないこと」
「いえ、言いすぎました。ごめんなさい」
「いいよ。ところで、『マトリ』の話。『特強班』の話」
「それがどうかしましたか?」
「十年勤め上げたら、厚労省のポストが待ってる。それからは人生安泰。そんなレールを外れて、悠君はウチに来た。そこにある根源的な理由ってなに?」
「えっと」
「うん?」
「違うなって思ったんです。『特強班』で仕事をしていると、己の存在について、わずかながらもズレみたいなものを感じたんです」
「ズレ?」
「生きているようで生きていない。ほんのわずかな違和感であろうと、そんな思いが、僕の中には確かにあった」
「そんな折に、ボスからの勧誘があった」
「なにが正しくてなにが間違いなのかはわかりません。でも、後藤さんの言葉には力と理想が感じられた」
「わからなくもないセンスだね」
「泉さんは、また違った考え方を?」
「軍に居続けるのが面白くなくなって再就職先を探してた。それだけだよ」
「居続けるのが面白くなくなったというのは?」
「言葉通りの意味。悠君は私の過去について、調べたことはあるの?」
「ないことはありません」
「どうして情報を得ようと思ったの?」
「興味本位です。他意はないです」
「君、私のことが大好きなの?」
「他意はないと言いました」
「それでもなんというか、エッチな話だこと」
「神崎英雄という名前だけなら、世の誰もが知っていると考えます」
「そうだよね。君は彼について、どこまで知ってる?」
「恐らく、主要な部分はすべて把握していると思います」
「『ОF』、『オープン・ファイア』。君からしたら、彼らはどういった評価になる?」
「右派、左派、それと中道という言葉はもはや死語ですが、そのいずれにも属さない反体制をうたうだけの集まりだというだけですね。もっと言ってしまうと、思想的な偏りはあろうと、その実、PMCとなんら変わりがない」
「確認。私が神崎の女だったってこともご存じなんだね?」
「はい。不倫ですね?」
「そう。不倫」
「ええ。不倫です」
「私自身、不安だよ。もし彼がまた私の前に現れた時、彼になびいたりしないか、それが不安」
泉はまた、本庄の頬に左手を当てた。
「もしダメなほうにサイの目が出てしまったら、本庄君は不幸ですね」
「だから、どうか私を離さないでって言ってある」
「泉さん、僕は貴女の言葉を信じたいと考えています。しかし」
「神崎に引っ張られるような気がしないでもない。そう言いたいの?」
「前にも言ったかもしれませんけれど、一つだけ述べておくと、僕は本庄君のことがとても好きです」
「じゃあ、すべての事象や事情が本当に悪いほうに転がっちゃった場合、すなわち、最終的に私が敵に回っちゃうような事態になった場合、君はどうする?」
「本庄君にとって最もダメージが少ない措置をとるつもりです」
「怖いな、悠君は」
「そうお考えなら、僕を向こうに回さないほうがいい」
「心得とく。でもね、悠君」
「はい」
「私、本当に本当にコイツのことが好きなんだ」
それは邪気のない言葉に聞こえ、心底、そう捉えているのだろうと解釈することができた。僕にはそう感じられた。
泉と協力して本庄の大きな体を支えつつ、地下駐車場のゲストスペースに止めてあった小さな黄色い車、スイフトスポーツのナビシートに、彼を乗せてやった。
「朔夜が酔い潰れるなんてね。ホント、珍しいな」
「色々と、思うところがあるんじゃないですか?」
「思うところって?」
「さあ」
「またそうやって煙に巻くんだ、悠君は」
「家まで送るんですか?」
「うん。でもってコイツの家で抱いてもらう。明日の朝までね」
「それはスゴいですね」
「神崎さんよりコイツのほうが優れてる。絶対的にそうだって言える点が一つある」
「それは?」
「圧倒的にセックスが激しくて、そして上手いんだよ」
「大事なファクターです」
「でしょ?」
泉は運転席に乗り込んだ。僕がそちら側に回り込むと、パワーウインドウを開け、「悠君、楽しかったよ。今日はありがとうね」と彼女は言った。また来てくださいとは答えなかったけれど、来ないでほしいとも言わなかった。一緒にいて嫌な気はしなかったから。当然、飲酒運転はいかがなものかと思ったけれど。
部屋に戻った。みーちゃんがこちらを見上げて、「なおーん、なおーん」と鳴く。なんとなくでしかないけれど、その意図を察して、僕は「本庄君なら帰ったよ」と言葉を向けたのだった。