6.
新ヶ関の、とある庁舎。最上階に『マトリ』のトップが詰めているガラス張りのビル。そこを訪れた。当該組織における特殊な面子、すなわち『特別強行班』の存在は基本的に伏せられている。事務屋に訊いたところでメンバーの素性はよくわからないと答えるだろう。
勧められたわけではないのだけれど、局長室内の応接セットに僕はついた。以前から、えんじ色のソファはなんとなく趣味が悪いと思っていた。比較的さっぱりとした部屋には似合わないと思っていた。
「忍足君。ウチに戻ってこないか?」
向かいに座るなり、そう切り出したのは局長だ。七三に分けた髪。鼻の下には髭をたくわえている。恰幅はいいし、それなりに見た目に気を配る人物でもあるけれど、上役としての威厳についてはかろうじて保っている程度で、イマイチ迫力には欠ける。
「後藤という人物だ。彼に無理やり引っこ抜かれたかたちになってしまったが、正直、私は認めていない」
「僕がいないと困る。そんな貧弱な組織だったんですか?」
「それはだな」
「使いようですよ」
「使いよう?」
「はい。適材適所を重視してやれば、おのずと結果はついてくるはずです」
「偉そうなことを言ってくれるじゃないか」
「そう聞こえたなら謝ります」
「いや、いい。謝罪の必要まではない」
「僕にしかできない仕事。それがあるなら手伝います。幸い、今は忙しいとは言えないので」
「本当か?」
「はい」
「とあるカルテルの大物を的に入れるまでに至った」
「のっけから深い話ですね」
「だろう?」
「主担当は?」
「白雪君だ」
珍しい苗字ではあるが、その人物は確かに存在していている。女性だ。名は体を表すとでも言うべきか、肌は真っ白。その分、真っ黒な髪が映えて見える。赤い唇も、際立って美しい。以前、彼女とはたびたび仕事をともにしていた時期がある。僕が先輩、彼女が後輩といった格好で。
「任せるわけには?」
「どうにも心許ない。彼女の能力を疑っているわけではないんだが」
「不安であるなら増員すればいいのでは?」
「一人でやれると意気込んでいる」
「彼女にはそういうところがありますね」
「難題だと思わないか?」
「思わなくはありません。局長は動き自体は是としつつも、単独での行動は非としているわけですね?」
「そういうことだ。忍足君、力になってくれないか。白雪君は君の言うことならよく聞く」
「少々不本意ですが、まあ了解しました。まずは白雪さんに会ってみます」
バス停のベンチで待っていると、グレーの背広を着た白雪が近づいてくるのを見つけた。向こうは向こうで「忍足せんぱーい!」と大きく右手を振って見せる。肩先にまでは届かない程度の長さの黒髪。絶対にパンツスーツ以外は身につけないというポリシーは健在のようだ。
「バスで移動するのですか?」
「問題ある?」
「タクシーにしましょう。内緒話をするには、そのほうがいいはずなのです」
「内緒話は行った先でするんだよ」
「行った先って? ひょっとしてホテルとかですか?」
「そういう冗談はやめてほしい」
「相変わらず、忍足先輩ってば真面目ですね。なんだか安心しちゃいました」
白雪はどこか心地良さそうな笑みを浮かべたのだった。
とある喫茶店にて。
「ここには前にも来たことがありますよね」
「なにが言いたいの?」
「情報漏洩してしまわないかなあ、って」
「しないよ」
「どうして言い切れるのですか?」
「僕はそういった気配に滅茶苦茶敏感だから」
「滅茶苦茶ですか。先輩にそう言われると納得せざるを得ないのです」
「白雪さん、案件の詳細を話してごらん」
「局長から聞かされたと思いますけれど、いよいよ某暴力団の幹部の首根っこを掴まえるに至ったのです」
「クスリについてだね?」
「はい。なにせ、『マトリ』の『特別強行班』なのですから」
「情報に間違いはないの?」
「諜報班』と二人三脚で進めました。ハズレはありません。ありっこないはずです」
「警察に応援を頼むべきだと思うけれど」
「私が仕留めたいのです。私がやり遂げたいのです」
「白雪さんらしい言い分だね」
「とはいえです。ことを成すには忍足先輩を当てにしろと局長に言われたわけでして、そういうことなら私は他者の介入をゆるしてもいいわけでして」
「局長は無責任だなあ」
「協力していただけますですか?」
「もう踏み込むだけなんだよね?」
「はい。根城を潰しにかかる段階です」
「やっぱり数に頼ったほうが無難だ」
「それはわかってるって言ったではありませんか」
「いいよ。手を貸すよ」
「やったーっ」
「ずいぶんと喜ぶね」
「またご一緒できると思うと嬉しくって」
「君は正直だね」
「はいっ」
夜、問題のヤクザの事務所に押し入り、大量の禁止薬物、特にコカインを発見した。情報通りにことは展開し、首尾よくまとめてしょっぴけたことから大成功と言える。ヒトが死ぬようなこともなかった。夜、犯人連中がパトカーに乗せられ連行されたあと、二人きりになると、白雪は僕の右肩に両手を置いて、「やった、やった!」と声を弾ませながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。まるで学生のノリだ。でも、自らの感情に従順だというだけであって、その表現方法が多少子供っぽいというだけなのだ。僕はそんな彼女のことが嫌いではない。もっと言うと、妹のようにすら思っている。
翌日、ホワイトドラムに呼び出された。四階にある居室に入ってみると、例によって組織の代表を務める後藤がゴルフクラブを持ってスイングしていた。特に断ることもなくソファについて待つ。すると彼は向かいに座った。ふーっと長い息をついたのだった。
「悠君、君、昨日の夜、『特強班』の任務に関わったそうだね」
「もうご存知なんですか?」
「当然のことさ」
後藤はどんな情報でも素早く的確に把握する。彼の二つ名は’情報倉庫’。それに恥じぬだけの能力、あるいは人脈を有しているということだ。
「やめてよ、そういうことはさあ。君はもう僕の駒なんだからさあ」
「案件に携わったのは、単なる独断です」
「だから、それをやめてほしいって言っているんだよ」
「もうしません」
「昨日のことはもはや過去形かい」
「必要であれば、報告書を提出します」
「要らないよ。釘を刺した。その事実だけ咀嚼し、喉に通してくれればいい」
「了解しました」
「改めてになるけれど、白雪さんだっけ?」
その名を持ち出され、ぴくりと右の眉を持ち上がった。だけどそれも刹那のこと。僕はソファから腰を上げた。
「白雪さんは君にとって、どういった人物なんだい?」
「ただの後輩です」
「その解釈は矛盾していると思うなあ。彼女が関わっている案件でなけりゃ、君も手助けなんてしなかっただろう?」
「それは単なる勘でしょう?」
「違うね。経験則に基づく予測だ」
今夜は泉に呼び出された。酒を飲むから出てこいという話だ。彼女に誘われて断る術なんて持ち合わせていない。出向くより他にない。
場所は和洋の店が混在したビルの一階だった。ワインバーだった。泉は木製の背もたれをうしろにした四人用のテーブル席で、手酌でやっていた。安くはない品だと考えられるけれど、がぶがぶ飲むヒトなので、そこにありがたみはないように映る。彼女は「座れ、青年」と促してきた。僕は言われた通りに向かいの席につく。
「ボスから嘆き節を聞かされたよ。つまるところ、悠君は『マトリ』に手柄と花を持たせちゃったわけだ」
「正直に言います」
「言ってみな」
「浮かない顔ですね」
「それは正しい見立てかもしれないね」
「本当ですか?」
「冗談を述べる必要がある?」
「いえ」
「悠君は正直すぎるね。たまには先輩の愚痴につきあいな」
「そういうことであれば」
「いい? 話しても」
「どうぞ」
「朔夜のヤツと喧嘩しちゃった」
「本庄君と?」
「そ。今日もちょっとした事案でヒトを殺したんだ」
「ターゲットは女性だった」
「そういうこと。アイツは最後までやめろって言った。果ては頼むからやめてくれって懇願してきた。だけど私はハンズアップまでしてきたのを無視してまで対象を殺害した。九ミリ一発でおでこをぶち抜いてね」
「泉さんは自らのルールと美学に則って行動したんでしょう?」
「そうだよ。悪をのさばらせておく理由なんてない。違う?」
「違いません。止むを得ないから殺す。彼にはそのあたりの必然性がわかっていない」
「だからといって、突き放せる?」
「その一手もアリじゃありませんか?」
「別にね、喧嘩をすること自体は珍しくないんだよ。なら、どうして相棒同士でいられるのか。お互い、熱くなりやすいし、そのいっぽうで冷めやすいんだよね。だから、特にごめんも言わないまま、関係が成り立ってる」
「本庄君のことは好きですか?」
「ズバッと来たね。好きか嫌いかは置いといて、少なくとも、代わりなんていない」
「じゃあ、本庄君にとっての泉さんもそうではないかと考えます」
「そう?」
「保証しますよ」
「君に保証されてもなあ」
互いに見つめ合った。いつ見ても泉の紅茶色の瞳は色っぽい。こちらの視線を絡め取られるような気分に陥る。容姿端麗。明眸皓歯。そんな表現がバシッと当てはまる人物が地球上にいるだなんて信じられなかった。彼女に会わなければ信じられないままだったかもしれない。抜群すぎるスタイルと相まって、浮世離れした人物だと評しても、なんら大げさではない。
「個人としての見解を述べます」
「うん」
「彼ほど強固な信念を持ったニンゲンを、僕は他に知りません」
「その信念のせいで、アイツはちょっと、苦しんでるわけだけど?」
「だからこそ、愛おしい。女性に言わせると、かわいいとも言えるのでは?」
「『治安会』のみんなで、アイツを育てていこうってことかな?」
「その役目、僕は遠慮させていただきます」
「どうして?」
「放任主義ですから」
きょとんと目を丸くしてから表情を崩し、泉は笑んだ。その笑顔は無邪気さを孕んでいるように見えた。彼女はやっぱり、本庄のことが好きなのだろう。愛しているのだろう。