23.
非番だ。エサを食べているみーちゃんの背を撫で、食事が終わったら、彼女はあぐらをかいている僕の脚の上に乗り上げてきた。ふさふさとしたその喉に触れる。ちゃんとごろごろとリアクション。嬉しい限りだ。自分の身がなにより大切だと定義するようなナルシストにはなれないし、なるつもりもないけれど、愛猫に好かれている自分は愛したい。
スマホが唸った。バイブレーションのテンポからして通話の知らせ。ディスプレイを見ると後藤の文字。僕とみーちゃんの触れ合う時間を邪魔してほしくないなあと思いながらも応じた。
「もしもし」
「悠君、元気かい?」
「昨晩、居酒屋で顔を合わせたばかりだと記憶しています」
「うん。昨日は楽しかった。君と曜子さんと僕。三人ワンセットは初めてだったよね」
「そうですけれど。それで、なんの用ですか? 仕事ですか?」
「逃げの一手を打つしかなくなった、例の『特強班』の連中のことだ」
「彼らは特別な訓練を受けています。あまり侮らないほうがいいですよ」
「舐めてかかるつもりはないけれど、顔と名前ははっきりしているんだから、そのうち漏れなく逮捕できるよ」
「裏を返せば、顔と名前を変えられたら終わりじゃありませんか?」
「そうだね、その通りだね。だけど、整形してまで逃げようとする細かな輩に用事はない。うん。そんな小物には用はない」
「となると、僕にいったい、どういう指示を?」
「いや。改めて現状をシェアしたかっただけだよ。休みを謳歌してもらってかまわない」
その程度の情報共有が目的ならわざわざ連絡を寄越さなくてもいいのにというのが本音なのだけれど、僕もいい大人なので、「わざわざご一報いただき、ありがとうございました」と謝辞は述べておいた。膝の上のみーちゃんの喉を撫でる。やっぱりごろごろ鳴っている。「ごめんね、みーちゃん。いつも一緒にいてあげられたらいいのにね」と僕が言うと、彼女はやっぱり「なおーん」と鳴いたのだった。
翌日。環状線の車内にて、ヘッドホンで”ブラッド・メルドー”を聴いていた。業務連絡がなければ、夜までずっとここで時間を過ごすだろう。実際、そういうことになりそうな雰囲気だ。夕焼け時になっても、いよいよ暗くなっても、なんの知らせもない。
帰路に着くべく別の列車に乗り継ごうと電車からおりる。おりたところで、サイドポケットのスマホがブルッた。ディスプレイには後藤とある。改札内のキヨスクの脇で電話に出た。
「よかったよ、悠君。捕まったね」
「なにかありましたか?」
「曜子さんと連絡がつかないんだ」
「黒峰さんと? それがどうかしたんですか?」
「これといった業務がない時、彼女は必ずオペレーションルームで情報収集に精を出しているだろう?」
「そうであるはずなのに、出勤していないと?」
「そうなんだ。何度電話をしても出てくれない」
「あるいは、恋人と一緒なんじゃないですか?」
「彼女の恋人は現状、仕事だろう?」
「そうかもしれませんけれど」
「曜子さんが最も信頼しているのは君であるはずだ」
「そうでしょうか」
「そうなんだと確信している」
「わかりました。僕から連絡を入れてみます」
「そうしてもらえるかな。それにしても」
「なんですか?」
「いやね。嫌な予感がするんだよ。それが正解ではないことを祈りたい」
「切ります」
「ああ。任せることにする」
通話を終え、駅の構内から出た。出た瞬間のことだった。スマホが再び着信を告げた。ディスプレイを確認。連絡を寄越した人物の名を見て眉間にしわが寄った。黒峰だ。後藤いわく、まるで連絡がつかなかったというのに、ここに来てコンタクトしてくるとはどういうことだろうか。
僕は「もしもし」と、それなりの緊張感をもって答えた。「もしもーし、忍足先輩ですかあ?」と返してきた声の主は紛れもなく白雪明日香だったので少し驚いた。
「どういうこと、白雪さん。どうして君が黒峰さんのケータイを持っているの?」
「その点はまあ、どうだってよいではありませんか」
「どうだっていいってことはないよ。どういうことかって訊いているんだ」
「黒峰さんは人質なのです」
「人質? どういうことだい?」
「忍足先輩をおびきよせるためのエサだということです」
「君はいったい、なにを――」
「今から三十分後に、黒峰さんを撃つのですよ」
「やめなよ、そんな真似は。無意味だろう?」
「場所は新ヶ関。『マトリ』の本部が入っているビルの屋上です」
「ヘリポートだね?」
「はい。現状、ヘリはとまっていませんけれど」
「ここからそこまでは、そうだね、タクシーでちょうど三十分くらいかかる」
「間に合うとよいですね。お仲間が撃たれるのはお嫌でしょうから」
「違いない」
「あ。一人で来てくださいね?」
「わかっているよ」
「では、待ってまーす」
駅前のロータリーでタクシーを拾った。速やかに行き先を告げる。中年のドライバーが「こんな時間に新ヶ関ですか。なんの用なんです?」と、つまらない口を利いてきた。少々イラついている僕は「黙っててもらえますか」と言った。鼻白んだ様子で「はいはい」という返答があったのだった。
白雪が黒峰を拉致した。いったい、どういう手段を用いたのだろう。いや、それはともかくとして、白雪にはどんな目的が? 黒峰がエサだというのであれば、あるいは僕を殺したい? それは飛躍しすぎだろうか。現状、向こうの考えるところは知りようもない。
「運転手さん、もっと飛ばしてください」
「これ以上は無理ですよ」
「自分の脳みその色を拝みたいですか?」
「の、脳みそ? 色?」
「でき得る限りをやらないと、殺すと言っています」
「そそ、そんなことできるわけが」
僕は懐から拳銃を取り出し、それを運転手のこめかみにつきつけた。
「僕は貴方を殺して車を奪うような真似はしたくない。わかっていただけませんか?」
「は、はは。ほ、本物ではないですよね?」
「そうお考えになるなら、ぶっ放してご覧に入れます」
「わ、わかりました。シートベルトを締めてください」
「必要ありませんよ。とにかく貴方は貴方の仕事をしてください」
「は、はい。承知いたしましたっ」
目的地に到着。エレベーターに乗り込み、滅多に押すことのなかった三十一階のボタンを押した。着いた先には小さな階段室しかない。ヘリポートを訪れるためのフロアでしかないからだ。
屋上に出た。もうすっかり夜の時間帯だけれど、ヘリポートはいくつもの白いライトで照らし出されている。その真ん中に白雪がいた。拳銃を右手にぶらさげたまま、こちらのことを見てにっこりと笑った。
「ようこそなのです、忍足先輩」
「歓迎の言葉を受け取る気分じゃないよ」
だって、白雪のすぐ隣で、後ろ手に縛られたまま正座をさせられている黒峰がいるのだから。
白雪が左の手首の内側の腕時計を見た。「三十分が経過しました。というわけなので、実行します」と述べた。「でも、先輩は時間内にお越しになられたので慈悲を与えます」と続けた。
白雪はしゃがみ込むと、後ろから黒峰の左の肩をパァンッと撃ち抜いた。
黒峰は銃による衝撃を左肩に受けたわけだけれど、ほとんど微動だにしなかった。苦しげな声も発しなかった。しぶとい。強靭な精神力だ。
白雪はなにも言わない。こちらを見て口元に不敵な笑みをたたええている。
「見ての通り、黒峰さんがすぐに亡くなる心配はないのです。肩を撃たれただけなのですから」
「それはそうだね」
「そういうことなのです。忍足先輩、おしゃべりにつきあっていただけますか?」
「長話をするつもりはないよ」
「それで結構なのです」
「なんでも言ってごらん。なんでも訊いてごらん」
「『マトリ』は、『特強班』は、先輩にとってつまらない居場所でしたか?」
「そこまで強くは感じていない」
「でも結局のところ、辞めてしまわれたではありませんか」
「もういい」
「えっ、なんですか?」
「もういいと言ったんだ。今の本音を言わせてもらうよ」
「なんですか?」
「君の黒峰さんに対する仕打ちを目の当たりにして、僕はムカついている」
「でしたら」
「かかってきなよ。そのほうが、諦めがつく」
「諦め?」
「僕は君すら殺したくないからだ」
「それでも、殺せますか?」
「うん。殺そうと思う」
「了解です。遠慮なくいきますですよーっ」
二十メートルほど先の白雪が発砲してくる。命中することはない。なんといっても二つ名は’弾が当たらない男’なのだから。銃口の向きさえ察知できればいい。撃ってくるタイミングはなんとなく悟ることができる。だから僕は銃弾をパーフェクトにかわして見せる。速やかに横移動するだけだ。自画自賛ではなく事実として、弾丸をよける時の僕の動きは残像すら伴うことだろう。その俊敏さには誰もが目を見張るはずだ。
動きの中で、僕は懐から九ミリを抜き払った。攻撃から逃れつつ、それを白雪に向ける。彼女は「あははっ」と笑った。愉快そうに笑った。
救う手もアリなのかもしれない。救うべきなのかもしれない。だけどどうしたって、彼女は死にたがっているようにしか見えなかった。僕に殺されたがっているようにしか思えなかった。
だから僕は、白雪に向けて、容赦なく弾丸を放った。撃ち抜いた。彼女の胸の真ん中あたりを。
後悔なんてしない。僕はいつもいつだって、自らの思う通りに、また自らが納得できるように行動してきた。今回もその範疇に収まる話だ。自らの価値観を揺るがせにするような事案ではない。冷たい男だと評されても、それくらいがちょうどいい。
仰向けに倒れた白雪のもとに近づく。真下に見る彼女は苦しげな様子も見せず、細い息すらしていなかった。口の端からただ血をこぼし、やっぱり「あははっ」と笑って見せた。
黒峰の前で屈む。「大丈夫かい?」と問いかけると、「問題ありません」との返答があった。彼女の背後に回り込む。やはり手錠で後ろ手に拘束されていた。
「白雪さん」
「わかっていますですよ」
白雪がジャケットのサイドポケットを探り、小さな手錠の鍵を手のひらにのせた。僕はそれを手にし、黒峰の拘束を解いた。黒峰はすっくと立ち上がった。僕もそれに続く。「頑丈だね」と声を掛けると、「私も『治安会』の一員ですから」という頼もしい答えが返ってきたのだった。
「白雪さん。君の命はもう尽きる」
「わかっています。わかっていますですよ」
「愚かな真似をしたね」
「その点は否定しないのです」
「どんな手段でさらったの?」
「一度、お会いしただけなのに、黒峰さんはなにも問うことはせず、快く迎え入れてくださいました」
「いつでも発砲できることを匂わせ、表にとめてあった車に乗せた」
「そういうことなのです。あくまでも黒峰さんは、忍足先輩を呼び寄せるためのエサに過ぎなかったのです」
「どうやって黒峰さんの住所を知ったのか教えてほしい」
「『OF』って言ってわかりますか? まさか、わからないわけがありませんよね?」
「『オープン・ファイア』。なるほど。君は彼らと繋がりがあったのか」
「ごく少数で運営されている可能性は多分にあります。でも、間違いなく『OF』は情報の収集能力に長けています。『治安会』について、すべての事柄を手のうちに入れているとまでは言いませんけれど、ある程度のことは把握していると見て間違いありません」
「ちなみに、『OF』の首魁は神崎英雄?」
「さあ。それはどうでしょうか」
「はぐらかしてる? それとも知らないだけ?」
「内緒です」
「わかった。最期に情報展開、ありがとう」
「やっぱり、やっぱり最期なのですか……?」
「だからそう言ったし、そう言ってる。死ぬのは嫌かい?」
「そんなふうに思えてきましたです……」
「だけど君はここで死ぬし、死ぬべきだ」
「黒峰さんのことがよほど可愛いんですね」
「そうは言ってないよ」
「では、サヨナラです、忍足先輩……」
「君のことは忘れない」
「はいです。どうか、忘れ、ないで、ください……」
そう言い残して、白雪はこの世を去った。
黒峰を医者に診せるべく病院へと向かう最中、等間隔で設けられているオレンジ色の街灯が、一定のペースでもってタクシーの車内を照らす。
「白雪さんはどうして無意味ともとれるような行動を起こしたのでしょうか。指名手配されている以上、とっとと遠くに逃げて当たり前なのに」
「彼女には逃げるつもりなんてなかったんだ」
「なぜ、そう?」
「一度逃げたら、ずっと逃げるしかなくなってしまう。それって苦しいことだと思わないかい?」
「そうかもしれませんけれど」
「彼女は僕に殺してほしかったんだ」
「愛ゆえに、ですか?」
「クサいことを言うんだね」
「たまには言います」
「実際、どうなんだろう。僕だって彼女を愛していたのかなあ」
「嫌いではなかったんですね?」
「そうだよ。時折、可愛らしいと思わされるくらいだった」
「忍足さんは正直者です」
「嘘をつく理由も必要性もないから」
「ところで」
「うん?」
「治療が済めば、すぐ家に帰らせてもらえるでしょうか」
「少なくとも今夜は病院で過ごすことになるよ。経過は観察するべきだろうから」
「じゃあ、明後日から出勤します」
「無理をする必要はないよ」
「キーボードぐらいなら叩けます」
「いい休みだと思いなよ」
「休みは嫌です。私は一番、下っ端なんです。誰よりもがんばって、誰よりも努力して、少しでも先輩方に追いつけるようにしないといけないんです」
「『治安会』での仕事が君の生きがい?」
「はい」
「そうか。なら、僕が今しばらくは面倒を見させてもらうことにするよ」
「よろしくお願いします」
「かわいい後輩のことだから」
「ありがとうございます」
「いいよ。礼には及ばない」
黒峰を警察病院まで送り届け、やはり「一晩は様子を見ましょう」と医者から聞かされたのち、表に出たところで、後藤にコールした。もういい時間なのにきちんと応答するのだ。本当に彼はいつ寝ているのかとたびたび思わされる。
僕は今晩あった出来事を、かくかくしかじか、話したのだった。
「白雪さんは死に、曜子さんは負傷か」
「黒峰さんには『情報部』の統括等の業務のほうが向いています」
「だけど、よりタフでハードな仕事を望んでいることは確かなんだよ」
「わかっています。だから、僕を含めた年長者が育ててあげる必要、否、義務がある」
「その通りだ。曜子さんの意志と意欲は尊重してあげたい。というより、彼女はすでに僕が不可欠としているニンゲンなんだよ。『実行部隊』の一人として荒事にも慣れさせてやりたいんだ」
「承知していると言ったつもりです」
「うん。曜子さんが稀有な資質と素質を兼ね備えている優秀な人材であることは間違いないからね」
「後藤さんは、やっぱりメンバーに従順さを求めますか?」
「ある程度はそうだ」
「となると、しばしばスタンドプレーに走る本庄君は買えたものではない?」
「彼は特異点だよ。その性質も、また必要なピースなんだ」
「了解しました。もう切ります」
「曜子さんが退院する際には向かいにいってあげなよ?」
「そうします」
病院のロータリーで待っていたタクシーに乗り込み、ドライバーに行き先を告げた。告げたところですぐにヘッドホンをつけた。今夜も”ブラッド・メルドー”の左手は跳ねるようによく動く。




