15.
朝方、仕事はないかと後藤に問い合わせたところ、「なにか発生すれば連絡するよ」との返答。なので、とりあえず環状高速でRX-8を流した。昼御飯はコンビニのサンドイッチと缶コーヒーで済ませた。すっかり夜になってもなんの知らせもなかった。今日は店を閉めていいということだろうと思い、自宅への道のりをゆこうとする。
高速をおりたところでのことだ。サイドポケットのスマホがブルッた。ヘッドホンをはずして電話に出る。聞き覚えのある声。落ち着いた感のある甘ったるい声。嫌いではない声。その女性は慇懃に「忍足様」とこちらを呼ぶと、「ご機嫌、いかがでございましょうか」と丁寧な文言を並べた。きっと柔和な笑顔を浮かべながらしゃべっているのだろうなと予測する。
僕は路肩に車を寄せ、ハザードをつけた。
改めて、「リリベルさん、どうかした?」と尋ねた。
そう。受話器の向こうの相手はリリベルという。
「お仕事中でございますか?」
「仕事の真っ最中なら、電話に出ることはできないです」
「ふふ。意地悪なことを、おっしゃるのですね」
「用件は? なにかあるんですか?」
「いえ。これといってございません」
「リリベルさんは変わってますね」
「そうでございますか?」
「今からそっちに向かおうと思います」
「いらしていただけるのでございますか?」
「そう言っています」
「では、お待ち申し上げております」
彼女がますます笑みを深める様子が、目に浮かんだ。
夜の香りも顕著な繁華街に彼女は自らの店を構えている。”ダークネス”という男性客相手のクラブだ。遊ぶにあたってはけして安くない。といっても、そこまでお高くとまっているわけでもない。庶民でもちょっとがんばれば手が届く絶妙な料金設定なのだ。なかなかに興味深く、また尊い商売だなと、僕なんかは思う。
コインパーキングに車をとめて、ともすればまぶしく感じられる街灯のもとを少々歩き、”ダークネス”を訪れた。青い間接照明が照らし出すシックな店内。長い丈の黒いワンピースに白いエプロンをまとった、いわゆるメイド服姿の女性が計四名横並びになっている。
そういった出迎えの女性らの前には、特徴的な身なりのニンゲンが一人。喉元と裾にレースがあしらわれた白のブラウス。ワインレッドのジャケットに同色のロングスカート。腰には白く細い前掛け。
女性らは重ねた両手を腹部に当て、揃って品良く「いらっしゃいませ」と頭を垂れて見せた。訓練された所作でサマになっている。そして、赤いジャケットの人物、すなわちリリベルを残し、四人はホールに続く左右の通路へとそれぞれ消えたのだった。
リリベルは「忍足様、どうぞこちらへ」と言うと、先に立って歩き始めた。僕は彼女のしゅっとした背中を追って二階へ。一番、奥まったところにある席で向かい合って座った。緑色のソファの反発はなんとも言えず心地良く、薄暗さもリラックスするにはちょうどいい。この店で最も値の張るポジションだというだけのことはある。
部下のメイドに言ってアルコールを持ってこさせたリリベル。僕から注文することはない。いつも彼女が場を整えてくれる。
焼酎のロックを作ってくれた。テーブルにグラスを置き、それを右手でそっと滑らせてきた。「車なんです」と言おうかどうか逡巡したのは一瞬のこと。無粋な物言いは抜きにして、僕は氷と一緒に透明の液体を猫みたいにぺろっと舐めた。
「美味しい。高いんですか?」
「値段は知れています。ですが、なかなか手に入らないものでございます」
「価値がわかるニンゲンが飲んだほうが有意義だろうなって思います」
「これはとっておきでございます」
「だから、僕に?」
「言わずもがなでございます」
リリベルはにこりと笑った。ルージュは紫色。長い巻き髪も紫色。白い肌によく映える。相手は女性だ。だから当然、年齢には触れたことがない。僕と同じくらいか、少し年上くらいだろうか。若々しく見え、そうでありながら成熟した色香を漂わせている。
初めてここを訪れた時にはツレがいた。泉自身、女性であるにも関わらず、彼女が「女がいるところで飲もう」と言い出して、それで本庄を含めた三人で、気まぐれにここを訪れた。
泉は接客するメイドらの頬にキスをしまくった。可愛い可愛いと言って口づけをしまくった。本庄はメイドらにゴツい体をべたべたと触られて、不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。僕は僕で結構飲んだ。ジャケットの内ポケットの中にあるものに気づいたのは帰宅してからのことだった。名刺が入っていたのだ。”支配人 リリベル”とあった。裏返すと、私用とおぼしき電話番号がボールペンでしたためられていた。
どうしてだろう。その動機は不明。でも、僕から連絡をとった。リリベルにはとても喜んでもらえた。あとになって知らされたことだけれど、彼女が客の男に連絡先を教えるなどということは初めてだったらしい。その理由について問おうとは考えない。偶然の巡り合わせ。そんなことがあってもいいと思うから。
僕が酒を飲む様子を、リリベルは脚を斜めに揃えて見ている。「なにかおつまみを用意させましょうか?」という問いについては断った。僕は空腹にアルコールを流し込むことが好きだ。マニアックな嗜好かもしれない。
一通り飲んだ。満足した。僕はそうそう簡単に酔ったりはしない。とはいえ、一応、酒を取り込んだわけなので、一般常識に倣って、やっぱり車は置いていかなければならないと思う。だけど、終電までは時間があるし、それならもう少し陣取らせてもらおうかと考える。
不意のことだった。
リリベルが尻を滑らせるようにして端に移動し、「こちらにお越しくださいませ」と言った。「どうぞお越しくださいませ」と続けた。僕はなんだろうと思いつつ、楕円形のテーブルを迂回して向かいのソファに腰を下ろした。そして誘われるままに寝転がり、彼女の太ももに頭をのせたのだった。勿論、愛用のヘッドホンはテーブルに置いてから。
「お仕事は順調でございますか?」
「今までやってきて、あまり苦労を感じたことはありません」
「さすがでございますね」
「そうですか?」
「はい」
「膝枕なんて初めてしてもらいました」
「私も初めていたしました。忍足様」
「はい」
「貴方が苦しさ、つらさをお感じになった時には、わたくしが支えになって差し上げられますように」
「どうしてそこまで尽くしてくれるんですか?」
「決まっています。忍足様が素敵でかわいいからでございます」
「リリベルさんからすると、僕はまだまだ子供なんですね」
「かも、しれませんね」
「また来ます」
「はい。首を長くして、お待ちしております」
電車を使って帰宅すると、みーちゃんがとことこと歩いてきてお出迎えをしてくれた。「なおーん、なおーん」と、まるで求婚でもするかのように鳴く。「ごめん。ご飯だよね?」と問うと、顔をくしゃっとさせながら、いっそう大きく「なおーん」と鳴いて見せた。すかさず缶詰をあけてエサをやる。みーちゃんはこちらを向くこともなく、速やかにがっつき始めた。
シャワーからあがってみると、みーちゃんの姿はもう見えなかった。エサの器は空っぽだ。寝室を覗いてみると、枕元ですでに丸くなっていた。僕がベッドの端に腰掛けると、スプリングが反発し、そのせいで起きてしまった。こちらを見上げてやっぱり「なおーん、なおーん」と鳴く。起こすなと文句を言っているのだろうか。
リリベルとみーちゃん。
突拍子もない思考だけれど、どちらの存在にも感謝したい。まるっきり代わり映えのしない僕の生活に潤いと癒やしをくれる。そんな一人と一匹に礼を言いたいというわけだ。
「みーちゃん、寝よう」
僕がそう言うと、みーちゃんは改めて枕の隣で丸くなったのだった。
翌日も仕事はない。実状はほとんど失業者と変わりないなと思ったのだけれど、今のところ、新しい職を探すつもりはない。基本的に僕は穏やかでのんびりとした気質なのだろう。ずっと男やもめでもいいとすら考えてもいる。
昨日の今日だ。それでも、ただなんとなく、浮世離れしたリリベルの美貌をまた拝みたいと考えて、再び”ダークネス”を訪れた。だけど、いつもなら整然と並んで出迎えてくれる女性達の姿がない。とことんまで接客に特化した彼女らが姿を見せないというのだから、なにかあったに違いないと踏んだ。
そのうち、ロング丈の黒いメイド服姿の女性が一人、通路から駆け出てきた。僕と目が合った途端、涙ぐみ、口元を手で覆い、ぽろぽろと泣き出した。
「トラブルですか?」
「あの、その……」
「口籠る必要はないです。事実だけ述べてください」
「店長が、店長が人質にとられているんです」
「人質?」
「はい。上客のかたですから、店長が応対しました。ですけど……」
「もういいです。大体、わかりました」
僕は左の懐から抜き払った拳銃を右手にぶらさげた。一階に客はいない。避難したのだろう。こんなケースは初めてであろうに店側はきちんと対応したようだ。社員教育が行き届いている証左と言える。
吹き抜けの店内。メイド達は不安そうに二階のほうを見上げ、肩を寄せ合っている。僕は彼女らに「じっとしていてください。問題ありませんから」と言葉を向けた。本当に大丈夫なのだ。馬鹿みたいに、あるいは阿呆みたに思い上がっている輩に未来なんてない。
上階へ。最奥部の席に至った。ラメ入りのワックスだろう。黒い髪をてかてかに仕上げた中年とおぼしき太った男がソファの上にいた。自らの股の間に座らせたリリベルの右のこめかみに銃口を突きつけている。空いている手で彼女の下腹部に触れた。乳房を揉みしだきながら頬をべろんと舐めもした。
経緯は重要ではなく、今ある状況が問題で、だから僕は男の顔面にただ銃を向けた。
「撃てるのか? 撃てるのかぁ、おぼっちゃんよぉ」
「そんなことわけないです。リリベルさん」
「なんでございましょう、忍足様」
「この場は任せてもらいます」
「私の心も体も、すでに貴方様のものでございます」
「目を閉じてください」
「はい」
男の額のど真ん中を撃ち抜いた。ばっと飛散した血液が、リリベルの綺麗な顔をさっと赤く染めた。またヒトを殺した。だからといって、悪いことをしたとは思わない。これっぽっちも思わない。ヒトを殺すことになんの抵抗も感じない。僕にとって人殺しとは、本当に性に合った職業なのだ。
顔を血で濡らしたリリベルがテーブルを迂回して近づいてきた。抱きついてきた。「忍足様」と言う。「ありがとうございます、忍足様」と続けて述べた。
「これもなにかの運命なのでしょうか? 忍足様と私との縁は、本当に強い強いものだと言えましょう」
「どこも痛くない? どこも悪くしていませんか?」
「大丈夫でございます」
「なんか、みっともないですね」
「なにがでございますか? これほど甘美な瞬間はないというのに」
「でもほら、僕ってリリベルさんより背が低いから。今だって堂々と抱き止めてあげたいのに、それができないって、情けないなって思います。これって本音です」
「そんなことを気にされているのですか?」
「実はちょっとそうなんです」
「微笑ましい悩みでございますね」
「そうかもしれません」
「本当にありがとうございました」
「いいんです。気にしないで」




