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12.

 我が家の黒猫、みーちゃんの「なおーん、なおーん」という声で目が覚めた。マナーモードのスマホが無機質に振動している。僕が寝惚けまなこをこすりながら手探りでそれを掴もうとすると、その手をみーちゃんがぺろっと舐めた。もっと舐めてほしいところだけど、「もしもし」と通話に応じたのだった。


「忍足さん、おはようございます」


 声の主は黒峰曜子。驚きはしないけれど、珍しいことだなとは思った。彼女から電話をもらったのは間違いなく初めてだ。僕はのそのそと体を起こし、頭を掻き掻き「どうしたの?」と尋ねた。


「トレーニングに付き合っていただけませんか?」

「トレーニング?」

「ジムで筋トレをしたあと、近所をジョギングをします。嫌ですか?」

「いいよ。ジムの場所を教えてくれる?」

「いいんですか?」

「どうして驚くいたふうな口をきくの?」

「人付き合いは絶望的によろしくない。それが私にとっての忍足さんの評価ですから」

「君、本当に僕のことを先輩だと思ってる?」

「スゴく思っています」

「もう一度言うね。ジムの場所を教えてほしい」

「はい」




 一日利用券を購入してジムに入り、更衣室で長袖のトレーニングウェアを着て、運動用のピッタリとしたタイツにハーフパンツを合わせた。


 窓際の器具を使って、黒峰は逆手懸垂をしていた。黒いタイトなTシャツを身につけていて、布越しにも背筋が鍛えられていることがよくわかる。僕が隣に立つと、彼女は運動を続けたまま、「あと三十回やります。それまで待っていてください」と言った。三十回とはスゴいと感心せざるを得なかった。


 黒峰はより強い負荷をかけるようにして、ゆっくりと体を持ち上げる。息は乱れていない。額から頬にかけて伝う汗が眩しい。僕はというと、待ち時間を埋めるのにバタフライマシンに座った。腕を左右から中央にかけて挟み込むマシンだ。大胸筋と三角筋にきく。


 懸垂を終えた黒峰が近づいてきた。興味津々とした目にも見えれば、反対にまるで無関心そうな目にも映る。彼女の思考と感情は見極めにくい。少なくとも、猫のような天真爛漫さは有していないだろうと思われるのだけれど。


 バタフライマシンで十五回の四セットをこなした。ふーっと息をついてプラスティック製の青いベンチに腰掛ける。一度ロッカールームに引き揚げた黒峰はまもなくやってきて、「どっちがいいですか?」と訊いてきた。右手にはお手製であろうプロテイン、左手にはフツウのポカリ。ポカリをもらった。彼女は僕の隣に座るなり、チョコレートの香りがする茶色い液体を喉へと流し込む。


「いつもここに来てるの?」

「週五回くらいは」

「結構な頻度だね」

「以前は健康を維持しようという程度にしか考えていなかったんですけれど」

「今は違うの?」

「泉さんみたいになりたいんです」

「そうなの?」

「研ぎ澄まされたカラダなんです。洗練されているんです」

「まあ、体幹がしっかりしていることは見ただけでわかるね」

「泉さんは高い目標です」

「君のその向上心は、仕事においてもきっと役に立つ」

「言われなくてもわかっています」

「黒峰さんは正直だよね」




 更衣室でボストンバッグに突っ込んであったスマホを確認した。着信が一件。『マトリ』の『特強班』時代の同僚、白雪からだ。折り返すと、すぐに反応があった。


「忍足先輩、お暇ですか?」

「お生憎様。スケジュールは埋まってるよ」

「これから走りに出るのです。一緒に走りましょーっ」

「僕が言ったこと、聞いていた?」

「聞いていましたけど、付き合ってくださいよぅ」

「だから、先客がいるんだよ」

「三人でジョギングしても良いのでは?」

「そうかもしれないけれど」

「とりあえず、場所を教えてください。どこにでも向かいますので」


 止む無く、僕は目的地である公園の名を述べた。


「あ、そこなら比較的近いのです」

「そうなのかい?」

「落ち合いましょうなのです」

「しょうがないな」

「ちなみに、なのですけれど」

「なんだい?」

「ご一緒なのは、女性ですか?」

「そうだよ」

「わぁ。忍足先輩にも色っぽい話はあるのですね」

「そんなんじゃないよ」

「東口でお待ちしているのです」

「うん。わかった」




 公園の駐車場にRX-8を滑り込ませた。最寄りの出入り口が東口だった。ピンクのTシャツが目立つジョガースタイルで白雪は待っていた。白雪が「わ。お綺麗な女性ではありませんか」と声を上げ、それを受けた黒峰は名乗った上で「お初にお目にかかります」と慇懃にこうべを垂れた。白雪の身分については、ここに来るまでの車中である程度教えておいた。『特強班』にも女性がいらっしゃるんですね」と特に興味もなさそうに答えた黒峰だった。


 僕は他人のペースに合わせたりしないニンゲンなので、ともすれば速いとも言えるスピードで園内をジョギング、周回する。二人とも付いてくる。揃ってキツがっているような様子はない。自らの体力が落ちたのかなあとも考えたのだけれど、恐らく二人が達者なのだろうと思い直した。


 僕を挟んで三人で座り、公園のベンチで揃ってスポーツドリンクを飲んでいると、白雪が前に上半身を倒して僕の左隣の人物を見た。


「黒峰さん、速いですね。お嬢さんなのに」


 年齢はそう変わらないのにお嬢さん呼ばわりされたわけだけれど、問われたほうに不快な様子はまるでない。


「それなりに鍛えているつもりです」

「私だって鍛えていますよぅ」

「それはもう知りました」

「さっぱりしているのですね」

「なにか訊きたい事項が生じたら伺います」


 三人で駐車場を訪れた。いきなりのことだった。白雪が腕にしなだれかかってきたのだ。


「ねぇ、忍足先輩、久しぶりに抱いてくださいよぅ」


 まるで以前に性交をしたことがあるような口ぶりだ。だけどそんな事実はない。


 黒峰が「そういうことなら、私、帰ります」と言って、ぺこりと頭を下げた。「待って」と僕は声を掛けた。


「送るよ、黒峰さん」

「忍足さんはお忙しそうなので結構です」


 尖ったニュアンスであるように感じられた。


「ねぇぇ、忍足せんぱぁい、早くホテルに行きましょうよぅ」

「白雪さん、冗談でもそういうことは言わないで」

「あれれぇ、もしかして、黒峰さんのことが好きなのですかあ?」

「そんなことは言ってない」

「帰ります」

「黒峰さんっ」


 黒峰は黒いキャップを目深にかぶると、身を翻した。競歩のような礼儀正しさ、規則正しさで歩いていってしまう。あとに続いて近づくと、「忍足さん、解錠してください」と言われ、その通りにした。車のキーを開け、すると後部座席から彼女は自らのボストンバッグを取り出した。それを肩に掛け、やはりすたすた歩いていってしまう。その様子を見届けた。去る者を追うほど、僕はしつこいニンゲンではない。


 一つ吐息をついてからRX-8の運転席に乗り込むと、当たり前のようにして白雪が助手席に乗り込んできた。


「先輩、本当に抱いてはくださらないのですか?」

「そんなことはしないよ」

「私以上に先輩のことを好きな女なんていないと思うのです」

「そんなことも言わなくていい」


 車道に出た瞬間、思いきりアクセルを踏み込んだ。らしくもなくホイルスピンさせてしまった。舌打ちをしたのって、何年ぶりだろう。


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