もうゆうれいにゆうね
夜空に浮かぶ星月から静かに波が降りてきて、窓辺にたたずんだ彼女の白い肌へと打ち寄せる。波は白磁器のように滑らかなその肌についてささやき合い、やさしく触れながら細かい光子の漂流物を残して夜空へと帰っていく。
遠く遠い夜空の星月ですら、そうやって彼女に触れようとするのに、すぐ後ろにいるぼくは、決して触れようとしなかった。ぼくはただ、夜な夜な彼女の背後に立ち、その姿を見つめている。人々はぼくを幽霊と呼んだが、ぼくは死んだ覚えなどない。しかし生きているのかもわからない。ただ、事実としてあるのは、ぼくは誰よりも彼女のそばにいるということ、星月よりも誰よりも彼女のそばに立ち、かすれた小声で言葉をささやくということ。
飾り気のない夜で束ねた髪
かがやく星月の海だけを見る
この声が彼女に聞こえているのか分からない。彼女は表情を変えることなく窓辺に立ち、そこから見える海を、空を、見ている。ぼくはそんな彼女のために、一晩中考えて、悩んで、ようやくできた言葉を口に含んで彼女のもとまで運びとどける。
寂びり腐った街はいつも静かで、夜ともなれば物音一つない。無音の街を星月は灯すが、暗闇からうっすら見える街は見るも無惨なありさまで、彼らの行為は悪意のない分、残酷でしかないから、地面を強く踏んで大きな音を立て、光を蹴散らかしながら夜を走り抜ける。
星明かりも消え、さらに静まった街には、ぼくの走る音と不細工な鼻息だけが響いている。いち早く彼女に言葉をとどけたかったから、後先考えず全力で走ったので、すぐに息が上がる。酸素を求めて思わず口を開きかけ、慌てて両手でふさぐ。せっかく彼女のためにつくった言葉を、危うくこぼしてしまうところだった。ぼくはくちびるをきつく結んで速度を落とし、鼻呼吸でゆっくり息を整えながら小走りになる。
走っている最中に歯にぶつかったのだろうか、言葉の外殻にできた小さなひび割れが舌をちくりと刺す。わずかな痛みと同時に甘酸っぱさを感じる。どうやら、割れ目から言葉の意味がじわりじわりと洩れ出てきたようだった。ぼくは舌で割れ目にふたをして、意味の流出を防ぐ。
明かりのない街灯下には、決まって黒焦げの焼死体がくずおれ、その節々にあるほのかな残り火は、この暗夜ではやけにまぶしく感じる。ぼくは目を細め、燃え尽きようとするその火を視界から追い出そうと試みるが、一度目にしてしまうと焼き付いて離れず、瞳に宿った火は、街の様子を暴き立てるようにしてぼくに見せつける。
並木ぶら下がる枝骨
指さす先のしわ枯れ葉だまり
散開する悪臭たどれば
醜悪な犬の死体と下半身
老朽半壊アパート前面 駐車場
車輪のない自転車の空回り
蜘蛛の棲み処の自販機に
泥水、吐瀉物、粘液唾液の飲料水
傾いた電柱から垂れた電線
電流またたき、みすぼらしい夜を打つ
街の姿をまざまざと見せられていたぼくは、正面に迫っていた石壁に気付かずぶつかってしまう。ぼくの半分だけ壁にめり込んで、もう半分は壁の内側には来られなかった。仕方がないので半分は捨て置くことにして、ぼくは先を急いだ。
閑散とした住宅地帯をすぎ、廃駅となった駅の踏切を駈けぬけようとしたとき、遮断機が癇癪のように出し抜けにうなる鳴る。意表を突かれて口を開きかけ、さらに追い打ちをかけるようにして、轢死体の腕や脚が勢いよくぼくにぶつかってくる。そのあまりの痛さに叫びそうになるのを必死に我慢する。なかなか開口しないので、ついに頭部が飛んできてぼくの口先をかすめる。その一瞬の間に擦り付けられた唾液と、大便のような口臭に、ぼくの口は半開き、含んでいた言葉が口端からややこぼれたが、寸前のところで舌で巻き上げて事なきを得る。 線路の脇に転がった頭部から舌打ちが聞こえ、再び飛びかかろうと首を構えたので、ぼくはすぐにその場から離れた。
罵詈雑言を背に受けながら、砕けた道路を道なりに行くと、視界を縦断するように鉄条網がずらりと現れる。そこを乗り越えた先に茂っている竹藪に、彼女のいる廃屋は必ずある。
ぼくは鉄条網をよじ登って竹藪に入り、行く手をはばむ葉を手で弾いて進んでいく。竹に吊るされたものたちから滴ってくる汚水を避け、草陰から転がり出てくる頭蓋骨を蹴り飛ばしながら突き進んだ。
廃屋は群立する竹の剣山に射貫かれるようにして、かろうじて建っている。開け放たれた玄関扉から家内に入り、一目散に彼女の居室へと向かう。彼女は毎夜変わらない窓辺の位置に立つ。ぼくはその背後からそっと近づき、幾許か後ろ姿を見つめてから、固結びしていたくちびるをほどく。
夜陰にひそんで
ずっと肉体があるふりをした
星光憑依の明るさなんて
これっぽっちもいらないよ
満たされてしまえば
だれも満たせなくなってしまうから
無事に彼女のもとへと言葉を持ってこられて一気に脱力する。壁に手をついて身体を支え、久しぶりの口呼吸で黴っぽい空気を存分に吸いながら、横側から彼女を覗き込む。月光を反射した顔の部位は、ひとつひとつが作り物めいていて、そこには生者の顔に決まって存在する媚態のような卑しい感情などなく、無感情に徹したただ純粋な造形が輪郭している。
光のない瞳が見つめる虚空にはめ込まれた満月、指でなぞれば簡単に砕けてしまうその輪っかに、いつかぼくが映ることを願いながらそっと部屋を後にした。
竹藪を抜けたところには、不法投棄物でできた小川が流れている。ぼくはその岸辺に向かい、水際に沿って歩いていく。真っ暗な川面から聞こえてくる赤子の叫び声に生返事で応え、次に彼女にとどける言葉を考える。
言葉はいつだってぼくのなかにあるが、それを発音したり、文字にしたりすると、途端にぼくのものじゃなくなる。身体から外に出てしまった言葉は、溌剌とした少女のように、奔放な足取りで宙を行き交い、旺盛な好奇心に導かれるまま、ぼくのもとから去っていく。そして、次に目にしたときには、もうぼくの知らない成熟した女性のようになっていて、そのあまりの変わりようにぼくはかける言葉を失い、ぎこちなく笑うことしかできない。
そんなふうに、言葉はぼくと無関係に生きていくが、ぼくは言葉とは無関係に生きていけなかった。言葉がなければ、自己主張の希薄なぼくは本物の幽霊みたいなもの、だから、自分が幽霊ではないことを確かめるため、言葉をつくってそれを人前で披瀝した。
場所は選ばなかった。通勤電車のなかで唐突に、不法侵入した小学校の職員室で、新宿の紀伊國屋の前で、性交中の男女の間に挟まりながら言葉を口にしたこともあった。ぼくが言葉を放ったその瞬間だけ、人々はハッとした表情になり、ぼくの存在に気付いた。つまりそれは、言葉を発さないぼくは、誰にも認知されていないという裏付けでもあった。ぼくは存在し続けるために、言葉を放ち続けなければならなかった。しかしそれは、いい加減な心持ちではだめだった。他人から借用したものも意味をなさなかった。自己の内面を徹底的に観察し、脆くて弱い個所に爪を立て、そこに埋まった骨肉を掻き出す。それを夜干しして乾燥させてから、初めて口にするのだ。
夜が明ければ
やがて消えてしまうのに
満ちずに欠けてばかりいる
欠落に名をつければ
言い逃れにつかってしまうから
胸の空白には名前がない
掴もうとしても
指先からこぼれる浜砂
お前にはだれも救えぬと
潮満ち引きて嘲笑う
さきわれさきわれ
すぷーんすぷーん
すくいようのない
カレーの入った片手鍋
両手で持って
持っていってほしい
かなた星のかなたへ
自らを満たし合う
そのためだけの輝きは
何ともちんけな明るさで
その光でできた天の川に
ぼくはぼくを投棄して
胸の穴をひろげてく
今夜も彼女の瞳に収まることができなかったぼくは、投棄物の小川に向かう。電子レンジを踏み台にしてドラム缶に上がり、そこからさらに箪笥によじ登る。その際に引き出しに足首を挟まれたがなんとか抜け出し、ドミノのように並んだマットレスの上をぴょんぴょんと渡っていく。
顔に当たる夜風には金属的な臭いがこびり付く。それは腐敗臭と違っていて、まだ受け入れられた、ため息、前方の高架橋から誰かが手を振り、欄干から飛び降りる。ぼくはそれに気を取られて足を踏み外し、投棄物のなかに落下してしまう。投棄物たちはぼくの失態を見逃さず、横たわるぼくの周りに一斉に群がる。洗濯バサミが指に噛みついてバチバチと骨を砕き、ドライヤーは頭髪を燃やす。スプーンが肉を抉り、プリンターは皮を剥ぐ。ラジカセは大音量で鼓膜を破り、落ちてきたブラウン管テレビで頭が潰れ、胸の穴から体内に侵入した針金とコードは内臓をぐっちゃりと掻き乱す。身体に巻き付いた絨毯は血液を絞り出し、あふれた血は掃除機が吸い取って、あとには何も残らない。何も残っていないはずなのに、言葉だけは残っていて、ふよふよと辺りを漂って、まるでなにかを待つかのように後ろを振りかえる。しかしそこにはなにもおらず、言葉は過去の自分を引っ張りだし、それを朗唱することで、その言葉を発したぼくを思い出す。
人と関わるのが嫌いだから
なるべく独りでいるようにしている
まるで孤高の人みたいで聞こえはいいね
本当は仲良くなって
自分の汚いところを見られて
嫌われてしまうのが嫌なだけで
どうせ嫌われてしまうなら
始めから好かれていない方が
いいと思ってしまうし
いつか離れてしまうくらいなら
最初から近づかない方がいい
だから適度に距離をあけて
いつもヘラヘラして
当たり障りのないように生きていて
そうしていれば誰にも嫌われないとは思うけど
この生き方じゃ
誰かに好かれることもないんだろうね
たしか、そんなこと呟いてたね
覚えてないよって、いいたけどさ、一言一句覚えてる
忘れるわけがないよ、だってぼくが生んだ言葉なんだから
小さなころからずっと現実感がなくてさ
ずっと自分のこと、よく分からなくて
何回か死のうと思ったけど
その度にそばにいてくれたきみが
必死にぼくをつなぎ止めてくれてたね
ありがとうって一度もいったことないや
だってそれを口にしたら、
したらさ
そこまで言って口を止める
彼女の肩がわずかに震えていたからだ
もう少し続ければ
もしかしたら彼女は振り向いてくれるかな
でもそれは、
それでは
ねぇ、死んでしまったぼくはどこにいる?
いまこれを読んでいるあなたのうしろにちゃんといる?
きこえてる? みえてる?
あなたが気付かないなら
もう、ゆうれいにゆうね
ゆうれいにだけ
ぼくはゆうね
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