12 「天使回路」
世の中速さが全てだ。 早く知覚し、速く動けば奴を倒せたのに――
―― 酒場で冷えた死体になりつつあるブースター、パトリスの今際の記憶
「天使回路…これがそのチップか…」
俺はフランセットから手渡された小さな珪素片をつまみあげ、しげしげと眺めている。 大きさはせいぜい日本の500円玉でもっと軽い。
形状はギターのピックに近い三角形をしており、一辺から極細の金属部分が覗かせている。
ジャック=フェレオルが俺の隣に来てそれを覗き込む。
「そのチップソフトが今回追ってるものとは限らないが、そうか、確かに脳内に直インストールするタイプのプログラムがその正体だとしたら、死体からは何も残らないな。 よし、その線で死亡者の足取りをもう一度追わせてみよう!」
ジャック=フェレオルは再びスマートデッキにかじりつき、電話をかけはじめた。 この時間から働かされる部下もまた可哀相に。
だがここは頑張ってもらわねばなるまい。 新しい被害者を出さないためにもな。 と、自分に都合の良い考え方でジャック=フェレオルの部下への負担は俺の脳内から消え去った。
まあせいぜい残業代を稼いでくれ。 そんなものが出る社会体制かどうかは知らないが。
「フランセット、この天使回路ってソフトの情報を詳しく聞いてもいいかい?」
「はい! 海様の頼みとあらば! それは併設常動型ニューロリンクの基本部分を動かしている公式のプログラムに対するアプリケーションソフトです。 特にその動作と処理を向上させる効果があります。」
「ニューロリンクはソフト制御なのか。」
「はいっ ニューロリンクは主に3種類のタイプがあります。 その1つが1番メジャーな併設常動型。 人間の生来の神経系に追加でスタッドインするタイプですね。 これは安全性と性能のバランスが一番取れています。 生来の神経系に追加されるだけなので万が一不具合や故障が起きても大事に至ることがほぼありません。」
「他の2つは?」 「完全置き換え型と併設発動型ですね。 置き換え型は性能が1番良い反面、不具合が起きたときが致命的です。 併設発動型は手動か命令発動式なので1番安全ですが遅いです。」
「なるほど。 それでどう処理速度を向上させてるか分かる?」
「それが脳内インストール形式なので不明なんです。 自分の脳内に誰かを侵入させるリスクは計り知れないですから。 あっ でも海様なら私の脳内に入っても良いですよ! 私の中にある天使回路を解析してください! そして私の全てを受け取ってください。」
フランセットが体を密着させてアピールしてくる。 積極的だなあ…エミィと同じか1つ2つ年上なだけなのに。 ちょっと若すぎるが悪い気分じゃない。
しかし人の脳内にソフト的に侵入するなんて芸当が可能な世界なのか…恐ろしいな。
「まあこのチップを解析すれば、わざわざ脳内にまで出向かなくても良いわけだ。」
「海様、それがこのチップはインストール時にチップの中身自体は消去されてしまうので、解析が困難なのです。」
「なんだって…!?」 「コピーガードの一環でしょうけど、それが広まりづらかった原因ですね。」
「それでフランセットはこれをどこで入手したの?」
「学校内はその情報と噂話で持ちきりです! ある日突然出回り始めて、誰がばら撒き始めてるのか、さっぱりわからないんです。」
「なんで分からないんだろう? フランセットは誰から入手したの?」
「巧妙な秘匿手段を取ってまして、私も友人から買ったのですが…インストールのシリアルコードが脳内口座と連動する形式になってまして、一定回数誰かと取引したものじゃないとプロテクトが解けないんです。」
「つまり、人から人へ何度も渡ったものでないとインストール可能にならない、と。 こりゃ追跡は困難だなあ。」
「はい…しかも逆に取引しすぎると、またインストール不可能になってしまうみたいで…」
「つまり、学校内で併設常動型のニューロリンクをスタッドインしてて、脳内口座を開設してる者、かつまだインストールに成功してない子を捕まえて、そこから紐を手繰っていかないと駄目なのか。」
電話を終えて話を聞いていたジャック=フェレオルがいきり立つ。
「フランセット、お前いつの間に脳内口座を…! しかもそんな危ないソフトをインストールしてただなんて、パパは許さないぞ。」
「パパごめんなさい。 でも脳内口座はほぼ基本機能だから許して。 それに天使回路はそれほど危険なソフトじゃないわ。」
「人が死ぬソフトが危険じゃない訳が無いだろう。」
「お願いパパ、聞いて。 この天使回路は普通に使う分には危険じゃないの。」
「説明してくれ。 ちゃんと聞くから。」
「うん。 天使回路はニューロリンクのちょっとしたアプリで、本当に少しだけ性能を向上させているだけなの。 でも特別な機能が1つだけあって…それさえ使わなければ安全よ。」
「その危険な機能ってのは?」
「限界突破加速モード。」
何だか怪しい言葉が飛び出してきたな。 まじまじとフランセットの顔を見つめてしまう。
フランセットは俺を安心させるためかニッコリと笑い返してくる。 その分ジャック=フェレオルの顔の厳しさが増すわけだが。
「オーバードライブモードは脳を強制的に刺激して思考を加速する機能よ。 何段階かあって、どこまで加速できるかはその人の適正次第みたい。」
「そんな事が出来るのか!?」
「うん。 本当に危ないとき、命の危機とかに周囲の時間の流れが遅く感じるくらいに思考や行動力が早くなることがあるんだって。 それを強制的に行うプログラムみたい。」
「ははあ、火事場の馬鹿力とか走馬灯が駆け巡るって奴だな。」
「走馬灯?」 「あ、いや、俺の国の言葉でそういう表現をするのさ。 気にしないで続けて。」
「はいっ それで、強制的にアドレナリンを生成する反動で脳幹や毛細血管にダメージが蓄積するの。 鼻血が止まらなくなったり手足がうっ血したり。」
「だろうなあ。 で、それを無視して使い続けていると…」
「オーバードライブを解除した時なんかに、そのまま本当に死んじゃうんだって。 周りの子で死んだ子はいないから本当かどうか知らなかったけど… でも典範網ではその噂で持ちきりよ。」
「典範網?」
「海様は他の街から来たからご存知ないのね。 ニューロリンクとサイバネティックデッキ経由で街のあちこちのサーバーにアクセスできる機能で…」
「――ッ! ザイツブルグにはインターネットが存在するのか!」
「海様の街ではそう呼んでいらっしゃるの?」
俺は腰を浮かせて叫んでいた。 なんてこった! 俺が望んでやまなかったネットがザイツブルグに存在していたとは!
しかし考えてみれば当然だ。 街中のデータタームや監視カメラ、あれはネットが存在していないと性能が十分ではない。
俺が知ってる地球のインターネットとは形式も違うだろうが、何らかの電網が存在してて然るべきだったのだ!
そんな事すら失念していたとは!
「ああ…ネットがソーサリスに存在するなんて夢のようだ…! ニューロリンク限定なのが残念だ! 俺もザイツブルグのネットを見たかった。」
「できますよ?」 「マジで!?」
「はいっ フランセットにお任せください! 海様のためなら何だってできちゃいますっ!」
俺は嬉しくなってフランセットを抱きしめてその場でくるくる踊るように周りだす。
やった! 苦節約一年、ネットから隔離されていた今日で終わるのだ! 地球のネットではないのが残念だが贅沢も言ってられない!
「ははは! フランセット、君は最高だ! 本当に俺にとって天使だ! ああ! 今すぐ君を抱きしめてキスの雨を降らせてやりたいくらいに!」
「きゃー 海様、もう抱きしめてます! 目が回るから降ろしてくださーい。」
フランセットは可愛らしい悲鳴をあげながら楽しんでいる。 俺はアクエリアスが止めに入るまでフランセットをぐるぐる回していた。
ジャック=フェレオルが酔っ払いのようにゆらゆらと俺の前に立つまでさっぱり気付かないほどだった。
慌ててフランセットを手放し、椅子に座らせ直すとジャック=フェレオルを手で制止して咳払いをして謝った。
「す、すまん。 喜びのあまり我を忘れた。」
「トロードパッチを使えば、ニューロリンクの無い人でも典範網に入って簡単な操作ができます。 あくまで誰かのサブとしてですが。」
「おお、電極を使うのか! それは今フランセットが持ってる?」
「はいっ! サイバネティックデッキに必ず1つは付いていますから。 ニューロリンクやデッキの一部が故障した時の応急アクセス用なんです。 ただ、神経互換は無いので感覚は無いのですが良いですか?」
「もちろんさ。 さあマイラブリースイート電脳エンジェル・フランセット、今すぐやろう!」
何だか自分でも良く分からないテンションになって、フランセットを褒めつつ促した。
フランセットは上機嫌でスキップしながら荷物を取りに隣の部屋へと消える。
これでしばらくはこの一年近くにわたる無聊も慰められることだろう…
フランセットの言葉でザイツブルグに電脳網が存在する事を知った海。
彼女の導きで海は電子の海へとダイブする
次回、時計仕掛けの大司教編、第13話「典範網」 お楽しみに
電子の海で海が見たものとは。




