PART -1ー
日常に変革はなかった。
とくになにもなく、本当になにもなく、ただふつうの一日がすぎていくだけ。
僕の現実なんていうものはそんなもので、まあ、いうなれば、ふつう曰く幸せな毎日ということだ。別になにも不自由はしていないし、そこらのコンビニにいけば食料もあるわけだし。日にちの労働で得た資金は、少しだけもの足りないけれど、それでも僕の腹を満たすには丁度いい。
日々行われている政治だの、この国の行方だのは僕の知ったことではなく、僕は僕として、僕の行うべきことを、まあ、つまりは僕の生きる為の行動を行うだけで、僕の生活は続いていくということだ。
なんのこっちゃ、と思うかもしれないけれど。
学校にいき、
その後でアルバイト先の書店に顔を出し、
その後に夜道を歩いて、
自分の家に帰る。
そうして夕食を食べて眠る。
これが僕のサイクルだ。
まあ、そんな、寂しい男の話は置いておいて、だ。
「色無くん、突然で悪いんだけど、この本のポップ、次に来るまでにやってくれないかな」
そう、バイト先の店長である、徒巻さんに仕事を任されたことが、そもそものはじまりだ。
まあ、そんな訳はないけれどね。
あだ名はマキさん。ちなみに、マキさんは女性ではない。れっきとした、三十代後半の男性である。
「はあ、つまりは明日までですか」
「頼みますよ。だって、ぼくこういうの得意じゃないし」
「時貞さんにやってもらえばいいじゃないですか」
「あの子、少しの間休みを取りたいっていうんだよ。あのー、なんだっけ? 留学みたいな? そんなことがあるんで、あと数ヶ月は休みたいって」
うらやましい、と思ってしまった。
「あ、微妙な顔してる」
「してないっすよ。ポップっすね。人が買いたくなるような文句を見つけて来ればいいと」
「あ、パクリは」
「しません。僕そういうことは疎いですから。準備室の方に、時貞さんの用意したポップがありましたから、それを参考にして作ります」
「うん、それでよろしく」
「あ、ところで、どの本です?」
「えっとね。あ、あの平積みになってる奴、ほら、見えるかな、えっとね」
そんなこんなでマキさんにその書物を押しつけられて、僕はバイト後の夜道を歩き始めた。
まあ、特筆するような出来事はなにもなかったことになるんだけど。
その道の中で、押しつけられた本をみる。
タイトルに「LetterS」と題されたその本は、一つの存在を誇張するように、僕の手の中にあった。
「れたー、あ? なにこれ。レターズ? いや、エス? レターエス?」
不思議なもので、本というのはそれがそこにあるだけで、まるで自分の存在を誇張するようなデザインをしている。なにも書いていない表紙や、ほぼ白紙に近い本がそこにあるだけで、空間が装飾されているようになる。
で、まあ、どうでもいい話なんだけど。
「あー、どうやるんだっけ?」
基本、そういう仕事はほとんど、僕と同期で入った女の子である――貞子に似てるとかひどいことをいわれる――時貞さんという人が請け負っていた仕事だった。その人がいないことによって、僕に仕事が回ってきたのだろう。
まあ、困ったことだけど。
小説ではないようだが、どうやらその本は、何かの実際に起きている事柄についで綴ったものであるらしい。著者は、折鶴白紙という聞き慣れない名前の社会学者。
面倒な本を押しつけられたもんだなあ、と思いながら、僕は自分の家路までを歩く。
ここ、埼玉県の南部では、特に書くべき項目はない。
というのも、僕が考える限りにおいて、ここまで静寂を保っている場所もないだろう、と思うからだ。
まあ、なんてったって、なにもない。本当に何もないから、埼玉の中にいる若者は、大抵の場合、南に向かって直進する。
へえ埼玉? どこそれ?
あの有名な五歳児の県。
知らんわあ、東京と違うの?
違います。全く違う。東京は主に人の巣穴。埼玉は主に人を吐く場所です。
そんな場所に住んでいる、僕こと色無無色は、こんな場所で独り一軒家で生活をやっておるわけですハイ。
「明日までのポップかー。でも、明日ってどんだけの授業だったかな。あ、一限目からだった」
そんな誤算を見せつつ、僕は自分の目の前に見える暗い公園の景色が、何か妙な風景に見えてならなかった。
で、家に帰った僕は、部屋の電気をつけて、部屋の中の物がなにひとつ消失してないことをを確認すると、一つの椅子に座って、本を横に置き、コンビニの袋をテーブルの上に投げ捨てた。
食事の時間はたっぷり時間をかけて三十分。
その間に、一つの小さな紙を取り出して、時貞さんの作ったポップを見ながら、線なしのノートの上にシャーペンを向けつつ、ペン回しなどを行っていた。
ちなみに、ポップ、というのは、本屋にある、店員さんが手書きで紹介する本の紹介文のようなものである。
このポップ、割と簡単そうで難しい。実のところ、僕はこれを作って痛い思いをした覚えしかない。
ポップ一つで本が売れるか、と思いがちだが、実のところ結構重要だから困る。本そのものの善し悪しは著者と編集者が作るけれど、本を買うかどうかは、店頭にある状況で変わるといっても言い過ぎではない気がする。
本そのものは、店長から(無理矢理)購入させられることで手元にはあるのだが、まあ、実のところ、僕にはその本の記述に対する知識というか、予備知識のようなものほとんどないと言っていい。
で、その本によれば。
どうにも、この世の中には、一つの手紙を受け取ることによって発展する事件もあるらしい、とか。
その手紙は、封筒は真っ黒であり、その中身は黒い一枚のはがきが入っており、そのはがきを受け取った者には呪いがかかる、というものだった。
ハイ、信じるか信じないかは、あなた次第です。
そんな内容だから、僕にはまったくついていけなかった。
まあ、小説以外にはなにも読みたくない性分の男だから、その後の文章を読む気力がなくなってしまった。
小説と思えば、まあ、つまらない話にはなるかもしれないけど、それを現実のこととして語っちゃうあたり、本当に救えない本、と言えなくもない。
「これー、本当に平積みされてたのかしら」
そんな悪態がこぼれる。
まあ、それにも何かの営業戦略的なものがあるのでしょう。
ぶっ飛んでる本ほど売れるのよ、みたいな。
「まあ、そんなうっすい営業戦略があってたまるかって感じですけどね」
そう口にすると、何か僕は、それが真実のように思えてきて、その本のポップを作ることが億劫になってしまった。
というか、このまま寝れたら幸せでしょうねー。ということまで考え始めた。
まあ、救いのない考え、だとは思うけど。
zzz
そんな訳で、僕は本当にその場で寝こけてしまって、気づいたら大学に行くっていう寸前の七時ジャストで、仕方なくポップの件をあきらめることにして、その場を後にした。
まあ、面倒なことはもみけしってことで。
大学への電車の中は、いつも通り。
出勤途中のお父さんやら、ほかの学生やら、そもそもなにをしているのだろう、と思う人たちから、僕のような有象無象のバカ学生まで。
そうした人間の寄せ集まりが、その場に集結していた。
で、そのなかで、僕は見たものは、一人のお父さんが呼んでいる新聞の内容だった。
そのなかに、すでにこの国のなかで、犯罪率が例年よりも数十パーセントも上昇している、という記事があった。
その中の記事には、連続放火魔の話とか、数人の少年による窃盗事件とか。
まーた情報操作か、それかその「例年」という言葉そのものが、過去最悪の数値をさしてのマジックか、と思った。
大学での講義、なんてものは僕はほとんどの場合、聞き流していることがほとんどのバカ学生なので、実際には講義に出ることそのものに特に意味などない。まあ、将来のことをなにも考えていないような僕は、実際、そこに行くことで、自分の体裁をどうにか保っているのかもしれないけど。
「あ、色無」
で。
そんな僕に、講義の合間に逃げようとする人物を発見した。
まあ、逃がす訳がないけれど。
「ストップ」
「あ、ま、襟はつかむな襟は」
「駒場くん、こないだ僕は、きみに二万円を貸した覚えがあるんだよね。そのことについて、きみから何にも返してもらってないんだけど」
「ちょ、ちょっとまって、今はさあ、その」
「聞きたくないな。あれ、さっききみ、あそこのATMからお金おろしてたよね? それをして、まさかお金が今ないから勘弁してちょ、なんてことはいわないよね?」
まあ、そんなこんなで、駒場くんは素直にお金を返してくれた。ありがたい。まあ、その二万がなかったら、僕は明日から自分の交通費をどうしようか迷ってたところだったからね。
大学が終わっても、僕はポップの件はなにも思いつかなかった。まあ、当たり前といえばあたりまえだ。僕は、そのポップの件を、まったく忘れていたのだから。
まあ、一つの決心のようなものをして、電車に乗り込む。帰りの電車は比較的空いていて、朝ほどの乗客の姿は見えない。
まばら、とまでは行かないけど。
で、そのなかに。
一人の少女を発見した。
まだ高校生ほどの少女だろう。
それのなにがおかしいのか、といえば、まあ、理由は一つだけ。
その少女が、制服の上に上着を羽織っていたのだが、そのコートの下から、何か革製の、どこかの映画でしか見たことのないものが見えていたからだった。
その革製品に収まっているものは、黒い、鉄製の、本当に物騒なものだった。
まあ、厳密にいえば、はじきと呼ばれるたぐいのもの。
それに、僕は一瞬ぎょっとして、その電車のなかで、いつそれを抜かれるかとどぎまぎした。
変な話だけど、まあ、それを取り出されると本気で考えていたし、その凶器があまりにもリアルなものだから、それがモデルガンかもしれない、という思考が、まったく抜けてしまっていた。
おそるべし人間の認識能力。
そんなバカみたいなことを考えているうちに、その少女はさっさとそこから降りてしまっていた。
僕は、何か自分の命が助かったように思ってしまって、その場で冷や汗をかいている自分を落ち着かせた。
「あれ、色無くん。なんかぼく、きみに仕事を頼んでた気がするんだけど」
「気のせいでしょう。あ、僕これであがらせてもらいますけど」
「あ、うん、おつかれ。あれー? でも確かに」
「記憶違いでしょう。僕はしりません」
「あ、ところでさ。ほら、そこの――なんだろう、その本知ってる?」
「本ですか? え? でもどのです?」
「ほら、そこにある奴なんだけどね、なんというのか、ほかの書店にはまだ搬入されていない――んじゃなかった。大々的には仕入れていないものらしいんだけど、二日くらい前にね、ある出版社の人がきて、あー、どこだったかなあ。確か、大手のところだったとは思うんだけど、いい本だから、ぜひ宣伝してほしいって」
「その本、マキさん読みました?」
「読んでないね」
「読んでないんですか」
「だって時間なかったし。時間があれば読もうとは思うけどさ。でも、まあ、なんていうの? ああいう本を読む人はどういう人なんだろうなー」
「あの、会話になってますか?」
「あ、ごめんごめん。でも、僕もすっかり驚いちゃって、あんな本があるもんだなーって。すっかりね。僕は、あんなものに出会ったことはなかったもんだから」
「読んでないんですよね?」
「読んでないよ? でもまあ、その本がどういう本なのか、っていうのは、表紙と、編集の書いた帯があれば、だいたいわかるから」
「それ、なんていう超能力です? 本屋より編集になったほうがいいんじゃ?」
「本屋の方がいいよ。でね、その本の内容みたいなものなんだけど、どうだろうなあ」
とにかく、マキちゃんにはその本がどういうものかわからない、ということだけはわかった。
家路について、その夜の街頭のなかを、一つの公園を横断する形で歩く。
その場所に歩く前に、そこに、一人の人物がいることを確認した。
「…………」
その人物は、まるで真っ黒い雨がっぱのようなものを身にまとって、そこに立ち尽くしていた。
不審者かしら、と思って、僕はその場で、すぐに逃げ出す準備を整える。
「なぜ怯える」
その人物の声が、その一帯に響く。
「そりゃあ、夜の公園で、雨も降ってないのにかっぱきた人に、しかも顔を隠したような人にあったら、ビビると思うけど」
「そうかね」
あ、こっちの話きいてないなー、ということだけはわかった。
「きみは、自分の能力でずいぶんと好きに生きているみたいだね」
「能力? 要領のことっすか? 僕にそんなもんはありませんよ。僕は、あくまで将来のことなんて微塵も気にしてないし、今があればいいんじゃないっていう、自堕落な人間ですから」
「自分ではそういうくせに、その状況をどうにかすり抜けている」
「状況ってまずい状況ってこと?」
「・・・・・・・・・・・・」
「まあ答えなくてもいいや。そんなことはどうでもいいや。ところで、ああ、男の人だとは思うけど、お兄さん、誰?」
そう僕がいうと、その人物は、わずかに何か口ごもって、そうしてその言葉を僕に届けることをやめた。
「きみは」
「はい?」
「きみは、資格を持っているようだ」
「なんの資格も持ってないっす。あ、英検もないっす」
「そういったものではない」
「資格って、でも能力のことでしょうに」
「能力だけを指すのであれば、私のようなものには、すでに資格がないことになる」
「じゃあ、なんです」
「資格とは、責務のことだとは思わないかね」
「はい?」
「わからないか、若いの」
「えーっと。何かができるから資格を持つんじゃなくって、つまり、資格を持っているから何かをしなくちゃならない?」
「そうだ」
「あたりっすか」
「そしてきみはそれに値すると行っているのだ。私は」
「それは、ありがたいんだか迷惑なんだが」
その場の会話は、しかし、進展しているようには思えなかった。
「きみには、しかし自覚というものが足りないな」
「自覚?」
「そうだ。きみは、一つの事柄そのものを操作することができる力を持っているのだろう」
「さあ、そんなもんは知りませんね。僕はただの学生ですよ」
「……。そうか、きみがそう言うなら、ほかにはなにも言うまい」
「どうも」
「しかし、きみにはこの世界で、果たすべき責任は果たしてもらう」
「責任?」
「私の望むべき、未来だよ」
そう言うと、その黒い、よくわからないことを言ってくれた人物は、急速にその場から消えていった。
消える、という表現は不自然だとは思うのだが、まあ、そのものずばり、本当にその姿が消えてなくなった。
「いや、あり得ないでしょ」
あの人物は黒いかっぱを着ていた。ということは、この暗闇に乗じて、僕の目を盗んで逃げたのだろう、と。
妙な人物にからまれたなあ、と僕は、その道を歩き始めた。
家につき、家のポストのなかを拝見すると、そこに何かが入っていることを確認した。
暗い箱のなかに、何か手触りがあったから。
暗闇のなかでわからなかったが、そこに入っていたのは、一通の手紙だった。
家の電気をつけて、その手紙をテーブルに置くと、その手紙は封筒そのものが真っ黒で、ポストのなかにあるにも関わらず、見えない理由だった。
黒い封筒には、その中心に、これまた真っ黒い封蝋がされていた。
それよりも異様なのは、その封筒のどこにも、僕の家の住所となる情報は記載しれていなかったことだった。
「どうやって送られてきたんだろう、コレ」
そう、疑問を持っていると、手紙そのものに、引きつけられるような感覚に襲われる。
なにか。
それを。
あけなくては。
ならないような。
そんな感覚。
今まで、そんな感覚には陥ったことはなかったのだが、現在の僕には、その手紙を手にした瞬間に、その暗示にかかったように、それを手放せない自分がいた。
まるで、それが自分にとって、なくてはならい、必需品かのように、僕にとっては強力な魔力をもって、そこにあった。
「……………」
黒い封筒は、まるで暗示のようで。
手紙そのものを握った瞬間に、僕はそれにかかった。
その手紙を、必ず、無視はできない。
その手紙を読むことが、その封をあけることこそが、僕に与えられた使命なのだと。
そう思えるほどに、僕の目は、それに釘つけられた。
その封筒を自分の指で、上の部分を徐々にちぎっていく。まるでわずかな悲鳴をあげるように、その黒い用紙で作られた手紙は、びりびりと音をたててその内部を開き始めた。
そこに入っていたものは、ただの真っ黒い紙が一枚だけだった。
それは一枚の、はがきサイズの紙で、裏も表も完全に真っ黒だった。
その紙を、自分の指がつかむ。
それを封筒のなかから引き出す時には、わずかに指がふるえた。
そうして、その紙には。
丸をただ重ねただけの、単純な模様が、白いインクでかかれていた。
それを直視した瞬間、暗示にかかった。
今度こそ完全に、はまった。
僕の目から完全に脳にまで達したものが、僕の脳そのものを支配する。
暗示は単純なものだ。
それそのものは、ただ手首を回す、ということにすぎない。
そこで、僕は一つの事柄を思い出す。
昨日、マキちゃんに頼まれたあの本。
あの本の内容に、この手紙を受け取った人間は、呪いにかかるのだと、そう書いてあった。
あれは、まさか。
手首は回る。
それを止めることはできない。
誰にもできない。
その行動は絶対で。
その性質は命令で。
この常道は、誰にも止めることはできない。
それだけの威力をもって、ゆっくりと、その白い円の重なりを直視しながら、黒い紙を回して行く。
そして、
見た。
長い時がたった。
すでに僕はそのなかにいて、自分の現実に回帰していた。
それは「眼」だった。
二重六芒星を内包した、一つの「眼」。
それににらまれている、と認識した瞬間に事は起こり、そして、終わっていた。
僕の現実はすでにそこにはなかったけれど、僕はその眼ににらまれた瞬間に、あることを認識する。
「あ」
僕は、ふらふらとその場に座り込む。
なんというべきか。
僕は、僕の姿を映してくれるものを、周りに探す。
結果的に、ガラスという結論にいたり、向こうが黒である場合は、光の反射によって自分を写すことを思い出す。
そして、そこにあったものは。
ただの、僕のいた部屋のなかの光景だった。
つまり。
「僕、写ってないじゃん」
そう。
僕は、その部屋のなかで、完全に消えていたのである。