第七話
その日は、メイド長から来客があると言われていた日だ。
大事な客人との話で、少女とコルンの業務は昼までだった。
とは言っても、ジーナとマリーの二人は平常通りの業務だ。
ジーナはその稀代な美貌を生かして客人への対応を、マリーは摘む茶菓子の製作などを行っている。しかし、掃除が主な業務であるコルンと、業務場所がまだ決まっていない少女は、邪魔にならないように部屋から出ないように言いつけられていた。
『主人様はこちらのお部屋でお待ちです。どうぞ、ごゆっくり』
壁の向こうから聞こえてくる声はジーナの物だ。
部屋で待機するまでに見えたジーナは薄く化粧をしていた。僅かに残っていた幼さが完全に消え、大人の女性へと変貌していた。
メイド長がいなければ即死だったと思いつつ、今朝届けられた新聞に目を向ける。数週間前、ジーナに契約を迫られたメイド新聞だ。
『南国の王、長年の恋を成就し結婚する!?』
『メイド商会代表、秘書と禁断の恋に落ちていた!』
『私が説く、竜を倒す為の魔法講座 第27回目』
『西国の王城メイドに聞いてみた! カワイイ皇太子ランキング!』
その他いくつもコーナーがあるが、特に惹かれたのがこの4つのコーナーだ。
『南国の王、長年の恋を成就し婚約する!?』
確か、南の国の王は確か30代程度になる女性だったはずだ。なんせ、この街が所属する国の王なのだ。
年明けの挨拶に拝見した時は、ある程度年齢を重ねておりながらその衰えを感じさせない、威厳に満ち溢れていた。
その王様の後ろには、同じくらいの年齢の男性が常に控えていたが…
―――爆発すればいいのに。
嫉妬の炎に心を焦がしつつ、次の記事を見る。
『メイド商会代表、秘書と禁断の恋に落ちていた!』
メイド商会の代表は亜人の女性で、その秘書も確か女性だった。
その禁断の恋が意味するところとは…
―――女性同士…胸が熱くなってきました。
禁断の恋との見出しの下には、細かい文字で本人へのインタビューが載っている。それを抜粋するとこうだ。
『え、なにこれ! ドッキリか!? ドッキリなのか!?』とか『―――の仕業か! あいつぶっ飛ばす!』だ。
一部人名は伏せられているようだが、突然のアポなしインタビューだったらしい。
シーツで体を隠した緑髪の女性と一緒に映った写真が載っている。両者の目に黒い線が入っているが、この奥の女性が秘書とやらなのだろう。
―――ふむ…ふむ。
少女が食い入るように写真を見つめていると、コルンから変な視線を感じた。
しかし、それを気にする余裕はない。次の記事へと進む。
『私が説く、竜を倒す為の魔法講座 第27回目』
竜といえば、この世界の生態系の頂点に位置し、天災と似たような扱いになっている生物だ。
基本的に意思の疎通は不可能であり、生贄を与えることで気紛れに去っていく。ただ極稀に、人間や亜人に手を貸す個体も確認されているらしい。そして、その鱗には魔法の杖の素材となり、魔法を強める働きがある。それ一枚が目玉が飛び出るような値段で取引されているとか。
話が逸れてしまった。
その竜を倒す為の魔法とはどのようなものなのか。
チラと見ても全く分からない。そもそも、魔法を習う暇などなかったのだ。
使う事が出来るかどうかも分からない。
それにしても…
―――この『私』とは誰なのかと。
恐らく、高名な魔法使いなのだろう。こんな所に記事を載せないで、分かりやすい魔法書の一つや二つ出してくれればいいのに。
それはさておき、最後の記事だ。
『西国の王城メイドに聞いてみた! カワイイ皇太子ランキング!』
西の国は次期の王である皇太子殿下や、その兄弟姉妹が多いことで有名で、確か十人はいただろう。
しかも、全員が全員整った顔立ちをしているのだ。こういったランキングをメイドさんが作るのも仕方ない。
その皇太子達、兄弟仲姉妹仲がよい。しかも妾や側室はおらず、正妻である王女と王の二人が全員を産んだのだ。
夫婦仲も兄弟姉妹仲も良好で、次代の政権も長男が継ぐことが発表されている。これなら、醜い骨肉の争いになる心配はないだろう。
―――このメイドさんはロリコ…いや、ショタ…いいや、両方か。
ああいった所に勤めているメイドさんは変態が多いのか? と気になりつつも、少なくとも真正の変態が勤められるような場所ではない。自分の信奉する正義の為に、あらゆる職場でも働けるだけのスペックを発揮する。
一言だけ、このメイドさんのコメントが書かれていた。
『主に仕える事を強制されている…いえ、そういった事も勿論望む所ですが、そう思うのではなく、ご褒美と考えるのです。仕えさせていただく、ご奉仕させていただく。そう考えれば、自ずとこうふ…いえ、その極意が見えてくるものです。変態? 褒め言葉です』
―――これが淑女の実力か。
少女はやや尊敬しつつも、読み終えたメイド新聞を専用のファイルにとじてコルンへと目を向けた。
「コルンさん、頬を膨らませてどうしたんです?」
虫歯だろうか? と少女は思った。虫歯ならば早めに歯医者に行かなければ。しかし、ここに歯医者はあっただろうか? そう少女が考えていると…
「だって新人、そんな新聞ばっか見てるし…」
むくれているコルンがそんなことを言った。
まるで、構ってくれないから膨れている子どものようだが、しかし少女には違う光景が脳裏を横切っていた。
―――コルンさん、カワイイ!
構え構え! と必死にお腹を向けているイヌが、無視されてガッカリしているような。
そんな光景を幻視してしまった。
「コルンさんは寂しがり屋さんですね。全くもってけしからんです」
「え? 新入りなに言って…わわわ!? なにし…むふぅ…」
心の奥底から湧きあがる感情に負け、ついコルンの頭を撫でてしまう。
少し硬めの犬っ毛で、しかしサラサラとした髪触りが気持ち良い。
ホニャリと蕩けさせた顔で頬を紅潮させ、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
―――か、かかかカワイイ!
今までは平静を保っていたものの、とうとう我慢が出来なくなったのか、鼻息を荒くしながらコルンの頭を撫で回す少女。
傍から見ると、変態そのものだった。
撫で繰り回す少女と、撫で繰り回されるコルン。
そして、少女がとうとう一線を越えようとした瞬間―――
「新入り! あんたいったいなにした―――なにしてんの!?」
ジーナが入ってきた。
ジーナが扉を開けて入ってきた。
どこにもおかしいことはない。
鍵は掛かっていないし、この屋敷で働いている、メイド長以外が使う部屋だ。誰でも入れるし、ノックをする必要もない。
しかし、いま、この瞬間。果たして少女とコルンはどういった体勢なのか。
自分の行動を思い返す。
頭を撫でていた右手はコルンの背後に回され、左腕はコルンを抱きしめたままに固まっている。これを客観的にみるとどう思う?
「あ、ああ! あああのジーナさんこれは違うんです!コルンさんが可愛くてついその―――」
パッと離れた少女と、支えを失ったためかベッドにポフリと倒れ込むコルン。
コルンはニヘニヘと笑っており、前後不覚に陥っていた。
何か焦ったようなジーナが少女に近づき、ガシリと腕を掴む。
「あんた…ホントになにしたの…?」
「え? なにをしたって…」
ここ最近はコルンとジーナの仕事を行ったり来たり手伝っていた少女だ。
休日は親方の店を手伝ったりしていて、遊ぶ暇など殆どなかった。
―――何かヘマでもしてしまったのだろうか?
日が昇る前に起床して、屋敷内の掃除や洗濯や街へ買い物に行っているのだ。
確かに朝は早いが、夜は実家にいた頃よりも早くに眠ることが出来る。あの頃よりもむしろ健康的な生活が出来ているだろう。
―――まさか、二日前のことが…
少女には、一つだけ心当たりがあった。
遡る事、二日前。
『ほら、見なさいよ新入り。このお菓子、美味しそうでしょ?』
休日、街に行く途中の道で少女がジーナに見せられたのは『全国食い倒れ ~頬落菓子大全~』と冠した一冊の雑誌だ。
その名の通り、全国の美味い菓子を出す店を網羅した、お菓子好きには必須とも言える一冊とのこと。
メイド商会が発行しているその雑誌は、タイトル通り全国規模で調査を行い、独断と偏見と美味しさで選んだ物をまとめたものだ。色々とシリーズ化されているらしく『全国食い倒れ ~腹膨料理大全~』や『全国眠り倒れ ~安眠安泊大全~』などがあり、そこに掲載された店は例外なく繁盛するとか。
ともかく、ジーナに見せられた雑誌には少女が見慣れた店が写っていたのだ。
二頭身ほどしかない亜人の少女があざといポーズを取りつつ、笑顔を浮かべてウィンクをしているキャラクターが描かれた看板。筋骨隆々の人間の男性と、あざといポーズをとったイヌ科動物の獣耳を生やした薄い褐色の亜人の女性が写っていた。
親方とミーク。間違いなく、あの店だ。
以前、親方に教えたあのお餅が街で評判になってきたらしく、かなりの売れ行きを誇っているそうだ。
二週間ほど前の手伝いで、口コミで評判となって毎日忙しいとミークが愚痴っていたのを少女は記憶していた。
それが、もう雑誌に取り上げられてるのだ。動きが速すぎると少女は思った。
さすがメイド商会だ。
表面的にはジーナと話をしつつつ、内心は何か言われるのではないかとビクビクしていたのだ。その時の少女の慌てふためき振りは凄まじかった。
『そういえば、ここ親方の店よね? 街で評判になったのって新入りがあの店に行った後だし…』
それがジーナに伝わったのか、核心をつかれたかのように言葉に少女は硬直した。
しかし、次のジーナの言葉で安堵に包まれた。
『まあ、新入りがそんな大それたことできっこないわね。って、なによマリー。そんなにむくれて』
なぜか機嫌を悪くしたマリーに服を引っ張られ、ジーナが話を途切れさせたのを良しとして、急ぎ足で街に向かった少女だったのだ。
―――あの時の話を思い出して? けど、それにしては切羽詰まってる?
少女から話を聞くだけならば、こんなに深刻そうな顔を作る必要はないだろう。買い物途中にそれとなく聞けば済むはずだ。
―――じゃあ別の? けど悪い事なんて…
少女が思案に浸っていると、唐突にドアが開く。金色の髪を腰ほどにまで伸ばし、レースが細かく縫い付けられたホワイトブリムが頭につけられ、少女たちと同じメイド服を着ているのにどこか別次元の印象を漂わせている。メイド長だ。
「急ぎ、連れて来いと言ったはずです。お客様、ひいては主人様にも迷惑がかかってしまうでしょう」
その冷たい眼はジーナを睨みつける。少女を掴んでいる腕に力が入った。
「ジーナ、離れなさい。あなたの本日の業務は終了とします。部屋に籠って、くだらない本でも読んでいなさい」
メイド長の言葉を聞き、ジーナの体がビクリと跳ねる。少女を掴んでいた腕は放され、その眼はメイド長を憎々しげに睨みつけていた。
「聞こえなかったのですか? 私は離れなさいと言いました。まさか、邪魔をする気ですか? それならば、あなたに罰を与えますが…」
少女たちを雇っているのはこの屋敷の主人だが、彼は基本的にメイド長に管理を任せていた。
業務関連の管理、賃金の支払い、罰の実行等々を取り仕切り、この屋敷で絶対的な権限を持つメイド長だ。
しかし、あくまでも契約内容に沿った上でだ。メイド長が理不尽な指示を出したことは今までに一度もない。
ここでは、第1条1項2号『メイド長の指示に背いた場合、メイド長の指示に従い罰を受ける』が適応されるのだろう
。
「―――っ、すみませんでした、メイド長…」
ジーナが頭を下げる。しかし、メイド長はそれを一瞥もせずに少女の手を握る。サラサラとした手だ。
―――
メイド長に引き摺られるようにして、屋敷の主人とそのお客さんという人がいる部屋に行くと、何やら細かい話をしていた。
「―――ということなんです。そういうことで、ぜひともその子を私たちの家族にしたいのですよ」
「こちらとしては別に構わないんですけど、やはりり本人に聞いてみないことには」
どうやら、自分の身柄の受け渡しについての話をしているらしい。
それも、全てを少女に一任すると主人が言っている。
―――どうしてこうなった!?
少女はそう叫びたくなるような衝動に陥った。なんとか押し止めたが。
少女はこの話題の元凶である、主人の前に座っている人物に目線を向けた。
声から察すると女性であろう。しかし、それ以外はまるっきり分からなかった。
身長は女性にしては高く、一部以外は細身でスラリとしており、魔法の初心者が被るようなツバの広い三角帽子を目深に被っている。そのせいで表情は窺えない。
そして、珍しい黒髪を腰ほどまでに伸ばしている。その上、全身に黒一色の衣装を身に着けている。まるで黒を体現したかのようだ。
―――お伽話に出てくる、魔女みたいな。
「主人さんから経緯はお聞きしました。ご両親の作った借金のカタでこちらに勤めていらっしゃるとか」
魔女(仮にそう呼ぶことにした)は少女の方を見た。
とはいえ、目深に被った三角帽子の影のせいで目線も表情も分からないが。
その通りだ。
両親が屋敷の主人から無茶な額の借り入れをしたため、少女がこの屋敷で働く羽目になったのだ。
働き、稼いで、借金を返し、元の場所に戻りたいとも思っている。
「は、はい。母親と、父が経営していた宿屋兼食事処が経営難になってしまって、それで…」
色々と原因はあるが、最大の原因は実家の改装だ。
古くなった宿屋を新しく改装したせいで資金が尽き、その上お客の入りが減ったせいで尽きた資金も回収できなかった。
この屋敷の主人から資金を借り受け経営に充てていたが、それすらも尽きたのだ。
「それなら話は早いですね。あなたの借金は私が肩代わりします」
そう言った魔女は、懐から小さめの紙束を取り出した。
それにサラサラと何やら書き込んでいる。黒尽くめの外見に反して白く、細い、白魚のような指だ。
「勿論、あなたが返済をする必要はありませんよ。どうぞ、受け取ってください」
小切手だった。
この世界には、各街に一つずつ銀行が存在する。自分の口座への預金、他口座への送金など、基本的な銀行と同じだ。
また、その銀行が発行している小切手という物も存在している。口座から一度におろすことが出来る決まっているため、商人同士の取引では主にこちらが使用されていた。何度も繰り返す手間を減らす為でもある。
しかし、これを街に設置されている銀行で換金することはできない。なぜかは分からないが、そういう規則になっているらしい。とにかく、これを国にある銀行の本店に持っていけば換金することが出来るのだ。
魔女に渡された小切手を見る。そこに書き込まれている金額に、少女は驚愕した。
ゼロが六つ、見た事も無い様な金額だった。
「え、ええ!? ひゃ、ひゃひゃ100万Sって!」
少女の抱えている借金は90万Sだ。
それを返してなお、余りが出る金額。それをポンと出すことのできる目の前の人は何者なのかと、少女は思う。
―――貴族…? まさか私の体を!? けど、女性が…?
少女は帽子の下の表情を見ようとする。相変わらず影で表情は見通せない。しかし、僅かに口元が見えた。
―――笑っている?
「どうです? 私たちの家族になりませんか?」
その言葉に、少女の思考が中断される。それは、とても甘美な誘惑だ。
この人について行けば楽になれる。楽に暮らしていけるかもしれない。
今のように働く必要もなく、昔のように―――
「ありがとう、ございます。こんな私を家族にしたいと言ってくれて。とても、嬉しいです」
「では―――?」
「けど…それは、違うと思うんです。言葉では、そう…言い表しにくいんですけど。違うんです。それだけは」
こんな私なんかに【価値】を見出してくれる。とても嬉しいことだ。
何も出来ない、何も知らない。こんな小娘なのに。
「なるほど…ただ漠然と、違うと思う、ですか」
「それに、私にも家族がいます。母親と父が」
「あなたを売ったのですよ?」
そうだ。母親と父は少女を売ったのだ。
少女は両親の借金を背負わされたのだ。
恨んで当然だろう。それだけの事を仕出かしたのだ。
「それでも…私の家族です。家族なんです。魔女さんにも、家族がいるのなら分かるでしょう?」
「ふふ…魔女と呼ばれたのは久しぶりです。まあ、それもそうですね。家族は大事にしなければ」
それだけ言うと、魔女と呼ばれた女性は席を立った。
「それでは主人さん。例の件、よろしくお願いします。メイド長さんも」
少女の横で黙っていた主人と、少女と主人の後ろで静かに立っていたメイド長に挨拶する魔女。
例の件とはなんだろうかと少女は気になるが、メイド長の冷たい視線を感じたので黙っていた。
しかし、少女の手元に残っている物を見て、たまらず声を上げる。
「あ、あの! この小切手は…!?」
100万Sもの価値がある小切手。それを気にすることもなく部屋を出ようと魔女。
お小遣いともいえない、貰う権利もない物だ。
「それはあなたに差し上げた物ですから、どうぞ自由に。そうですね…困った時にでも使ってください」
そう言って、メイド長の開けた扉を潜って出て行ってしまった魔女。
メイド長も共に出て行き、部屋には少女と主人二人だけになる。メイド長は魔女を見送りに行ったのだろう。
「まったく、あの人は変わってないね。まあいいや。それにしても…君は変わってるね」
「え…す、すみませんでした! あんな生意気なことを言ってしまって!」
「えっと…なんで君が謝るのかな? 生意気でもないし、むしろ好ましいと思うけど」
「あの…この小切手なんですけど…」
そう言って、少女は小切手を主人に渡した。
100万Sもの大金だ。さすがに手に余る。
「魔女さんは、困った時に使えって言っていました。けど、私は今、困っていません。なので…」
「預かってほしいって? 別にいいけど…取られる、って可能性は考えないの?」
この屋敷の持ち主で、少女の直接の雇い主である主人だ。
預かっていないと言ってしまえば、それが真実となってしまうだろう。
「はい、どうせあぶく銭です。もしそうなっても、私は何も言いません」
「ふぅん、頑固だねぇ…まあ、いいけどさ。君が必要になったら言ってよ。その時になったら返すからさ」
ガチャリと再び扉が開く。メイド長だ。
足音を立てずに少女に近づき、手に持った何かを渡す。
「メイド長さん…これは?」
ブレスレットだ。
メビウスの輪の様に捻じれていて、触るとヒヤリとしている。
所々が虹色で、常に色が変化しており、神秘的な雰囲気を漂わせていた。
「あの方が、あなたに肌身離さずにつけていてほしい、と。よかったですね。よほど貴女をお気に召したのでしょう」
恐る恐る右手首に嵌めると、キュッと肌に密着するように縮まる。圧迫感は皆無だ。
少し振り回しても外れる気配がない。ちょっとやそっとでは外れない、しかし邪魔にはならない。そんな絶妙な加減だった。
「あなたは戻りなさい。夕食までは部屋から出ることは禁止とします。コルン、ジーナにもそう伝えるように」
―――
主人の部屋を出てカチャリと扉を閉めると、深い溜め息が出た。
―――緊張した…
あんな大金を(と言っても小切手だが)持ったことなど初めてだ。精神衛生的によくなかった。
それに、あの女性はなにを考えているのだろうか。
こんなちっぽけで何も出来ない小娘を、家族なんて特別なコミュニティに所属させようとするなんて。
嬉しかった。こちらに来て、一番心が暖かくなったかもしれない。
しかし…
―――あの人たちが母親で、父だから。魔女さんの家族にはなれないな…
家族とは、絶対に一つしか所属できない。
真に家族といえるのは、自分を産んだ両親のコミュニティだけだ。
だから『家族のように仲の良いお隣』とか『家族みたいに育った幼馴染』とか言っている人を見ると、おかしいのではないかと思ってしまう。
どこかで家族というコミュニティに所属しているのなら、他の家族というコミュニティに所属することはできないハズだ。
そう、少女は思う。そして、こんなことを考える自分を、どこか諦めたような心境で客観的に観察する。
家族という繋がりを渇望しながら、家族という繋がりを作ることを否定して。
―――やっぱり、私って最低なのかな?
こんな考えをする自分が嫌になる。死にたくなる。消えてしまいたい。
―――けど、そんな度胸はないし。はぁ…
目の前が真っ暗になる。意識が薄れる。血の気が無くなる。
自分が消えてしまう、あんな感覚はもうコリゴリだ。
「新人! 大丈夫だったか!?」
自室の扉を開けると、コルンが飛びついて来た。
ふわりと、コルンの匂いが感じられる。ギュッと抱きしめられていると、向こう側にいるジーナが本を閉じてコルンを引きはがした。
「で、新入りは、あの人になんて言われたの?」
険しい顔をしたジーナに話しかけられる。ズイと顔を近づけられ、長い睫に目が行ってしまった。
「えっと…私を家族にしたい、と。借金も肩代わりするって言ってくれました」
「はぁ!? なんで新入りなんかに! わたしの方が良いでしょう!」
その通りだと少女は思う。化粧をした所で平々凡々な自分よりも、化粧をしなくても見目整ったジーナの方が見栄えがいいだろう。たとえ全部が嘘だったとしても、キレイな方を迎え入れたいだろうに。
「じゃ、じゃあ、新人。いなくなっちゃうのか…?」
目をうるうるとさせたコルンが言う。まるで飼い主を呼び止めるかのようだ、と少女は思った。
「いえ、お断りしました。言い表しづらいんですけど…なにか違うなあ、って思ったんです。あ、でも、これを肌身離さずつけてろって頂きました」
ジーナに右手首に嵌めたブレスレットを見せつける。それを見た途端にジーナの表情が凍りついた。
その空気に、少女は不思議に思う。この、ただのブレスレットが何なのだろうか?
固めた表情のまま、ジーナが本棚から何かを取ってきた。メイド新聞を綴じたファイルだ。
パラパラと手早く捲り一枚の冊子を取りだした。日付を見るに随分と前の物だ。
「ほら、これ見なさいよ!」
そこには、様々な記事の下にこう書いてあった。恐らくは広告なのだろう。
『これであなたも魔法使い! 空間転移もなんのその。限定5個の特別品、お値段なんと格安の4000万S!』
商品の写真も掲載されている。少女の腕に嵌められているブレスレットと同じものだ。
突っ込みどころは様々あるが、チラリと自分の右腕を見る。相も変わらず各所の色が変わり続け、まるで虹を見ているようだ。
「よ、よんせんまん…」
少女は眩暈に襲われた。
元々、装飾品の類には興味がないのだ。
煌びやかな宝石や緻密な彫刻があるわけでもない、ただ捻じれているだけのブレスレットがこんなにもするなんて。
ブレスレットを弄るが外れる様子はない。むしろ外せない。
―――教会に行かないと外れなかったりして…
そんなどうでもいいことを考えて現実逃避をするが、ふと思いつく。
バカみたいに高価なブレスレットを、何の気なしに渡せるなんて。
「けど、あの人って誰なんです…? ま、まさか、本当に貴族とか!?」
どこぞの大貴族だったら、もしかするととんでもない不興を買ってしまったのでは。
―――いや、けど、あの魔女さんは気にしていない風だったし大丈夫、かな…?
「新入り、本当に知らなかったの…? メイド商会の偉い人よ。あの主人とは昔からの付き合いらしいけど。かなり前から度々来てるって、マリーも言ってたわ…」
―――またメイド商会か!
確かに、メイド商会の人ならばこのブレスレットも持っているだろう。多分売れ残りだ。
そもそもが4000万Sもするブレスレットだ。そう売れるわけもない。
恐らく魔具なのだろうが、詳しい効果については一切言及されていない。売り文句には『空間転移もなんのその』とあるが、こんな小型の魔具で空間転移など不可能だろ。
一般的に、空間転移には莫大な魔力と専用の巨大な施設、希少な触媒が必要だ。一部の国、一部の場所にしか設置されていないそれを、こんなブレスレットが可能にするなんて。
「…けど、胡散臭いわね。そんなので本当に空間転移なんてできるの?」
「まあ…眉唾物ですよね。あ、そうでした。夕食まで部屋から出るのは禁止だそうです」
「ええー!? あたしお腹減ったよ! 新人ー! マリーんとこ行っておやつ貰ってきてよー!」
「それもそうね。そのブレスレット、空間転移出来るんでしょ? 扉を通らなきゃ部屋から出た事なんてばれないわよ」
「あはは、それもそうですね。それじゃ、キッチンに行ってきます」
軽く、ふざけた調子でジーナに言う少女。しかし、空間転移の方法なんて知るはずもない。
適当に、この屋敷の間取りを思い浮かべる。マリーがいるキッチンまでの道のりを設定した。
「ワープ、なんて―――」
一変した。
ベッドと本棚と窓がある景色から、様々な調理器具と様々な魔具のある光景。
マリーが野菜を切り、コンロには鍋が火にかけられ、クツクツと蓋が震えている。
「…へ?」
つい、間抜けな声が出てしまった。
周りを見渡してもコルンもジーナもいない。少女とマリーの二人だけがキッチンにいた。
右手首に嵌められているブレスレットを見る。虹色に光っていたその輝きが鈍くなっていた。
具体的には半分くらいに。
「さて、とそれじゃ…!? あ、あの、新入り、さん? ど、どこから入ってきたんですか…?」
―――なんて言い訳をすれば…! ワープをしたと言えばいいのか? いや、そんな非現実的な事を言ってもいいのだろうか。魔法が存在しているこの世界で非現実的も何もないが、それでもワープは別物だろう。ワープなんてSF的な技術、いや、そもそも空間転移とワープの違いが分からない。どこぞで、二点間を捻じ曲げて空間を繋げるのがワープ、二点間を入れ替えるのが空間転移と聞いたことがある。ほんの僅かな過程の違いがあるだけで結果に違いはないが。それでは、いま自分が行ったのはどちらなのか。つい聞き覚えのあるワープと言ってしまったが、本当は空間転移なのではないか? あの部屋の自分がいた空間がこちらに来て、元々キッチンにあった空間があの部屋に行っているのか。それなら、この部屋のいい匂いがあの部屋に…
「あ、あの…?」
この間、僅か1.2秒である。それにしても、少女の現実逃避には困ったものだ。
「…実は、コルンさんがおやつを食べたがってまして。お菓子を頂きたいのですが」
「は、はい、いいですけど…」
そう言ってマリーが持ってきたのは、小さめの缶だ。
蓋を開けると、クッキーのようなお菓子が入っていた。
ミルクや卵、小麦粉を混ぜた生地を伸ばして焼いたもので、この屋敷に常備してあるお菓子だ。
どうやら主人が好んでいるらしく、常に買い置きがキッチンに置いてあるのだ。
これの管理はマリーが行っており、誰が何枚食べたのかを逐一記録している。常に切らさないようにしているらしい。
マリーはそれを十数枚皿へ移し、少女へと渡した。
「ありがとうございます。それでは、私はこれで」
マリーが見ている中、ワープを行うわけにはいかない。
扉を開けてキッチンを出る。カチャリと閉めると溜め息が出てしまった。
―――ふぅ、危なかった…
再びブレスレットを見る。虹色の輝きが鈍くなったのは間違いない。
往復分は保証されているのか? と少女は思う。しかし、売り文句にあった『空間転移もなんのその』は本当だった。
―――もしかして世界移動もできたりして…
そんなことを考えつつも、メイド長に見つからないように部屋へと戻った少女だった。
ちなみにコルンとジーナに聞いたところ、少女が消えた瞬間になにやらいい匂いが漂ってきたらしい。
ワープではなく空間転移だったのか、と結論を付けた少女であった。
※以下、登場人物について
・少女 [] 16歳 161cm
種族:人間
髪色:茶色
瞳色:茶色
人物像:在住する地域では一般的な茶髪に平凡な顔立ちの、いたって普通の少女。
どうやら、購読をしているメイド新聞にお熱な模様。お気に入りのコーナーは『○○に聞いてみた! ○○ランキング!』
犬の撫で方には慣れている模様。
『魔女』と呼ぶ女性に、借金を肩代わりし家族にならないか、と誘われるが、自分の信念からそれを断る。しかしどうやら『魔女』に気に入られた模様。
『家族』に対して、独特の価値観を持っている様子。
メイド長を経由し手渡されたブレスレットによりワープが可能になった。やったね!
意外と頑固。自覚はあんまりない。
・コルン [Korn] 15歳 160cm
種族:亜人
髪色:茶色
瞳色:茶色
人物像:明朗活発、カッコカワイイ顔立ちの、褐色の肌をしている亜人の少女。
新入りの少女が新聞を見ていて構ってくれず、むくれていた。構ってくれたと思ったら思い切り撫でくり回され、一線を越えられそうになった。
メイド長に連れて行かれた少女を心配し、ハラハラしながらその帰りを待っていた。それでもおやつは忘れない。
心の天秤は少女に傾きっぱなし。
・ジーナ[Jena] 17歳 162cm
種族:人間
髪色:黒色
瞳色:黒色
人物像:珍しい黒髪を後ろで縛り、スラリと伸びた体躯と併せ、一見するとイイトコのお嬢様の様にも見えてしまう雰囲気を持つ。
メイド長に申し付けられ、少女を呼びに来た。問いただすが、要領を得ないままにメイド長に引き摺られる少女に、嫉妬に似た感情を持つ。
戻ってきた少女に質問をぶつけるが、予想していた通りの答えに苛立ちを隠さなかった。
案外、嫉妬深い。それを隠さないのは若さゆえ、か。
・メイド長 [] 歳 172cm
種族:
髪色:金色
瞳色:碧色
人物像:詳細なプロフィールは不明。
どこまでも職務に忠実。少女を始めとしたメイド達への対応は、一貫して中立。
『魔女』から預かったブレスレットを少女へ手渡した。
『魔女』とは因縁があるとかないとか。
・主人 [] 27歳 181cm
種族:人間
髪色:茶色
瞳色:黒色
人物像:基本的に姿を見せない屋敷の主。
新入りの少女の身柄受け渡しについて、その可否を少女に一任した。
『魔女』とは、古くからの知己の様子。
少女を『頑固』と評し、あぶく銭と言う100万Sを預かった。
見えない所で事務仕事に追われている。決してサボっている訳ではない。
・『魔女』 183cm
種族:人間
髪色:黒色
瞳色:黒・虹
人物像:本名を始めとした詳しい情報は不明。
ツバの広い三角帽子を被り黒色の衣装に身を包んだ、その表情の殆どが帽子の影に隠れた女性。少女は『お伽話の魔女みたい』と表現した。
どこで少女の事を知ったのか主人の下に現れ、直々に『家族』にしたいと申し出た。100万Sもの大金を惜しげもなく少女に手渡し、その是非を問う。
結果的に断られたものの、本人は満足げに屋敷を後にした。
去り際、少女にと、4000万Sもするブレスレットをプレゼントした。ジーナ曰く『メイド商会のお偉いさん』らしい。
いったいなにものなんだ…
※以下、登場用語について。
・少女に渡された腕輪(商品名:G.PS)
メイド商会驚異の技術力で造りだされた腕輪。五個限りの限定品。個人認証機能付きの為、一度嵌めたら外せません。
メビウスの輪のような捻じれの装飾が施されており、常に七色に光り続けている。
空間への干渉を可能とし、空間転移(空間αとβの相互移動)をする(させる)事が主な機能。
蓄えられている魔力量は、光加減で大まかに分かる。
魔力消費は激しく、空間転移による往復で腕輪の使用は不可能となる。回復には、消費に関わらず丸1日が必要。それか所持者が変わる事。
メイド商会の技術力、恐るべし…!