トリニクルチック 2
私の前には大きな水たまりがある。この大きな水たまりは大地に吸収される事無く、水たまりとして今日も胸を張って生きている。水たまりはただただ水が溜まっただけに過ぎないというのに『海』なんて名前まで付けられて、挙句の果てには偉そうに塩味まで付けちゃって。
だから私は言ってやるのだ、「お前なんてただの水たまりだよ」って。
そうしたらば、きっと水たまりはびっくりする事であろう。今までちやほやされていたっていうのに、急にそっぽを向かれるもんだから。だけど水たまりには水たまりなりのプライドもあるだろう。昨日今日になって『海』なんて呼ばれだしたわけじゃないのだから。
そういう意味では水たまりも被害者と言えなくはない。もっと早く、もっと早くに誰かが言ってあげなければならなかったのだ。それはコッソリとでも良い、堂々と大衆の前でだって構わない。水たまり自身が勘違いを起こす前に真実を伝えてあげなければならなかったのだ。
しかして人類はそれに失敗した。
人類そのものが、水たまりをただの水たまりでは無いと、しっちゃかめっちゃかな勘違いを起こしてしまったのだ。
だから私は此処にいる。
だから私が個々にいる。
私は時を待った。全ての物事にはソレを行うべき時間と場所というものが存在すると思う。だから私は待とう、いつまでも纏う。
寄せては返す水が、砂と相まってザァザァと音を立てた。妙に耳に心地よいその音はまるで母のおなかの中で聞いた、圧縮的くるくる音楽に似ている気がした。そう思うとなんだかいっそう心地よい、ほんの少しだけ水たまりも良いものだと思える。しかし悲しいかな、私はこの水たまりとさよならしなければならない。
足元の砂を一握りすくい、その中からほんの一つまみ口に含んだ。飴玉のように優しく、誰かの目玉のように愛おしく、私は砂粒を舌の上で転がした。
砂はまるで銀の様に、私の中で踊って弾ける。銀細工の小人たちは面白可笑しく舞って笑った。
空と水たまりの間で、溶けるように……融けるように。
いっぽ、ほんのいっぽだけ私は水たまりへ近づいた。水たまりは素知らぬ顔で、いつものように寄せては返し、寄せては返し……。
いつか来るその日、待ち続けているその日。
いつまでも待っている。いつまでも舞っている。
トリニクルチック。
いつか来るその日を、私はトリニクルチックと名付けよう。
トリニクルチック、トリニクルチック。
水たまりは、まだ変わらずそこにある。