プロローグ:ログイン前
ああ、いやだいやだ。
何がいやだって、勝てない勝負に挑まなければならないことだ。
道場の隅で壁に向かって立ちつくしながら、ため息をつく。
板張りの床に、同じく板張りの壁。格子状の天井。どれもこれもが古ぼけて、染みだらけだった。毎日の雑巾がけのおかげか、手入れの行き届いた室内は清潔で、二百年近く古い建物ながらも十分使用に耐えられる。
この道場を建てたのは、名家とは言わないし由緒正しいなどと聞いたこともないが、それなりに古い血筋だそうで、その子孫である現所有者は、本家だの分家だのといった存在がまかり通っている世界で当主なるものをやっていた。
そんな家が伝えてきた「戦うためならなんでも使え、卑怯とは賞め言葉です」的な超実践主義で技を教えている流派があったりする。
どんな運命の悪戯か、俺はそこで内弟子なんぞをやっている。
ま、そこは名ばかりなんだけど。
本家に居候していて、道場で武術も習っているから、そこの道場のお弟子さん方に俺は内弟子と認定されているというだけだ。
で、超マイナーだけど、門下生の皆さんは超本気で日々鍛錬に明け暮れている。内弟子が俺一人だけなもんだから、そんな特別な立場に対する嫉妬もそれなりにあるわけで。
いじめとは言わないまでも、たまに鬱屈した感情が俺にぶつけられることになる。
「ほら、早く練習試合しましょうよ。ウド先輩」
ウド、というのは、俺のあだ名が【独活の大木】だから。身長が一八七センチもあって、道場でも一番の弱者であることから名付けられていた。
誰か天野くん呼んできてくれ。ボケ倒すから。
あだ名で呼ぶ後輩に、腹を立てる余裕もない。ああもう逃げたい。逃げ出したいなあ、くそう。
俺は心底嫌々、開始位置に立つ。相手までの距離は2メートル。一足で蹴りの間合いに入れる距離だ。
試合形式なので、急所攻撃無し、肘膝頭突き無し、一本先取の審判判定ルール。
俺は高校三年生。相手は小学五年生。身長差は三十センチ以上。
それなのに、俺の方が弱い現実がここにはあった。総当たり戦とか日々の組み手で、大体の格付けは終わっている。ちなみに俺は中学生以上の門下生の中で最底辺となっている。そんなんだから、負けの見えている勝負にやる気が起きるはずもない。
審判に名乗り出た師範代は、
「妙なことをしたら、きっちり責任取らせるから安心しなさい」
と、あまり頼りにならないことを仰った。
だって、ねえ。
組み手で寸止め失敗して顔面に拳めり込んで鼻血が止まらなくなっても「ワリ」「おう」で済んでしまう世界なのだ。妙なことをされたとき、一体俺は骨を何本諦めなければならないというのか。
「構え!」
腹の底から出ている師範代の声に、俺は思わず反射的に構えてしまう。ああもう条件反射だよ。上の命令に逆らえない、体育会系ナイズされた俺の習性が憎い。
目の前の小学生は、顔に余裕満面の笑みを浮かべながら、土居心念流槍一突の型。右足右拳を引き左手を真っ直ぐ前に伸ばし、半身に構えて、突きの一撃で勝負を決めるように見せる構えだ。門下生曰く、これで突きが決まったらカッコイイよね的構え。
実は突き出した左手に意識を向けさせ、あるいは攻撃させ、隙をつきカウンターを入れることを目的とした構え。だから突きの構えはあくまでもポーズなのだが、見た目が突き重視な感じだから、道場生は必ず槍一突による突き技で一本取るというロマンを追う。
土居心念流は、実践主義と伝統主義が混在している。流派として伝える技は技として教えるけど、他流派の技術ガンガン吸収して鍛えたえれば、いいとこ取りでより強くなれるよね! という考え方なのだ。
そんなわけで、俺は最も慣れた空手のサンチンの型を選ぶ。かかとを開いてしっかりと床を踏み締め、脇を締めて構えた両腕を、ゆっくりと顔の前へと持ち上げる。
カハぁ~~~~~~~~~~~~っ
息を長く吐き、
スッ
短く吸う。
丹田に力が篭もり、全身に力が満ちるような感覚が広がっていく。
「はじめぇっ!」
師範代の合図があった瞬間に、小学生が一足飛びに間合いを詰めてきた。
あ、くそ。いくらなんでも舐めすぎだろコイツ。
迎撃してくれるわ!
あっさりと間合いに入ってきた小柄な体へ向かって、右拳に渾身の力を篭めて突く。
体重の乗った突きは、まともに当たれば有効打でなかろうと相手に深いダメージを与える威力を誇る。
まともに当たれば。
ぶん、と重い風切り音の先に、打撃の当たる音はなかった。
くっ、避けられた!
正拳の外側から回り込むようにして、小学生はステップイン。彼は才能があり、基礎練習もしっかり打ち込んでいるため、歩法にも安定感がある。槍一突の型を崩さずにここまで接近できるとは、さすが有望株と呼ばれているだけのことはある。
とにかく動かないと、このままでは一撃もらってしまう。間違いなく有効打。このままじゃ秒殺だ。いくら実力差が明白とはいえ、すんなり負けてやるものか。
間合いを開けるか牽制するか防ぐか。
とにかく足を動かせ!
脳から命令を出す。
…………くっ。
動かないといけないのに、俺の体は動いてくれない。
頭じゃわかってるんだって! ほら、対戦相手の動きだって見えてもいるし!
わかっているんだ。見えているんだ。なのに、足の裏には根が生えてしまったかのように床に張り付いてしまっている。両腕は鉛を縛り付けられたかのように重く、動かし難くなっていた。
少年が四肢に力を入れたのを感じた。足を捻り込み、上半身を反転させ、右腕をゆっくり伸ばし、拳を俺に近づけてくる。
引き延ばされたかのような時間の中で、俺は抗うことをやめた。代わりに、すぐにやってくるであろう痛みに対して覚悟を決めた。
「セイヤァァァァァァァ!」
気合いと共に放たれた拳は、俺の下腹に吸い込まれていった。
うげっほぉおぇ。
そしてあっさり負けました。
……ちょっとリバースしたのは、早く忘れることにしよう。
人々が肉体から自我を解き放てるようになってから、早四十年が過ぎていた。
アメリカのとある神経解剖学者が認知症治療に繋がる脳機能に関する画期的な発見をしたり、ドイツでとある医療器メーカーが脳波をコントロールする革新的な発明をしたり、日本のとある電機メーカーが頭に装着するリングタイプのハンズフリーキーボードを発売したもののあまりに難解な操作性に売り場から姿を消したり――
文化や歴史と同じように、小さく積み重ねた科学力は、ついにプログラムで再現された五感を脳に直接伝えることで、現実そのままの実体験を得ることを可能とした。
例えるなら、身体は自宅で横になっているのに当人は海で泳いでいる実感を得ることも可能ということである。
それは、昔からSF小説などで空想されていた、現実と誤認するほどリアルな仮想現実、いわゆるバーチャルリアリティと呼ばれるもの。
現在では、VRインターフェイスが新しい家電三種の神器と目されている、というくらいに一般家庭に浸透していた。
VRネット全盛の時代でも、平面モニターで閲覧できるインターネットコンテンツは廃れることがなかった。端的に言えば、気が休まらないからだ。自室で座り慣れた椅子に座り、ジュース片手にモニターを眺めることに比べ、VR環境に対応した情報というのは、あまりに生々しすぎる。わざわざVRネット内に構築したマイルームで、再現したモニターを見ながら仮想ジュースを飲んでネットサーフィンをする人物も珍しくないのである。
それほどまでに、VR空間は現実に近かった。
だからこそ、VRネットでは新しいサービスが瞬く間に広がっていった。
それは、現実では叶えられないシチュエーションが体感できるからだ。
例えばスポーツコンテンツ。酸素ボンベを用意せず、生身で南国の綺麗な海を何時間も潜っていける。二千メートル級の山頂から、スノーボード一枚で滑り降りられた。
体感ドラマ、というジャンルも増えた。自分がドラマの登場人物そのものになれるため、これ以上ない臨場感が味わえる。
娯楽以外でも、VRコンテンツは利用されていた。例えば学校。身体にどれだけ不自由があろうとも、VR学校では、健常者と同じ学校生活を送ることができた。
そしてそれは、VRゲームでも同じことが言える。
稽古も終わり。
夕食もしっかり食べて、風呂にも入ってまったりしている午後八時。
俺は居候先にあてがわれた自室で、座椅子に座りながらマウス片手にモニターを見ながらネットサーフィン中だった。
VRでもネットサーフィンはできるが、五感を再現できるだけのデータ量が必要なわけで、回線使用料が一般のネット回線よりも割高なのだ。具体的には従量制。使ったら使った分だけお金がかかるのである。常時接続できる金満は滅べばいいのに。
今、俺が見ているサイトは、とある新作VRゲームの公式ホームページだ。
ゲームジャンルはMMORPG。一つのフィールドに大人数が集まり、戦闘や交流ができるのだ。
情報が露出した頃から注目をしており、日々新たに発表されるゲームシステム情報やスクリーンショットを見ては、一日でも早くプレイできる日を待ち望んでいた。
しかし、もうすぐ我慢の日々も終わる。
オープンβテストが開始されるのだ。
公式サイトも、テスト開始を盛り上げるためにリニューアルオープンされており、俺は、新たに出来たゲームの紹介ページを眺めていた。
≪新型AI搭載!≫
この世界のNPCは生きている!
現実そのままの社会がここにはある!
≪選べるプレイヤーキャラ種族は三種類!≫
そして、種族は複数の人種で構成されており、その数は十以上!
戦う、育てる、造る。あなたが望む生き方に合う種族が選べる!
≪レベル、熟練度に上限なし!≫
鍛えた分だけ、あなたの力は上がり続ける!
最強も、万能も、努力次第で思いのまま!
≪【称号】【名声】システムで、あなたの行動は全て自分に反映される!≫
あなたの行いによって、街の人々の反応は、好意にも悪意にも変化する!
行動の結果によって得られる【称号】は、様々なステータス効果を及ぼす!
≪生産スキルは作るだけではない! 描くことも可能!≫
武器や防具に限らず、作れる道具はすべてあなたのデザインを反映させることが可能!
世界でたった一つの、あなたオリジナルアイテムを作れ!
※デザイン創作スキルは、正式サービス開始時に課金アイテムとして販売予定です
などなど。
新作VRMMORPGタイトル【ロスト】の公式サイトでは、風景の画像やイメージデザイン画を背景に、煽り文句がいくつも並んでいた。
レベルと熟練度に上限なし、というのが、ゲームバランス崩壊しそうで不安になってくるのだが……うーん。ゲーム制作に関わっている知人、通称『教授』からこの話を聞いたとき、散々やめておいた方がいいと念押ししておいたんだけどなあ。それでも決めたというのなら、勝算があってそういうシステムにしたのだろうから、期待しておこう。もしミスしたら『教授』を罵倒しまくってやろう。
俺は脳内予定表にそう書き込んで、続けてストーリーのページをクリック。
『ストーリー』
過去の伝承は伝える。
世界の中心とされた国があり、大陸があったという。
現代に至るまでそんな大陸が発見された例など一度としてなく、現代では空想の産物、もしくは海に沈んだのだと空想されるだけであった。
しかし、大陸が海に沈んだとされていた海域に、ある日突如として陸地が現れた。
偶然にも大陸を発見し、外縁を探索した船乗り達がもたらした報告には、樹木が生い茂り、とても海に沈んでいたとは思えない自然の姿があったという。
地上には建造物の跡地と思われる痕跡が数多く残り、現在も形を残す建物の中には、宝石や金細工などの財宝、作成方法すらわからない美しい芸術品の数々、未知の技術で作られた道具や武具の数々が残っていた。
新大陸で待っていたのは財宝だけではない。
人類の天敵として余りある力を持つ、凶悪な魔獣の数々も、大陸には生息していた。
だが、人々はこぞって新大陸を目指していく。
財宝を得て一攫千金を。
未知の技術を解明して、世界に名を残す発見を。
魔獣を屠り、英雄としての名声栄誉を。
あらゆる危険をその身で乗り越えることを決意して、新大陸に人は集う。
新大陸が伝説に残る名も無き大陸なのだとして、あの土地にはどのような過去があるというのだろうか?
その過去が、自らの栄光に繋がると信じて。
あなたは、新大陸へ向かうため、ガレオン船に乗り込んだ。
ま、よくある話だな。
しかし、楽しみではある。
俺は顔がにやけるのを自覚した。
このゲームには、俺の考案したアイディアが入っているのだ。
例えば世界設定。あるいは神様の名前。他には新大陸に眠る遺産アイテムの能力などなど、細かな部分にいくつも俺の決定が反映されている。
理由は簡単。開発メンバーの中心人物と知り合いだからだ。
想像するのが楽しくて、世界設定について訊ねられた時に思いついたことを片っ端から言い並べたが、そのいくつかが実際に使われ、結果として開発に貢献したと認められ、このゲーム内ではいくつか優遇されることになっている。一番の優遇は、βテストを終了し、正式サービスに移行した時点で発生するはずの、月額課金を免除してくれるというのだ。他にはちょっとした課金アイテムを融通したり、テスターとして新たに作るであろうアイテムやフィールド、ダンジョンなどにゴニョゴニョ……とも言われている。
嗚呼、素晴らしきはコネの力よ。
それに、俺はRPGやシミュレーションゲームなどが好きだから、単純にゲームとしても楽しみにしている。
やればやるだけきちんと糧になるところが、俺の琴線に触れるのだ。
現実が、あまりにあんまりすぎるから。
俺は不器用な上に運動神経も鈍く、スポーツ全般を苦手としている。
練習は苦にならない。身につかない努力を続けるのだって、ほんのわずかでも成長していると信じているから、続けていられた。
けれど、他人と競うとなると、話は違ってくる。みんなが早足で伸びていくなか、俺は一人で亀のような歩みで進んでいく。やる気がなかったり、最初から諦めている連中よりも、努力を惜しまない俺は下手くそなのだ。意気込みだけはあるだけに、それがとても辛い。実らない努力の実が、いつも目の前にぶら下がっているのだから、俺の心はいっつも折れまくり、練習が終わる度、明日の練習に向けて折れた心を接いでいた。
だけど、ゲームは違う。
数値化された経験値は、きちんとキャラクターに蓄積され、やればやるだけ成長していく。結果が出せる。
重ねた努力が裏切らない世界。
俺みたいな人間にとって、これほど楽しい娯楽はない。
ただ、人一倍不器用な俺は、勉強に修練に目一杯時間を取らなければ目に見える成果を出せず、空いた時間もVRネットにあるコミュニティメンバーとの交流に費やしていたので、ゲームに割ける時間は極めて少なかった。
楽しみにしている新作ゲームだろうと、このままではプレイできる時間が減る。
だが。
だがしかし。
予定を減らせばその分の時間はガッポリ空くのだ。
俺は、土居心念流の稽古を辞めることに決めていた。
この流派、一度入門すると、どれだけ疎遠になっても門下生として扱われる。破門すらされることはない。
例えば、数年道場に顔を出さずとも、年始の挨拶もせず、鍛錬から離れ土居心念流の武技を鈍らせていようとも、土居心念流門下生からは同門生として扱われる。
そして、もしも流派の技を悪用して問題を起こせば、一門会が介入してくる。問題が起きても結果法的に白なら保護。黒なら懲罰。法的に黒でも心情的に白なら、お金と権力でなんとかしてしまう。これが逆の場合も、破滅的な意味でなんとかしてしまう。
俺が入門したのには、理由があった。しかし、その理由はすでに消えてしまっている。消えたというか、解決した。
だから、毎朝毎晩稽古に汗を流す必要はなかったのだが、一度始めたことだから、納得がいくまで続けたかった。俺の性分だ。
βテストの開始日程が決定してから、俺はずっといつ練習を止めようか考えていた。今日の小学生との組み手は、いい切っ掛けだった。色々と挑発とか嫌味とか言われたし。それもいつものことではあるが、それを止める理由にできたので心情的に楽だった。
βテストは、明日、日曜の12時からはじまる。
俺は期待に胸を膨らませながら、何度も見た公式サイトの情報を眺めているのだった。