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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第9話

 悠が箱庭園に着任して四日目。

 施設の空気に慣れるどころか、むしろ“違和感”は日を追うごとに濃くなっていた。


 朝の食堂。

 子どもたちの笑い声が響き、食器の触れ合う音が軽やかに跳ねる。

 一見すると、どこにでもある児童施設の朝の風景だ。


 けれど悠には、その明るさがどこか“薄い膜”を通したように感じられた。


 笑い声は確かにある。

 けれど、その奥に沈黙がある。

 言葉にできない空洞のようなものが、施設全体に漂っている。


 その中心にいるのが――凛だった。


 凛はアヒルを抱いたまま、静かに席に座っている。

 子どもたちが近くを走り回っても、凛はほとんど反応しない。

 ただ、アヒルの白い頭を撫で続けている。


 その姿は、まるで“祈り”のようだった。


「凛ちゃん、パン足りてる?」


 悠が声をかけると、凛はゆっくりと顔を上げた。


「……大丈夫です」


 その声はかすれていて、どこか遠い。

 けれど、昨日よりは少しだけ表情が柔らかいように見えた。


「昨日より元気そうに見えるよ」


「……そう、ですか?」


「うん。少しだけね」


 凛は小さく頷いた。

 けれど、その頷きはどこか“確認するような”動きだった。


 まるで、自分の感情を自分で判断できず、誰かの言葉を待っているような。


 ――だいじょうぶ。

 ――ぼくがいる。


 凛の胸の奥で、声が囁く。

 その温度が、凛の心を包み込む。


 悠はその様子を見つめながら、胸の奥に小さなざわつきを覚えた。


 ――この子は、誰かの言葉を“基準”にしている。

 ――それは……人じゃない“何か”だ。


 その直感が、悠の胸に静かに沈んでいった。


「凛ちゃん、昨日はよく眠れた?」


 悠が尋ねると、凛は一瞬だけ目を伏せた。


「……はい。眠れました」


「そっか。よかった」


「……声が、あったから」


 凛は言いかけて、はっとしたように口を閉じた。

 アヒルを抱く腕に、無意識に力が入る。


「声……?」


 悠が静かに聞き返すと、凛は小さく首を振った。


「……なんでもないです」


 その言葉は、明らかに“隠している”響きを持っていた。

 けれど悠は、それ以上追及しなかった。


 凛の肩が、ほんのわずかに震えていたからだ。


「無理に話さなくていいよ」


 悠は優しく言った。

 その声は柔らかく、凛の心にそっと触れるようだった。


 凛は驚いたように悠を見た。

 その目には、警戒と安心が入り混じっていた。


「……佐伯さんは、優しいですね」


「そうかな」


「……はい。でも……」


 凛は言葉を探すように、アヒルの白い頭を撫でた。


「……優しい声って、怖いときもあります」


 その言葉は、凛の心の奥底から零れ落ちたようだった。


 悠は息を呑んだ。


「……怖い?」


「……はい。優しい声って……ときどき、胸がざわつくんです」


 凛は自分でも理由がわからないように、視線を落とした。


「……でも、この子の声は……怖くないです」


 その言葉に、悠の胸が大きく揺れた。


「声……?」


 凛はまた口を閉じた。

アヒルを抱く腕に、強い力がこもる。


 ――言わなくていいよ。

――ぼくがいる。


 声が触れるたび、凛の世界は静かに閉じていく。


 悠はその様子を見つめながら、胸の奥に小さな不安が広がっていくのを感じていた。


 そのとき、食堂の扉が開いた。


「凛ちゃん、今日も落ち着いてるね」


 園長だった。

 柔らかい笑みを浮かべ、凛を見つめている。


 凛はびくりと肩を震わせ、アヒルを抱きしめた。


「……園長先生」


「無理してないかい?」


「……大丈夫です」


 凛の声はかすれていて、どこか震えていた。

 けれど園長は気に留める様子もなく、ただ優しく微笑んだ。


「そうか。ならいいんだよ。凛ちゃんは……特別だからね」


 その言葉に、凛の肩がまた震えた。

 アヒルを抱く腕に、無意識に力が入る。


 悠はその反応を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が芽生え始めていた。


 ――この子は、“特別”という言葉に怯えている。

 ――そして園長は、それを知っている。


 その直感が、悠の胸に静かに沈んでいった。


 午前の活動が終わる頃、悠は凛の姿を探していた。

 子どもたちが中庭で遊ぶ中、凛だけがどこにも見当たらない。


「凛ちゃん、見なかった?」


 悠が近くの職員に尋ねると、職員は曖昧に笑った。


「さあ……どこか静かな場所にいるんじゃないですかね。あの子は、よくひとりになりたがるから」


 その言い方は、どこか“探さなくていい”と言っているように聞こえた。


「ひとりになりたがる……?」


「ええ。昔からですよ。気にしないでください」


 まただ。

 凛の話になると、職員たちは決まって同じ反応をする。


 曖昧な笑み。

 必要最低限の言葉。

 そして、話題をそらすような沈黙。


 ――何かを隠している。


 その確信が、悠の胸に静かに沈んでいった。


 中庭を抜け、廊下を歩いていると、ふと気配を感じた。

 振り返ると、階段の影に凛が立っていた。


「……凛ちゃん?」


 凛はアヒルを抱きしめたまま、静かにこちらを見ていた。

 その目はまっすぐなのに、どこか焦点が合っていない。


「……佐伯さん」


「探してたよ。どこにいたの?」


 凛は少しだけ迷ったように視線を落とした。


「……静かなところに、いました」


「静かなところ?」


「……声が、聞こえるから」


 凛は言いかけて、はっとしたように口を閉じた。

 アヒルを抱く腕に、無意識に力が入る。


「声……?」


 悠が静かに聞き返すと、凛は小さく首を振った。


「……なんでもないです」


 その言葉は、明らかに“隠している”響きを持っていた。

 けれど悠は、それ以上追及しなかった。


 凛の肩が、ほんのわずかに震えていたからだ。


「無理に話さなくていいよ」


 悠は優しく言った。

 その声は柔らかく、凛の心にそっと触れるようだった。


 凛は驚いたように悠を見た。

 その目には、警戒と安心が入り混じっていた。


「……佐伯さんは、優しいですね」


「そうかな」


「……はい。でも……」


 凛は言葉を探すように、アヒルの白い頭を撫でた。


「……優しい声って、怖いときもあります」


 その言葉は、凛の心の奥底から零れ落ちたようだった。


「怖いって……どういう意味?」


 悠が尋ねると、凛は少しだけ視線を逸らした。


「……胸がざわつくんです。優しいのに……どこか、違うって」


 その言葉に、悠の胸がひゅっと縮んだ。


「でも、この子の声は……怖くないです」


 凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。

 その温度が、凛の心を包み込む。


 ――だいじょうぶ。

――ぼくがいる。


 凛の胸の奥で、声が囁く。

 その温度が、凛の不安を静かに溶かしていく。


 悠はその様子を見つめながら、胸の奥に小さな恐怖が芽生え始めていた。


 ――この子は、本当に“声”を聞いている。


 それは幻聴かもしれない。

 心の防衛かもしれない。

 けれど、凛の反応はあまりにも自然で、あまりにも深い。


 まるで、声が本当に“そこにいる”かのように。


「凛ちゃん、そのアヒル……」


 悠が言いかけたとき、凛がふいに顔を上げた。


 その目は、まるで“誰かに呼ばれた”ように揺れていた。


「……行かないと」


「え?」


「呼ばれたから……行かないと」


 凛はアヒルを抱きしめ、階段の方へ歩き出した。

 その足取りは静かで、影のように軽い。


「凛ちゃん、どこに行くの?」


 悠が声をかけると、凛は振り返らずに答えた。


「……静かなところ。声が……待ってるから」


 その言葉に、悠の背筋がぞくりとした。


 ――声が待っている?


 凛の姿が階段の影に消えていく。

 その背中は、どこか“別の世界”へ向かっているように見えた。


 悠はしばらくその場に立ち尽くした。

 胸の奥に沈んだ違和感が、ゆっくりと形を変えて広がっていく。


 そのとき、背後から柔らかい声がした。


「佐伯さん。凛ちゃんのこと……気にしすぎないほうがいいですよ」


 園長だった。

 いつの間にか近くに立っていたらしい。


「……園長先生。凛ちゃんは……」


「大丈夫ですよ。あの子は強い子ですから」


 園長の声は優しい。

 けれど、その優しさの奥に“確信”のようなものが潜んでいた。


「それに……凛ちゃんには、守ってくれる存在がいますからね」


「守ってくれる……存在?」


「ええ。大切なものがあるのは、いいことです」


 園長は柔らかく微笑んだ。

 その笑みは優しいのに、どこか底が見えない。


 悠は胸の奥にひやりとした影を感じた。


 ――園長は、何を知っている?


 凛の“声”。

 アヒルの温度。

 職員たちの沈黙。

 そして、園長の“優しい支配”。


 それらが静かに絡み合い、箱庭園の空気を濃くしていく。


 悠はゆっくりと息を吸い、吐いた。


 この施設には、何かがある。

 そして凛は、その中心にいる。


 その確信が、悠の胸に静かに沈んでいった。

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