第6話
海沿いの道を、白い軽自動車がゆっくりと走っていた。
潮風がフロントガラスを曇らせ、遠くで波が砕ける音がかすかに聞こえる。
佐伯悠はハンドルを握りながら、胸の奥に小さな緊張を抱えていた。
――今日から、ここで働くんだ。
助手席には、書類の入ったバッグと、折り畳んだコート。
後部座席には、引っ越しの荷物が少しだけ積まれている。
悠は深く息を吸い、窓の外に広がる海を見つめた。
「……思ったより、静かな町だな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
この町に来るのは初めてだった。
地図で見たときは小さな港町だと思っていたが、実際に来てみると“静かすぎる”印象があった。
人影が少ない。
店も少ない。
海の音だけが、町全体を包んでいる。
やがて、古い建物が見えてきた。
白い壁に、青い屋根。
外観だけ見れば、どこにでもある児童養護施設のように見える。
――箱庭園。
看板の文字は少し色褪せていた。
けれど、その佇まいにはどこか“閉じた空気”が漂っている。
悠は車を停め、深呼吸をした。
今日からここで働く。
子どもたちと向き合い、支える仕事。
それは、かつて教師として働いていた頃の自分を思い出させる。
――今度こそ、守れるといい。
胸の奥に沈んだ後悔が、静かに疼いた。
悠はその痛みを押し込め、施設の門をくぐった。
玄関の扉を開けると、柔らかい光が差し込んでいた。
古い建物のはずなのに、どこか温かい雰囲気がある。
けれど同時に、言葉にできない違和感が胸の奥に沈んだ。
「ようこそ、箱庭園へ」
穏やかな声がした。
振り返ると、白髪混じりの男性が立っていた。
柔らかい笑みを浮かべ、優しげな目で悠を見つめている。
「園長の三輪です。佐伯さんですね?」
「はい。今日からお世話になります、佐伯悠です」
悠は丁寧に頭を下げた。
三輪園長は優しく頷き、手を差し出した。
「遠いところをありがとう。ここは静かな場所だけど、子どもたちは元気ですよ」
その言葉は柔らかい。
けれど、どこか“観察するような”響きがあった。
「まずは施設を案内しましょう。荷物はあとで大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
三輪園長の後ろを歩きながら、悠は廊下を見渡した。
壁には子どもたちの絵が飾られ、床は丁寧に磨かれている。
一見すると、どこにでもある児童施設のようだ。
けれど、空気がどこか“薄い”。
音が吸い込まれていくような静けさがある。
「ここが食堂です。朝と夕方は子どもたちが集まります」
園長が扉を開けると、広い食堂が現れた。
テーブルが整然と並び、窓からは海が見える。
明るいはずなのに、どこか影が差しているように感じられた。
「子どもたちは……今は外ですか?」
「ええ。中庭で遊んでいますよ。あとで紹介します」
園長の声は柔らかい。
けれど、その柔らかさがどこか“均一すぎる”ように感じられた。
案内は続く。
職員室、図書室、洗濯室。
どれも整っているのに、どこか“生活の気配”が薄い。
悠は胸の奥に小さな違和感を覚えた。
けれど、それが何なのかはまだわからない。
「そして……ここが子どもたちの部屋です」
園長が廊下の奥を指差した。
その先に、ひときわ静かな扉が並んでいる。
そのときだった。
扉のひとつが、かすかに揺れた。
中から、誰かの気配がする。
園長が微笑んだ。
「……凛ちゃん。出ておいで」
扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、白いアヒルを抱いた少女だった。
長い髪が肩にかかり、細い指がアヒルをしっかりと抱きしめている。
目はどこか遠くを見ているようで、けれど悠をじっと見つめていた。
その視線は、静かで、深くて、どこか“沈んでいる”。
「……凛ちゃん。新しい先生だよ」
園長が優しく声をかける。
少女――凛は、ゆっくりと頭を下げた。
「……はじめまして」
その声はかすれていて、どこか震えていた。
けれど、丁寧で、優しい響きがあった。
悠は微笑んだ。
「はじめまして。佐伯悠です。よろしくね」
凛は小さく頷いた。
けれど、その腕の中のアヒルを抱く力が、ほんのわずかに強くなった。
まるで、何かから身を守るように。
悠はその仕草に、言葉にできない違和感を覚えた。
――この子は、何を抱えているんだろう。
その問いが、胸の奥に静かに沈んでいった。
凛はアヒルを抱いたまま、静かに悠を見つめていた。
その視線はまっすぐなのに、どこか焦点が合っていないように見える。
深い海の底からこちらを覗き込むような、静かで、沈んだ目。
悠はその視線に、言葉にできない違和感を覚えた。
けれど同時に、胸の奥に小さな痛みも走った。
――この子は、何かを抱えている。
その直感は、悠の中で確かな形を持ち始めていた。
「凛ちゃんは、この施設で一番のお姉さんなんですよ」
園長が柔らかい声で言う。
その声は優しいのに、どこか“誘導するような”響きを含んでいた。
「みんなの面倒をよく見てくれてね。頼りにしているんです」
凛は小さく首を振った。
「……そんなこと、ないです」
その声はかすれていて、どこか怯えているようにも聞こえた。
けれど園長は気に留める様子もなく、優しく微笑んだ。
「謙遜しなくていいんだよ。凛ちゃんは特別だから」
“特別”。
その言葉に、凛の肩がわずかに震えた。
アヒルを抱く腕に、無意識に力が入る。
悠はその反応を見逃さなかった。
「……特別って、どういう意味ですか?」
思わず口をついて出た言葉だった。
園長は一瞬だけ目を細めたが、すぐに柔らかい笑みを取り戻した。
「いい意味ですよ。凛ちゃんは、ここでとても大切な存在なんです」
その言葉は優しい。
けれど悠には、その優しさがどこか“均一すぎる”ように感じられた。
まるで、決められた台詞を繰り返しているような。
「……そうなんですね」
悠は曖昧に頷いた。
けれど胸の奥には、説明できないざわつきが残っていた。
凛は視線を落とし、アヒルの白い頭を撫でている。
その仕草は、まるで“自分を守るため”のように見えた。
「凛ちゃん、佐伯さんに施設を案内してあげてくれる?」
園長が優しく言う。
凛は少しだけ迷ったように見えたが、やがて小さく頷いた。
「……はい」
「ありがとう。佐伯さん、凛ちゃんは少し人見知りですが、とても優しい子です」
園長はそう言って微笑んだ。
その笑みは柔らかいのに、どこか底が見えない。
悠は胸の奥に小さな不安を覚えながらも、凛の後ろを歩き始めた。
廊下を歩く凛の足取りは静かで、影のように軽い。
アヒルを抱く腕は、まるで命綱を握っているかのように強張っている。
「……ここが、図書室です」
凛が小さな声で言った。
扉を開けると、古い本棚が並び、窓から柔らかい光が差し込んでいた。
「きれいな部屋だね」
「……はい。静かで……落ち着きます」
凛の声はかすれている。
けれど、その言葉にはどこか“逃げ場”を見つけたような響きがあった。
「凛ちゃんは、本が好きなの?」
「……うん。声が……」
凛は言いかけて、はっとしたように口を閉じた。
アヒルを抱く腕に、また力が入る。
「声……?」
悠が聞き返すと、凛は小さく首を振った。
「……なんでもないです」
その言葉は、明らかに“隠している”響きを持っていた。
けれど悠は、それ以上追及しなかった。
初対面の子どもに踏み込みすぎるのは良くない。
ただ、胸の奥に小さな棘のような違和感が残った。
図書室を出ると、廊下の向こうから子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
凛はその声に、ほんのわずかに肩をすくめた。
「……あっ、凛お姉ちゃんだ!」
年下の子どもたちが駆け寄ってくる。
その無邪気な笑顔に、悠は少し安心した。
「凛お姉ちゃん、新しい先生?」
「……うん」
「へぇー! よろしくね、先生!」
子どもたちは明るく笑い、悠に手を振った。
その光景は微笑ましいはずなのに、凛の表情はどこか硬い。
子どもたちが去っていくと、凛は小さく息を吐いた。
「……みんな、元気だね」
悠が言うと、凛は少しだけ微笑んだ。
「……はい。元気です。……まぶしいくらい」
その言葉には、どこか“距離”があった。
まるで、自分はその輪の中に入れないと言っているような。
「凛ちゃんは……あまり一緒に遊ばないの?」
悠が尋ねると、凛は少しだけ視線を落とした。
「……うまく、できないんです。みんなといると……胸が苦しくなるから」
その言葉は、静かで、深くて、どこか痛々しかった。
「……そっか」
悠はそれ以上何も言えなかった。
凛の言葉は、ただの人見知りではない。
もっと深いところにある“何か”が、凛を縛っている。
その“何か”が何なのか、悠にはまだわからない。
けれど、胸の奥に小さな不安が静かに広がっていく。
「……案内、終わりです」
凛が小さく言った。
その声は、どこかほっとしたようにも聞こえた。
「ありがとう、凛ちゃん。助かったよ」
悠が微笑むと、凛はほんの少しだけ頬を緩めた。
けれどその笑顔は、どこか影を落としていた。
アヒルを抱く腕は、最後まで緩むことはなかった。
――この子は、何を抱えているんだろう。
その問いが、悠の胸の奥に静かに沈んでいった。
そして同時に、凛の胸の奥では別の声が囁いていた。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに目を伏せた。
その夜、悠はまだ知らなかった。
この施設に漂う“沈黙”の意味を。
そして、凛の世界にすでに入り込んでいる“声”の存在を。
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