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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第4話

 午後の空気は、どこか湿っていた。

 海から吹き上げる風が、施設の壁に当たって低く唸る。

 凛は廊下の窓辺に立ち、アヒルを抱いたまま外を眺めていた。


 子どもたちの声が遠くで響いている。

 笑い声、走る足音、誰かが転んで泣き出す声。

 そのすべてが、凛には“遠い世界”の音に聞こえた。


 ――ここにいるよ。


 胸の奥で声が囁く。

 凛は小さく頷き、アヒルの白い頭を撫でた。


「……うん。わかってる」


 返事をした瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 その温度が、世界との境界線を曖昧にしていく。


 そのとき、背後から柔らかい声がした。


「凛ちゃん、こんなところにいたんだね」


 振り返ると、園長が立っていた。

 白髪混じりの髪を整え、穏やかな笑みを浮かべている。

 その姿は、どこから見ても“優しい大人”そのものだった。


「……園長先生」


 凛はアヒルを抱きしめたまま、小さく頭を下げた。

 園長はゆっくりと歩み寄り、凛の隣に立つ。


「外、見ていたの?」


「……はい」


「海の音、好きなんだね」


 園長の声は柔らかく、耳に心地よく響く。

 けれど凛は、その声の奥にある“何か”を感じ取っていた。

 言葉にできない、形のない違和感。

 それは、園長を見るたびに胸の奥で小さく揺れる。


「……なんとなく、見てました」


「そうか。凛ちゃんは、静かな時間が好きだもんね」


 園長は優しく微笑む。

 その笑みは柔らかいのに、どこか底が見えない。


 凛は視線を逸らし、アヒルの白い頭を撫でた。

 その温度が、胸の奥のざわつきを静かに溶かしていく。


「アヒルさん、今日も一緒なんだね」


 園長の視線がアヒルに向けられた瞬間、凛の腕が反射的に強張った。

 アヒルを抱く力が、無意識に強くなる。


「……はい」


「大切なんだね」


 園長の声は優しい。

 けれど凛には、その優しさがどこか“試すような”響きを持って聞こえた。


「……はい。大切です」


「そうか。大切なものがあるのは、いいことだよ」


 園長はそう言って微笑んだ。

 その笑みは柔らかいのに、どこか冷たさを含んでいるように見えた。


 ――気にしなくていい。


 声が囁く。

 凛はその声にすがるように、アヒルを抱きしめた。


 園長はしばらく凛を見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「凛ちゃん、最近……少し疲れているように見えるよ」


 その言葉に、凛の胸がひゅっと縮む。


「……そう、ですか?」


「うん。無理してないかなって、ちょっと心配でね」


 園長の声は本当に優しい。

 けれど凛は、その優しさの奥にある“別の何か”を感じていた。

 それが何なのかはわからない。

 ただ、胸の奥がざわつく。


「……大丈夫です」


「そう? でもね、凛ちゃん」


 園長は少しだけ顔を近づけた。

 その距離が、凛には妙に近く感じられた。


「困ったことがあったら、いつでも言っていいんだよ。

 私は、凛ちゃんの味方だから」


 その言葉は、まるで甘い蜜のように耳に染み込んでくる。

 優しくて、安心できて、寄りかかりたくなる声。


 ――気をつけて。


 胸の奥で声が囁いた。

 凛は息を呑む。


「……味方、ですか?」


「もちろんだよ。凛ちゃんは特別なんだ。

 だから、私はいつだって凛ちゃんのことを見ているよ」


 その言葉に、凛の胸がざわついた。

 “見ている”という言葉が、どこか引っかかった。


 けれど園長の笑みは柔らかく、優しい。

 その優しさに触れると、胸の奥のざわつきが薄れていく。


 ――気にしなくていいよ。

 ――ぼくがいる。


 声が触れるたび、凛の世界は静かに閉じていく。


 園長は凛の肩にそっと手を置いた。

 その手は温かいのに、どこか冷たさを含んでいるように感じられた。


「凛ちゃん。君は……とても大切な子なんだよ」


 その言葉は、優しいのに、どこか底知れない響きを持っていた。


 凛はアヒルを抱きしめ、胸の奥のざわつきを押し込めるように目を閉じた。


「……ありがとうございます」


 その声は震えていた。

 園長は気づいたのか気づかなかったのか、ただ優しく頷いた。


「無理しないでね。凛ちゃんは……もうすぐだから」


 “もうすぐ”。

 その言葉が、凛の胸にひやりとした影を落とした。


 園長は微笑んだまま、静かにその場を離れていった。


 凛はしばらく動けなかった。

 胸の奥に沈んだ違和感が、ゆっくりと形を変えて広がっていく。


 ――大丈夫。

 ――ぼくがいるよ。


 声が優しく触れる。

 その温度が、凛の不安をゆっくりと溶かしていく。


 けれどその裏側に潜む影に、凛はまだ気づいていなかった。


 園長が去ったあと、廊下には静けさが戻った。

 けれど凛の胸の奥には、まだざわつきが残っていた。

 園長の言葉は優しいはずなのに、どこか冷たい影を落としていく。


 ――気にしなくていいよ。


 声が囁く。

 その瞬間、胸の奥のざわつきがすっと薄れていく。

 凛はアヒルを抱きしめ、ゆっくりと息を吐いた。


「……大丈夫。大丈夫だよね」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 アヒルは何も言わない。

 ただ、温かい。


 その温度が、凛の心の輪郭をなぞるように広がっていく。

 世界のざわめきが遠のき、声だけが近づいてくる。


 ――ぼくがいる。

 ――ずっと、そばにいる。


 その囁きに、凛は胸の奥がじんわりと満たされるのを感じた。


 けれど、ほんのわずかにひやりとした影も残っていた。

 園長の言葉が、どこか引っかかっている。


 “もうすぐだから”。


 その言葉が、胸の奥に小さな棘のように刺さっていた。


 凛は廊下を歩き出した。

 窓から差し込む光が、アヒルの白さを淡く照らす。

 その白さは、どこか“漂白された何か”のように見えた。


 ――気のせいだよ。


 声が囁く。

 凛は小さく頷いた。


「……うん。気のせい」


 そう呟きながら、凛は階段を降りていく。

 階段の途中で、年下の子どもたちが走り回っているのが見えた。


「凛お姉ちゃん!」


 明るい声。

 凛は微笑もうとしたが、胸の奥が少しだけざわつく。


「……なに?」


「一緒に遊ぼうよ!」


 無邪気な誘い。

 けれど凛は、胸の奥に小さな痛みを覚えた。


「……ごめんね。今日は……ちょっと」


「そっかー。じゃあまたあとでね!」


 子どもたちはすぐに走り去っていく。

 その背中を見送りながら、凛は胸の奥に沈んでいく感覚を覚えた。


 ――気にしなくていい。

 ――ぼくがいる。


 声が触れるたび、凛の世界は少しずつ狭くなっていく。


 凛は自分の部屋に戻った。

 ドアを閉めると、外の音が一気に遠ざかる。

 部屋の静けさが、凛の心を包み込む。


 ベッドに腰を下ろし、アヒルを抱きしめる。

 その温度が、胸の奥の不安をゆっくりと溶かしていく。


「……園長先生、なんであんなこと言ったんだろう」


 呟いた声は、部屋の中に静かに落ちた。


 ――気にしなくていいよ。

 ――ぼくがいる。


 声が優しく触れる。

 その瞬間、凛の胸の奥がふっと軽くなる。


「……うん。そうだよね」


 凛はアヒルの白い頭を撫でた。

 その表面が、ほんのわずかに脈打ったように感じた。


「……え?」


 凛は目を凝らした。

 白い表面は静かで、何の変化もない。

 ただ、温かい。


 ――気のせいだよ。


 声が囁く。

 凛は小さく頷いた。


「……気のせい」


 そう言いながらも、胸の奥に沈んだ違和感は完全には消えなかった。


 そのとき、ドアがノックされた。


「凛ちゃん、入ってもいい?」


 園長の声だった。

 凛の胸がひゅっと縮む。


「……はい」


 ドアが静かに開き、園長が入ってきた。

 柔らかい笑みを浮かべ、凛の前に立つ。


「さっきは驚かせてしまったかな。ごめんね」


「……いえ」


「凛ちゃんが大切だから、つい心配でね」


 その言葉は優しい。

 けれど凛には、その優しさがどこか“重い”ものに感じられた。


「……大丈夫です」


「そうかい。でもね、凛ちゃん」


 園長は凛の目をまっすぐに見つめた。

 その視線は優しいのに、どこか底が見えない。


「君は……選ばれた子なんだよ」


 その言葉に、凛の胸が大きく揺れた。


「……選ばれた?」


「そう。特別な子だということだよ」


 園長は微笑む。

 その笑みは柔らかいのに、どこか冷たさを含んでいる。


 ――気にしなくていい。

 ――ぼくがいる。


 声が触れるたび、凛の不安は薄れていく。

 けれど園長の言葉は、胸の奥に小さな影を落としていた。


「……特別って、どういう……」


「そのうちわかるよ。もうすぐだから」


 また“もうすぐ”。

 その言葉が、凛の胸にひやりとした影を落とす。


 園長は凛の頭を優しく撫でた。

 その手は温かいのに、どこか冷たさを含んでいるように感じられた。


「ゆっくり休むといい。凛ちゃんは……大切な子だから」


 そう言って、園長は静かに部屋を出ていった。


 凛はしばらく動けなかった。

 胸の奥に沈んだ違和感が、ゆっくりと形を変えて広がっていく。


 ――大丈夫。

――ぼくがいるよ。


 声が優しく触れる。

 その温度が、凛の不安をゆっくりと溶かしていく。


 けれどその裏側に潜む影に、凛はまだ気づいていなかった。

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