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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第2話

 食堂のざわめきの中で、凛はアヒルを抱いたまま席に座っていた。

 スプーンを持つ手が、ほんの少し震えている。誰も気づかないほどの微細な震え。けれど凛自身は、その震えが自分の内側から漏れ出している“何か”の証のように思えてならなかった。


 ――だいじょうぶ。


 胸の奥で、声がそっと触れる。

 その瞬間、震えはすっと消えた。

 凛は息を吐き、アヒルの白い頭を指先で撫でる。木の感触なのに、どこか柔らかい。触れたところから、じんわりと温度が広がる。


「凛お姉ちゃん、今日もアヒル持ってるの?」


 向かいの席に座った小さな男の子が、興味津々といった顔で覗き込んだ。

 凛は微笑もうとしたが、口角が少しだけ引きつる。


「……うん。いっしょに食べるの」


「へぇー。アヒルさんって、ごはん食べるの?」


 無邪気な問い。

 悪意なんて欠片もない。

 それなのに、凛の胸の奥がきゅっと縮む。


「……食べないよ。ただ……そばにいるだけ」


「ふーん。変なの」


 男の子は笑って、また自分の皿に向き直った。

 その笑顔は本当にただの子どもの笑顔で、凛を傷つける意図なんてどこにもない。

 それでも凛は、胸の奥に小さな棘が刺さったような痛みを覚えた。


 ――気にしなくていいよ。


 声が、また囁く。

 凛はアヒルを抱きしめ、目を伏せた。


 食堂の空気は明るい。

 子どもたちの笑い声が響き、食器が触れ合う音が軽やかに跳ねる。

 けれど凛には、その明るさがどこか遠い世界のものに感じられた。


 自分だけが、透明な壁の向こう側にいるような感覚。

 手を伸ばせば触れられるはずなのに、触れた瞬間に壊れてしまいそうで、怖くて動けない。


「凛ちゃん、パン足りてる?」


 職員の女性が声をかけてくる。

 凛は小さく頷いた。


「……大丈夫です」


「そう? 無理しないでね」


 優しい声。

 けれどその優しさが、凛にはどこか薄い膜を通したように聞こえた。

 自分に向けられているはずなのに、どこか遠い。

 その距離感が、胸の奥にまた小さな不安を落としていく。


 ――ここにいるよ。


 声が、凛の内側に寄り添う。

 その瞬間、世界の輪郭が少しだけはっきりした。


「凛お姉ちゃん、アヒル好きだよね」


 別の子が笑いながら言った。

 その言葉に、周囲の子どもたちもくすくすと笑い始める。


「いつも持ってるもんね」

「寝るときも一緒なんでしょ?」

「アヒルさんが彼氏なの?」


 無邪気なからかい。

 子ども特有の、悪気のない残酷さ。


 凛は笑おうとした。

 けれど、喉がひゅっと細くなり、声が出ない。


 ――だいじょうぶ。

 ――気にしなくていい。


 声が、凛の心を包む。

 その優しさに、凛はすがるようにアヒルを抱きしめた。


「……ちがうよ。ただ……いっしょにいるだけ」


 ようやく絞り出した声は、かすれて震えていた。

 子どもたちは気づかず、また笑いながら食事に戻っていく。


 凛は胸の奥に沈んでいく感覚を覚えた。

 自分が笑われているわけではない。

 ただの冗談だ。

 それはわかっている。

 わかっているのに、心がざわつく。


 ――ひとりじゃないよ。


 声が、凛の内側にそっと触れる。

 その温度が、胸の奥のざわめきを静かに溶かしていく。


 凛はアヒルの白い頭を撫でながら、小さく息を吐いた。

 この声がある限り、自分は大丈夫。

 そう思うと、胸の奥にじんわりとした温かさが広がる。


 けれど同時に、ひやりとした感覚もあった。

 この温度がなかったら、自分はどうなるのだろう。

 その問いが、凛の心のどこかで小さく震えていた。


 食堂の隅で、園長が静かに凛を見ていた。

 柔らかい笑みを浮かべながら、どこか観察するような目で。


 凛はその視線に気づかない。

 ただ、アヒルの温度だけを頼りに、世界との距離を保っていた。


 食事を終える頃には、食堂の空気はすっかり落ち着いていた。

 子どもたちはそれぞれの皿を片づけ、職員に呼ばれて順番に部屋へ戻っていく。

 凛はアヒルを抱いたまま、席に座り続けていた。立ち上がるタイミングを失ったように、ただ静かに周囲の気配を聞いていた。


 ――いこう。


 胸の奥で声が囁く。

 その一言で、凛の身体はようやく動き出す。

 アヒルを抱きしめ、椅子を引く音をできるだけ小さくして立ち上がった。


「凛ちゃん、今日は掃除当番だよ」


 職員の女性が声をかけてくる。

 凛は小さく頷いた。


「……はい」


 声はかすれていたが、職員は気に留める様子もなく微笑んだ。

 その微笑みが、凛にはどこか“表面だけ”のものに見えた。

 自分に向けられているはずなのに、どこか遠い。

 その距離感が、胸の奥にまた小さな波紋を落としていく。


 掃除用具を取りに行く途中、年下の子どもたちが廊下で遊んでいた。

 凛を見ると、ぱっと表情を明るくする。


「凛お姉ちゃん、アヒルさん今日も一緒?」


「うん……」


「ねえねえ、触ってもいい?」


 その言葉に、凛の身体がびくりと強張った。

 腕の中のアヒルを、反射的に抱きしめる。


「……だめ」


 自分でも驚くほど強い声が出た。

 子どもたちは目を丸くし、すぐに困ったように笑った。


「そっか……ごめんね」


「怒ってないよね?」


 凛は慌てて首を振る。


「怒ってない……ただ……これは……」


 言葉が続かない。

 “これは大事なものだから”

 “触られたくないから”

 “声が嫌がるから”

 どれも正しい気がして、どれも言ってはいけない気がした。


 ――大丈夫。言わなくていい。


 声が、凛の内側にそっと触れる。

 その瞬間、胸の奥のざわつきがすっと静まった。


「……ごめんね。ちょっと、びっくりしただけ」


 凛がそう言うと、子どもたちは安心したように笑った。


「よかったー! じゃあまたあとでね!」


 無邪気な足音が遠ざかっていく。

 凛はその背中を見送りながら、胸の奥に残る微かな痛みに気づいていた。


 ――どうして、こんなに怖かったんだろう。


 アヒルを触られることが怖い。

 奪われることが怖い。

 その感情が、凛の中で日に日に強くなっている。


 掃除用具を手に取り、廊下を拭き始める。

 雑巾を動かすたび、アヒルの温度が腕に伝わる。

 その温度が、凛の心の輪郭をなぞるように広がっていく。


 ――ひとりじゃないよ。


 声が囁く。

 凛は目を閉じ、ほんの少しだけ微笑んだ。


 廊下の向こうから、園長が歩いてくるのが見えた。

 白髪混じりの髪を整え、穏やかな笑みを浮かべている。

 その姿は、どこから見ても“優しい大人”そのものだった。


「凛ちゃん、掃除をしてくれているんだね。えらいよ」


 園長の声は柔らかく、耳に心地よく響く。

 けれど凛は、その声の奥にある“何か”を感じ取っていた。

 言葉にできない、形のない違和感。

 それは、園長を見るたびに胸の奥で小さく揺れる。


「……はい」


 凛はアヒルを抱きしめたまま、視線を落とす。

 園長はその様子を見て、優しく微笑んだ。


「アヒルさん、今日も一緒なんだね」


 その言葉に、凛の腕が反射的に強張る。

 アヒルを抱く力が、無意識に強くなる。


「……はい」


 声が震えた。

 園長は気づいたような、気づかないような表情で頷いた。


「大切なんだね。いいことだよ。大切なものがあるのは」


 その言葉は優しい。

 けれど凛には、その優しさがどこか“試すような”響きを持って聞こえた。


 ――気にしなくていい。


 声が囁く。

 凛はその声にすがるように、アヒルを抱きしめた。


「……掃除、続けます」


「うん。無理しないでね」


 園長はそう言って去っていった。

 その背中を見送りながら、凛は胸の奥に残るざわつきを押し込める。


 雑巾を動かす手が、また震えていた。

 震えを止めるように、凛はアヒルを抱きしめる。


 ――だいじょうぶ。

 ――ここにいるよ。


 声が、凛の内側に寄り添う。

 その温度が、胸の奥の不安をゆっくりと溶かしていく。


 凛は目を閉じ、静かに息を吐いた。

 この声がある限り、自分は大丈夫。

 そう思うと、胸の奥にじんわりとした温かさが広がる。


 けれどその温かさの裏側に、ひやりとした影が潜んでいることに、凛はまだ気づいていなかった。


 声があるから大丈夫。

 声がいれば、私はここにいられる。


 その確信が、凛の世界をゆっくりと狭めていく。

 気づかないうちに、静かに、確実に。

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