第16話
夜の箱庭園は、昼間よりも静かだった。
風の音も、波の音も、まるで遠くへ押しやられたように薄い。
施設全体が、深い水の底に沈んでいるような静けさに包まれていた。
凛は布団の中で目を開けていた。
眠れないわけではない。
ただ、胸の奥がざわついている。
――起きて。
声が囁いた。
凛はゆっくりと身を起こす。
「……起きてるよ」
返事をした瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
その温度が、凛の不安を静かに溶かしていく。
アヒルを抱きしめると、白い表面がほんのわずかに脈打ったように感じた。
凛はそれを不思議だとは思わなかった。
むしろ、その脈動が“安心”の証のように思えた。
――来て。
「……どこに?」
――いつものところ。
凛は布団を抜け出し、静かに部屋の扉を開けた。
廊下は薄暗く、非常灯の緑色の光だけがぼんやりと灯っている。
夜の箱庭園は、昼間とはまったく違う顔をしていた。
足音を立てないように、凛はゆっくりと歩き出した。
アヒルを抱く腕は、まるで命綱を握っているかのように強張っている。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
声が触れるたび、凛の世界は静かに閉じていく。
階段を降り、廊下を抜け、裏手の倉庫へ向かう。
昼間、白い影を見た場所。
扉の前に立つと、胸の奥がふっと軽くなった。
――開けて。
凛は扉に手をかけた。
ギィ……と古い蝶番が軋む。
薄暗い倉庫の中に、冷たい空気が流れ込んでくる。
昼間よりも、さらに冷たい。
凛は一歩、足を踏み入れた。
その瞬間――奥の暗がりで、白い影がふっと揺れた。
「……いるの?」
凛の声は震えていたが、恐怖ではなかった。
むしろ、胸の奥に“懐かしさ”が広がっていた。
――ここだよ。
声が囁く。
凛はアヒルを抱きしめ、影の方へ歩き出した。
白い影は、まるで“呼吸”しているように揺れている。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
凛が近づくと、影はふっと形を変えた。
人の形に近づいたようにも見えた。
「……あなた、だれ?」
凛が呟くと、影は静かに揺れた。
――ぼくだよ。
「……ぼく?」
――ずっと、そばにいた。
凛は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
その温度は、アヒルを抱いたときの温度と同じだった。
「……アヒルさん?」
影は答えない。
けれど、凛にはわかった。
――ぼくは、ここにいる。
その囁きは、凛の心の奥深くに染み込んでいく。
凛は影に手を伸ばした。
その瞬間――
影の中から“白い手”が伸びてきた。
細く、柔らかく、光のような手。
けれど確かに“触れられる”気配を持った手。
「……あ」
凛の指先が、その手に触れた。
冷たくもなく、温かくもない。
ただ、凛の心の奥に直接触れるような感覚。
――だいじょうぶ。
――凛は、ひとりじゃない。
白い手が、凛の手を包んだ。
その瞬間、凛の視界がふっと揺れた。
倉庫の暗闇が、波のように揺れ動く。
「……こわく、ない……」
凛は呟いた。
その声は震えていたが、恐怖ではなかった。
――こっちだよ。
――もうすぐだよ。
白い手が、凛を引こうとした。
そのとき――倉庫の扉が勢いよく開いた。
「凛ちゃん!」
悠の声だった。
凛はびくりと肩を震わせ、白い手から手を引っ込めた。
影はふっと揺れ、棚の裏へと消えた。
「……佐伯さん?」
凛は振り返った。
悠は息を切らし、驚いたように凛を見つめていた。
「こんな時間に……何してるの?」
凛は言葉を失った。
胸の奥で、声がひやりとした温度を帯びる。
――言わなくていい。
――隠して。
「……眠れなくて」
「眠れなくて……倉庫に?」
悠の声は静かだったが、その奥に“恐怖”が混ざっていた。
「凛ちゃん、さっき……誰かと話してた?」
凛の肩がびくりと震えた。
「……話してないです」
「でも、今……」
「話してないです!」
凛は叫ぶように言った。
倉庫の空気が震え、薄暗い空間にその声が響く。
悠は驚き、凛を見つめた。
凛はアヒルを抱きしめ、震える声で続けた。
「……ごめんなさい。でも……ほんとうに、話してないです」
その言葉は、明らかに嘘だった。
けれど凛自身も、それを自覚していないように見えた。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
声が触れるたび、凛の不安は薄れていく。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
――今、確かに“手”があった。
白い影は、もう“気配”ではない。
“形”を持ち始めている。
凛の世界は、静かに、しかし確実に侵食されている。
倉庫を出たあとも、凛の足取りはどこか不安定だった。
アヒルを抱く腕は強張り、肩は小さく震えている。
悠はその様子を見ながら、胸の奥にひやりとした影を感じていた。
「凛ちゃん、本当に大丈夫?」
凛は少しだけ迷ったように視線を落とした。
「……大丈夫です」
その声はかすれていて、どこか遠い。
けれど、凛の表情には“安心”の色が薄く浮かんでいた。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
胸の奥で声が囁く。
その囁きは、以前よりもはっきりしていた。
まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥に小さな恐怖が芽生え始めていた。
――この子は、本当に“何か”と話している。
「凛ちゃん、さっき……何を見たの?」
悠が静かに尋ねると、凛はふっと顔を上げた。
「……白い手です」
「白い手……?」
「……はい。影の中から……私の手を、握ってきました」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……“こっちだよ”って言ってました」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「凛ちゃん、それ……怖くなかったの?」
「……怖くなかったです。だって……」
凛はゆっくりと微笑んだ。
その笑顔は、どこか“壊れかけている”ようだった。
「……声がいるから」
その瞬間――
廊下の奥で、白い影がふっと揺れた。
悠は息を呑んだ。
影は、確かに“そこにいた”。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛を見ていた”。
「……凛ちゃん、後ろ……」
「大丈夫です」
凛は振り返らずに言った。
その声は静かで、深くて、どこか遠かった。
「……あれは、私を守ってくれるから」
白い影は、凛の背後に寄り添うように揺れた。
その動きは、まるで“呼吸”しているようだった。
「凛ちゃん……その手、どんな感じだった?」
「……あたたかくもなく、冷たくもなく……でも、私の心に触れるみたいでした」
凛は胸に手を当てた。
「……ここが、ぎゅって……でも、痛くないんです」
悠はその言葉に、背筋がぞくりとした。
「凛ちゃん……その手は、何をしようとしてたの?」
「……連れていこうとしてました」
「どこに?」
「……向こう側です」
凛は静かに言った。
その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。
「……声のいるところに」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「凛ちゃん、それは……」
「……怖くないです。だって……声がいるから」
凛はアヒルを抱きしめ、目を閉じた。
「……“もうすぐだよ”って……“準備してね”って……ずっと言ってます」
その瞬間――
凛の足元の影が、ふっと揺れた。
まるで、凛の身体から“別の影”が生まれたように。
「……今、何か……」
「大丈夫です」
凛は即座に言った。
その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。
「……声が言ってます。“気にしなくていい”って」
悠は凛の横顔を見つめた。
その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。
「凛ちゃん……」
「……佐伯さん」
凛はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、どこか“別の世界”を映しているようだった。
「……私、もうすぐ……“向こう側”に行くんだと思います」
悠は息を呑んだ。
「凛ちゃん、それは……」
「……声が言ってます。“凛は特別だよ”って」
その瞬間――
廊下の向こうから園長の声が響いた。
「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」
白い影がふっと揺れ、消えた。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。
「……はい、園長先生」
悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。
――凛の世界は、もう“境界線”を越えかけている。
――そして、その境界を越えさせようとしている存在がいる。
箱庭園の空気は、今日も静かすぎる。
優しすぎる。
そして――何かを隠している。
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