第15話
その日の夕方、箱庭園には薄い風が吹いていた。
空は曇り、光は弱く、影は長く伸びている。
子どもたちの声は聞こえるのに、その響きがどこか遠い。
まるで、施設全体が“別の層”に沈み始めているようだった。
凛は中庭の端に立ち、アヒルを抱いたまま空を見上げていた。
その姿は、まるで“境界線”の上に立っているように見えた。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
胸の奥で声が囁く。
その囁きは、以前よりもはっきりしていた。
まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。
「……うん。聞こえてるよ」
凛は小さく呟いた。
その声は、誰に向けたものでもない。
けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。
そのとき、背後から悠の声がした。
「凛ちゃん、ここにいたんだね」
凛はゆっくりと振り返った。
その動きは、どこか“遅れている”ように見えた。
「……佐伯さん」
「今日は、ずっと外にいるね」
「……はい。
ここ、音が聞こえるから」
「音?」
「……はい。“向こう側”の音が」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「向こう側って……どこ?」
「……わからないです。でも……」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……声が言ってます。“もうすぐだよ”って」
その瞬間――
中庭の向こうで、白い影がふっと揺れた。
悠は息を呑んだ。
影は、確かに“そこにいた”。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛を見ていた”。
「……凛ちゃん、あれ……」
「大丈夫です」
凛は振り返らずに言った。
その声は静かで、深くて、どこか遠かった。
「……あれは、私を守ってくれるから」
白い影は、凛の背後に寄り添うように揺れた。
その動きは、まるで“呼吸”しているようだった。
「凛ちゃん、その音って……どんな音?」
「……ひびく音です。水の底みたいな……遠くで誰かが呼んでるみたいな……」
凛は目を閉じ、耳を澄ませた。
「……“こっちだよ”って。“もうすぐだよ”って」
悠の背筋がぞくりとした。
「凛ちゃん、それ……怖くないの?」
「……怖くないです。だって……」
凛はゆっくりと目を開けた。
その瞳は、どこか“現実”から離れているようだった。
「……声がいるから」
その瞬間――
凛の足元の影が、ふっと揺れた。
まるで、凛の身体から“別の影”が生まれたように。
「……今、何か……」
「大丈夫です」
凛は即座に言った。
その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。
「……声が言ってます。“気にしなくていい”って」
悠は凛の横顔を見つめた。
その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。
「凛ちゃん……最近、何か変わったことは?」
「……あります」
「どんな?」
「……境界が、薄くなってきました」
凛は空を見上げた。
その瞳は、どこか“別の層”を見ているようだった。
「……前は、声だけだったのに……今は、影も……音も……全部、近いんです」
「近い……?」
「……はい。まるで、向こう側が……こっちに滲んできてるみたいに」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「凛ちゃん、それ……」
「……怖くないです。だって……声がいるから」
その瞬間――
中庭の向こうで、園長がこちらを見ていた。
柔らかい笑み。
優しい目。
けれど、その奥に“観察者の冷たさ”が潜んでいる。
「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろ中に入りましょうか」
凛はびくりと肩を震わせ、アヒルを抱きしめた。
「……園長先生」
「大丈夫かい?顔色が少し悪いようだけど」
「……大丈夫です」
凛の声はかすれていた。
けれど園長は気に留める様子もなく、ただ優しく微笑んだ。
「そうか。ならいいんだよ。凛ちゃんは……特別だからね」
その言葉に、凛の肩がまた震えた。
アヒルを抱く腕に、無意識に力が入る。
――聞かなくていい。
――ぼくがいる。
声が強く囁く。
凛は目を閉じ、震える息を吐いた。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が芽生えた。
――凛の世界は、もう“境界線”の上にある。
――そして、その境界は揺れ続けている。
箱庭園の空気は、今日も静かすぎる。
優しすぎる。
そして――何かを隠している。
夕方の活動が終わる頃、箱庭園の空気はさらに重く沈んでいた。
子どもたちの笑い声は聞こえるのに、その明るさがどこか濁っている。
まるで、施設全体がゆっくりと“向こう側”に引き寄せられているようだった。
凛は廊下の窓際に立ち、アヒルを抱いたまま外を見つめていた。
その姿は、まるで“境界線”の上に立っているように見えた。
「……聞こえますか」
凛がぽつりと呟いた。
その声は、誰に向けたものでもない。
けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。
――聞こえるよ。
――凛は、よくできてる。
胸の奥で声が囁く。
その囁きは、以前よりもはっきりしていた。
まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。
「……うん。わかってる」
凛は小さく頷いた。
その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。
そのとき、背後から悠の声がした。
「凛ちゃん、ここにいたんだね」
凛はゆっくりと振り返った。
その動きは、どこか“遅れている”ように見えた。
「……佐伯さん」
「さっきからずっと外を見てるけど……何かあった?」
「……音が、聞こえるんです」
「音?」
「……はい。“向こう側”の音が」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「どんな音なの?」
「……水の底みたいな……遠くで誰かが呼んでるみたいな……そんな音です」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……“こっちだよ”って。“もうすぐだよ”って」
その瞬間――
廊下の奥で、白い影がふっと揺れた。
悠は息を呑んだ。
影は、確かに“そこにいた”。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛を見ていた”。
「……凛ちゃん、あれ……」
「大丈夫です」
凛は振り返らずに言った。
その声は静かで、深くて、どこか遠かった。
「……あれは、私を守ってくれるから」
白い影は、凛の背後に寄り添うように揺れた。
その動きは、まるで“呼吸”しているようだった。
「凛ちゃん……最近、何か変わったことは?」
「……あります」
「どんな?」
「……境界が、薄くなってきました」
凛は窓の外を見つめた。
その瞳は、どこか“別の層”を見ているようだった。
「……前は、声だけだったのに……今は、影も……音も……全部、近いんです」
「近い……?」
「……はい。まるで、向こう側が……こっちに滲んできてるみたいに」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「凛ちゃん、それ……」
「……怖くないです。だって……声がいるから」
その瞬間――
凛の足元の影が、ふっと揺れた。
まるで、凛の身体から“別の影”が生まれたように。
「……今、何か……」
「大丈夫です」
凛は即座に言った。
その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。
「……声が言ってます。“気にしなくていい”って」
悠は凛の横顔を見つめた。
その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。
「凛ちゃん……」
「……佐伯さん」
凛はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、どこか“別の世界”を映しているようだった。
「……私、もうすぐ……“向こう側”に行くのかもしれません」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「向こう側って……どこ?」
「……声のいるところです」
その瞬間――
白い影が、凛の背後でふっと揺れた。
まるで、“連れていくよ”と囁くように。
悠はその光景を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
――このままでは、凛は戻れなくなる。
そのとき、廊下の向こうから園長の声が響いた。
「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」
白い影がふっと揺れ、消えた。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。
「……はい、園長先生」
悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。
――凛の世界は、もう“境界線”の上にある。
――そして、その境界は揺れ続けている。
箱庭園の空気は、今日も静かすぎる。
優しすぎる。
そして――何かを隠している。
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