第14話
その日の箱庭園は、朝からどこかざわついていた。
子どもたちの声はいつも通り明るいのに、その明るさがどこか“薄い膜”を通して響いている。
空気が重く、湿っている。
まるで、施設全体が深い霧の中に沈んでいるようだった。
凛は中庭の隅に座り、アヒルを抱いたまま空を見上げていた。
雲は薄く、光は柔らかい。
けれど凛の目は、その光を“現実”として捉えていないように見えた。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
胸の奥で声が囁く。
その囁きは、以前よりもはっきりしていた。
まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。
「……うん。わかってる」
凛は小さく呟いた。
その声は、誰に向けたものでもない。
けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。
そのとき、背後から悠の声がした。
「凛ちゃん、ここにいたんだね」
凛はゆっくりと振り返った。
その動きは、どこか“遅れている”ように見えた。
「……佐伯さん」
「今日は、なんだか元気なさそうに見えるよ」
「……そうですか?」
凛は首を傾げた。
その表情は、どこか“自分の状態を自分で把握できていない”ようだった。
「うん。なんというか……ぼんやりしてる感じ」
「……ぼんやり?」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……声が、近いから」
「声が……近い?」
「……はい。最近、ずっと……そばにいるんです」
凛の声は震えていたが、恐怖ではなかった。
むしろ、胸の奥に“安堵”のようなものが広がっている。
「凛ちゃん、その声……何を言ってるの?」
「……“だいじょうぶ”って。“ひとりじゃない”って。“もうすぐだよ”って」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「もうすぐ……って、何が?」
「……わからないです。でも……」
凛は空を見上げた。
その瞳は、どこか“別の世界”を映しているようだった。
「……怖くないんです。だって……声がいるから」
その瞬間――
凛の背後で、白い影がふっと揺れた。
悠は息を呑んだ。
影は、確かに“そこにいた”。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛の背後に寄り添っていた”。
「……凛ちゃん、後ろ……」
「大丈夫です」
凛は振り返らずに言った。
その声は静かで、深くて、どこか遠かった。
「……あれは、私を守ってくれるから」
白い影は、凛の肩に触れるように揺れた。
その動きは、まるで“呼吸”しているようだった。
悠はその光景を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
――これは、ただの想像じゃない。
――凛の世界に“何か”が入り込んでいる。
「凛ちゃん、最近……食欲はある?」
「……あまり」
「眠れてる?」
「……声がいるから、眠れます」
その言葉は、依存そのものだった。
「でも……ときどき、夢に出てきます」
「夢に?」
「……はい。白い影が……私の手を引いて」
凛はアヒルを抱きしめ、静かに目を閉じた。
「……“こっちだよ”って。“もうすぐだよ”って」
悠の背筋がぞくりとした。
「凛ちゃん、それ……怖くないの?」
「……怖くないです。だって……」
凛はゆっくりと目を開けた。
その瞳は、どこか“現実”から離れているようだった。
「……声がいるから」
その瞬間――
中庭の向こうで、園長がこちらを見ていた。
柔らかい笑み。
優しい目。
けれど、その奥に“観察者の冷たさ”が潜んでいる。
園長はゆっくりと歩いてきた。
「凛ちゃん、佐伯さん。ここにいたんですね」
凛はびくりと肩を震わせ、アヒルを抱きしめた。
「……園長先生」
「大丈夫かい? 顔色が少し悪いようだけど」
「……大丈夫です」
凛の声はかすれていた。
けれど園長は気に留める様子もなく、ただ優しく微笑んだ。
「そうか。ならいいんだよ。凛ちゃんは……特別だからね」
その言葉に、凛の肩がまた震えた。
アヒルを抱く腕に、無意識に力が入る。
――聞かなくていい。
――ぼくがいる。
声が強く囁く。
凛は目を閉じ、震える息を吐いた。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が芽生えた。
――凛の内側で、“声”が侵食を始めている。
――そして園長は、それを止めようとしていない。
むしろ、
“その進行を見守っている”ようにさえ見えた。
箱庭園の空気は、今日も静かすぎる。
優しすぎる。
そして――何かを隠している。
午後の活動が終わる頃、箱庭園の空気はさらに重くなっていた。
子どもたちの笑い声は聞こえるのに、その明るさがどこか濁っている。
まるで、施設全体がゆっくりと沈んでいくような感覚。
凛は廊下の端に立ち、アヒルを抱いたままじっとしていた。
その姿は、まるで“影”のようだった。
動かず、呼吸の気配さえ薄い。
悠はその様子を見つけ、胸の奥にひやりとした影を感じた。
「凛ちゃん……?」
声をかけると、凛はゆっくりと振り返った。
その動きは、どこか“遅れている”ように見えた。
「……佐伯さん」
凛の声はかすれていて、どこか乾いていた。
目の奥には薄いひびが走っているように見える。
「どうしたの? こんなところで」
「……呼ばれたんです」
「呼ばれた?」
「……はい。“こっちだよ”って」
凛は廊下の奥を指差した。
そこには何もない。
けれど凛の目は、確かに“誰か”を見ていた。
「凛ちゃん……誰が呼んだの?」
「……ぼくが、です」
その言葉に、悠の心臓が大きく跳ねた。
「ぼくって……声のこと?」
「……はい。声が……近いんです。前よりずっと……はっきり」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……“もうすぐだよ”って。“準備してね”って」
その瞬間――
廊下の奥で、白い影がふっと揺れた。
悠は息を呑んだ。
影は、確かに“そこにいた”。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛を見ていた”。
「……凛ちゃん、後ろ……」
「大丈夫です」
凛は振り返らずに言った。
その声は静かで、深くて、どこか遠かった。
「……あれは、私を守ってくれるから」
白い影は、凛の肩に触れるように揺れた。
その動きは、まるで“呼吸”しているようだった。
悠はその光景を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
――これは、ただの想像じゃない。
――凛の世界に“何か”が入り込んでいる。
「凛ちゃん、最近……食べられてる?」
「……あまり」
「眠れてる?」
「……声がいるから、眠れます」
その言葉は、依存そのものだった。
「でも……ときどき、夢に出てきます」
「夢に?」
「……はい。白い影が……私の手を引いて」
凛はアヒルを抱きしめ、静かに目を閉じた。
「……“こっちだよ”って。“もうすぐだよ”って」
悠の背筋がぞくりとした。
「凛ちゃん、それ……怖くないの?」
「……怖くないです。だって……」
凛はゆっくりと目を開けた。
その瞳は、どこか“現実”から離れているようだった。
「……声がいるから」
その瞬間――
廊下の向こうで、園長がこちらを見ていた。
柔らかい笑み。
優しい目。
けれど、その奥に“観察者の冷たさ”が潜んでいる。
「凛ちゃん、佐伯さん。ここにいたんですね」
凛はびくりと肩を震わせ、アヒルを抱きしめた。
「……園長先生」
「大丈夫かい? 顔色が少し悪いようだけど」
「……大丈夫です」
凛の声はかすれていた。
けれど園長は気に留める様子もなく、ただ優しく微笑んだ。
「そうか。ならいいんだよ。凛ちゃんは……特別だからね」
その言葉に、凛の肩がまた震えた。
アヒルを抱く腕に、無意識に力が入る。
――聞かなくていい。
――ぼくがいる。
声が強く囁く。
凛は目を閉じ、震える息を吐いた。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が芽生えた。
――凛の内側で、“声”が侵食を始めている。
――そして園長は、それを止めようとしていない。
むしろ、“その進行を見守っている”ようにさえ見えた。
凛はふいに顔を上げた。
その瞳は、どこか“別の世界”を映しているようだった。
「……佐伯さん」
「うん?」
「……私、もうすぐ……」
凛は言葉を探すように、アヒルの白い頭を撫でた。
「……“向こう側”に行くのかもしれません」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「向こう側って……どこ?」
凛はゆっくりと微笑んだ。
その笑顔は、どこか“壊れかけている”ようだった。
「……声のいるところです」
その瞬間――
白い影が、凛の背後でふっと揺れた。
まるで、“連れていくよ”と囁くように。
悠はその光景を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。
――このままでは、凛は戻れなくなる。
箱庭園の空気は、今日も静かすぎる。
優しすぎる。
そして――何かを隠している。
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