第13話
翌朝の箱庭園は、どこか“重たかった”。
空気そのものが湿っているような、胸の奥に沈むような重さ。
子どもたちの声は聞こえるのに、その明るさが薄く濁っている。
凛は食堂の窓際に座り、アヒルを抱いたまま外を見つめていた。
視線は遠く、焦点が合っていない。
まるで、窓の外ではなく“もっと遠い場所”を見ているようだった。
「凛ちゃん、おはよう」
悠が声をかけると、凛はゆっくりと顔を上げた。
「……おはようございます」
その声はかすれていて、どこか乾いていた。
眠れていないのか、目の下には薄い影が落ちている。
「昨日の夜……また眠れなかった?」
凛は少しだけ迷ったように視線を落とした。
「……眠れました。声が……そばにいたから」
その言葉に、悠の胸がひゅっと縮んだ。
「声って……」
「……大丈夫です。怖くないから」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
その仕草は、まるで“命綱”を握っているようだった。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
凛の胸の奥で、声が囁く。
その温度が、凛の不安を静かに溶かしていく。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
――この子は、声に寄りかかりすぎている。
そのとき、凛がふいに窓の外を指差した。
「……見えますか?」
「え?」
「ほら……あそこ。白いのが……歩いてる」
悠は窓の外を見た。
中庭には子どもたちが遊んでいるだけで、白いものなどどこにもない。
「……どこ?」
「……そこです。ほら……木の影のところ」
凛の指先は震えていた。
その震えは恐怖ではなく、“確信”のようだった。
「……白い影が、歩いてるんです。昨日の夜と同じ……」
悠は息を呑んだ。
「凛ちゃん……それ、本当に見えてるの?」
「……はい。だって……声が言ってますから」
凛はアヒルを抱きしめ、静かに微笑んだ。
「“あれはぼくだよ”って」
その瞬間、悠の背筋に冷たいものが走った。
――声は、影とつながっている。
凛は窓の外を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……最近、よく見えるんです。前は気配だけだったのに……今は、はっきり」
「はっきり……?」
「……はい。形も、動きも……まるで、生きてるみたいに」
凛の声は震えていたが、恐怖ではなかった。
むしろ、胸の奥に“安堵”のようなものが広がっている。
「……怖くないの?」
悠が静かに尋ねると、凛は首を振った。
「……怖くないです。だって……」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……声がいるから」
その言葉は、依存そのものだった。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
――凛は、ひとりじゃない。
声が触れるたび、凛の世界は静かに閉じていく。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が芽生え始めていた。
――このままでは、凛は“戻れなくなる”。
そのとき、食堂の扉が開いた。
「凛ちゃん、佐伯さん。朝の活動の時間ですよ」
園長だった。
柔らかい笑みを浮かべ、二人を見つめている。
凛はびくりと肩を震わせ、アヒルを抱きしめた。
「……園長先生」
「大丈夫かい?顔色が少し悪いようだけど」
「……大丈夫です」
凛の声はかすれていた。
けれど園長は気に留める様子もなく、ただ優しく微笑んだ。
「そうか。ならいいんだよ。凛ちゃんは……特別だからね」
その言葉に、凛の肩がまた震えた。
アヒルを抱く腕に、無意識に力が入る。
――聞かなくていい。
――ぼくがいる。
声が強く囁く。
凛は目を閉じ、震える息を吐いた。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
――園長は、凛の“ひび”に気づいている。
――そして、それを止めようとしていない。
むしろ、
“ひびが入ることを望んでいる”ようにさえ見えた。
その確信が、悠の胸に静かに沈んでいった。
午後の活動が始まっても、凛の様子はどこか不安定だった。
子どもたちが絵を描いたり、積み木を積んだりする中で、凛だけが“別の空気”をまとっている。
悠は少し離れた場所から凛を見守っていた。
凛は机に向かって座っているが、手は動かない。
アヒルを抱いたまま、じっと一点を見つめている。
その視線の先には、何もない。
けれど凛の目は、まるで“誰か”を見ているようだった。
「……凛ちゃん?」
悠がそっと声をかけると、凛はゆっくりと顔を上げた。
「……佐伯さん」
その声はかすれていて、どこか乾いていた。
目の奥に、薄いひびのようなものが見える。
「大丈夫? さっきからずっと……」
「……見えてるんです」
「見えてる?」
「……はい。さっきから……ずっと、そこに」
凛は部屋の隅を指差した。
悠はそちらを見たが、何もない。
「……誰か、いるの?」
「……います。白い影が……ずっと、私を見てる」
凛の声は震えていたが、恐怖ではなかった。
むしろ、胸の奥に“安心”のようなものが広がっている。
「……怖くないの?」
「……怖くないです。だって……声がいるから」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
声が触れるたび、凛の世界は静かに閉じていく。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
――この子は、現実と“声の世界”の境界が崩れ始めている。
「凛ちゃん、ちょっと外の空気吸いに行こうか」
悠が優しく言うと、凛は少しだけ迷った。
「……外?」
「うん。ここ、少し空気が重いから」
凛はアヒルを抱きしめ、ゆっくりと立ち上がった。
その動きは、まるで“影を引きずっている”ように重かった。
二人が部屋を出ようとしたとき――
凛がふいに立ち止まった。
「……あ」
「どうしたの?」
「……呼ばれました」
凛は振り返り、部屋の隅を見つめた。
その目は、まるで“誰かの声”を聞いているようだった。
「呼ばれたって……誰に?」
「……ぼくに、です」
凛の声は静かで、深くて、どこか遠かった。
「“もうすぐだよ”って……“準備してね”って……」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「凛ちゃん、それ……どういう意味?」
「……わからないです。でも……」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……怖くないんです。だって……声がいるから」
その瞬間――
部屋の隅で、白い影がふっと揺れた。
悠は息を呑んだ。
影は、確かに“そこにいた”。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛を見ていた”。
「……凛ちゃん、行こう」
悠は震える声で言った。
凛はゆっくりと頷き、部屋を出た。
廊下に出ると、空気が少し軽くなった。
けれど凛の表情は変わらない。
「……佐伯さん」
「うん?」
「……私、変ですか」
その問いは、凛の心の奥底から零れ落ちたようだった。
「変じゃないよ」
悠は即座に答えた。
けれど凛は首を振った。
「……でも、みんな……私のこと、見ないようにしてます」
「そんなこと……」
「あります。だって……」
凛はアヒルを抱きしめ、静かに呟いた。
「……みんな、知ってるから」
「知ってる?」
「……私が、“特別”だって」
その言葉に、悠の胸がひゅっと縮んだ。
「凛ちゃん……その“特別”って、どういう意味?」
「……わからないです。でも……園長先生が言いました」
凛は目を伏せた。
「“凛ちゃんは特別だからね”って。“だから、守られているんだよ”って」
その言葉は、優しいのに、どこか“呪い”のようだった。
「……守られてるって、誰に?」
凛はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、どこか“別の世界”を映しているようだった。
「……声に、です」
その瞬間――
廊下の奥で、白い影がふっと揺れた。
悠は息を呑んだ。
影は、凛の背後に寄り添うように立っていた。
まるで、凛を守るように。
まるで、“ここにいるよ”と囁くように。
凛はその気配に気づいたのか、静かに微笑んだ。
「……ほら。ずっと、そばにいます」
悠はその笑顔を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が芽生えた。
――凛の世界は、もう“ひび割れ”始めている。
――そして、そのひびは広がり続けている。
箱庭園の空気は、今日も静かすぎる。
優しすぎる。
そして――何かを隠している。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




