第12話
翌朝、箱庭園には薄い霧がかかっていた。
海から吹く湿った風が、施設の壁を撫でるように流れていく。
子どもたちの声は聞こえるのに、その輪郭がどこか曖昧だった。
凛は食堂の隅で、アヒルを抱いたまま座っていた。
眠ったはずなのに、身体が重い。
頭の奥がじんわりと熱を帯びている。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
声が触れるたび、凛の意識はゆっくりと沈んでいく。
まるで、深い水の底に引き込まれるように。
「凛ちゃん、おはよう」
悠の声がした。
凛はゆっくりと顔を上げた。
「……おはようございます」
その声はかすれていて、どこか遠い。
けれど、悠の姿を見た瞬間、胸の奥がふっと揺れた。
――気にしなくていい。
――ぼくがいる。
声が囁く。
凛はアヒルを抱きしめ、視線を落とした。
「昨日の夜……大丈夫だった?」
悠が静かに尋ねると、凛は小さく頷いた。
「……はい。大丈夫です」
「眠れた?」
「……少しだけ」
凛の返事は曖昧だった。
けれど悠は、それ以上追及しなかった。
凛の肩が、ほんのわずかに震えていたからだ。
「無理しないでね。何かあったら、いつでも言っていいから」
悠の声は柔らかい。
けれど凛は、その優しさに胸がざわついた。
――聞かなくていい。
――ぼくがいる。
声が触れるたび、凛の世界は静かに閉じていく。
「……佐伯さん」
「うん?」
「……どうして、そんなに優しいんですか」
凛の声は震えていた。
その震えは、恐怖ではなく“戸惑い”に近かった。
「どうしてって……凛ちゃんが困ってるように見えたから」
「……困ってないです」
凛はすぐに否定した。
けれど、その声は弱かった。
「ほんとうに?」
「……はい。だって……」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……この子がいるから」
その言葉に、悠の胸がひゅっと縮んだ。
「アヒルさんが……?」
「……はい。声が……」
凛は言いかけて、はっとしたように口を閉じた。
胸の奥で、声がひやりとした温度を帯びる。
――言わなくていい。
――ぼくがいる。
凛は小さく首を振った。
「……なんでもないです」
悠は凛の表情を見つめた。
その目は、まるで“別の世界”を見ているようだった。
「凛ちゃん……最近、何か変わったことはない?」
凛は少しだけ考えるように視線を落とした。
「……変わったこと?」
「うん。たとえば……見えるものとか、聞こえるものとか」
その問いに、凛の肩がびくりと震えた。
「……どうして、そんなこと聞くんですか」
「昨日の夜……倉庫で、何か見てたよね」
凛は息を呑んだ。
胸の奥で、声が強く囁く。
――言わなくていい。
――ぼくがいる。
「……見てないです」
「でも――」
「見てないです!」
凛は思わず声を荒げた。
食堂の空気が震え、子どもたちが一瞬だけ動きを止めた。
悠は驚き、凛を見つめた。
凛はアヒルを抱きしめ、震える声で続けた。
「……ごめんなさい。でも……ほんとうに、見てないです」
その言葉は、明らかに嘘だった。
けれど凛自身も、それを自覚していないように見えた。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
声が触れるたび、凛の不安は薄れていく。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
――この子は、現実と“声の世界”の境界が揺れている。
そのとき、食堂の扉が開いた。
「凛ちゃん、今日も落ち着いてるね」
園長だった。
柔らかい笑みを浮かべ、凛を見つめている。
凛はびくりと肩を震わせ、アヒルを抱きしめた。
「……園長先生」
「無理してないかい?」
「……大丈夫です」
凛の声はかすれていた。
けれど園長は気に留める様子もなく、ただ優しく微笑んだ。
「そうか。ならいいんだよ。凛ちゃんは……特別だからね」
その言葉に、凛の肩がまた震えた。
アヒルを抱く腕に、無意識に力が入る。
――聞かなくていい。
――ぼくがいる。
声が強く囁く。
凛は目を閉じ、震える息を吐いた。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が芽生え始めていた。
――凛の世界は、静かに閉じていっている。
そしてその扉を閉じているのは――
声と、白い影と、園長の“優しい言葉”。
その確信が、悠の胸に静かに沈んでいった。
昼下がりの箱庭園は、いつもより静かだった。
子どもたちの声は聞こえるのに、その響きがどこか遠い。
まるで、施設全体が薄い膜に包まれているような感覚。
悠は中庭のベンチに座り、凛の姿を探していた。
凛は朝からどこか落ち着かず、視線が定まらない。
声をかけても、返事が遅れることが増えていた。
――まるで、別の世界に片足を突っ込んでいるみたいだ。
そんな不安が、悠の胸に静かに沈んでいた。
そのとき、木陰の方で白いものが揺れた。
「……え?」
悠は目を凝らした。
風に揺れる布かと思ったが、違う。
形があるようで、ない。
光のようで、影のようで――
人の輪郭に近い“何か”。
瞬きをした瞬間、それはふっと消えた。
「……気のせい、じゃないよね」
胸の奥にひやりとした影が広がる。
凛が見た“白い影”。
あれは幻覚でも、子どもの想像でもない。
――確かに、そこにいた。
悠は立ち上がり、木陰へ向かった。
けれど、そこには何もない。
ただ、冷たい空気だけが残っていた。
「佐伯さん」
背後から声がした。
振り返ると、凛が立っていた。
アヒルを抱きしめ、静かに、影のように。
「……どうしたの?」
「佐伯さん、いま……誰かと話してましたか」
「え?」
「……声が、聞こえた気がして」
凛の目は、どこか焦点が合っていない。
その視線は、悠ではなく“悠の後ろ”を見ているようだった。
「誰かって……誰のこと?」
「……わからないです。
でも……白いものが、そこに」
凛が指差した場所は、さっき白い影が揺れた場所だった。
悠は息を呑んだ。
「凛ちゃん……それ、いつから見えるの?」
「……最近です。でも……前から、気配はありました」
「気配……?」
「はい。声が、教えてくれたから」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
その仕草は、まるで“祈り”のようだった。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
凛の胸の奥で、声が囁く。
その温度が、凛の不安を静かに溶かしていく。
「凛ちゃん……その声って、どんな声なの?」
悠が静かに尋ねると、凛は少しだけ迷った。
「……優しい声です。あたたかくて……私のこと、全部わかってくれる声」
「全部……?」
「はい。私が何を考えてるか、何を怖がってるか……全部、知ってるんです」
その言葉に、悠の背筋がぞくりとした。
「でも……」
凛は視線を落とした。
「……ときどき、怖いです」
「怖い?」
「……はい。優しいのに……どこか、違うって」
凛の声は震えていた。
その震えは、恐怖と依存が混ざり合ったものだった。
「凛ちゃん、その声は……何を言うの?」
「……“だいじょうぶ”って。“ぼくがいる”って。“ひとりじゃない”って」
凛はアヒルを抱きしめ、目を閉じた。
「……でも、最近は……」
「最近は?」
「……“もうすぐだよ”って」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「もうすぐ……って、何が?」
「……わからないです。でも……」
凛はゆっくりと目を開けた。
その瞳は、どこか“別の世界”を映しているようだった。
「……怖くないんです。だって……声がいるから」
その瞬間――
凛の背後で、白い影がふっと揺れた。
悠は息を呑んだ。
「凛ちゃん、後ろ……!」
凛は振り返らなかった。
ただ、アヒルを抱きしめ、静かに微笑んだ。
「……大丈夫です。あれは、私を守ってくれるから」
白い影は、凛の背後でゆっくりと形を変えた。
人の形に近づいたようにも見えた。
そのとき――
食堂の方から園長の声が響いた。
「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」
白い影がふっと揺れ、消えた。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。
「……はい、園長先生」
悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が芽生えた。
――凛の世界は、現実と“声の世界”の境界が揺れ始めている。
――そして、その境界を揺らしているのは……声と、白い影と、園長。
その確信は、まだ形を持たない。
けれど、確かに存在していた。
箱庭園の空気は、今日も静かすぎる。
優しすぎる。
そして――何かを隠している。
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