第11話
その夜、箱庭園はいつも以上に静かだった。
風の音も、波の音も、まるで遠くへ押しやられたように薄い。
施設全体が、深い水の底に沈んでいるような静けさに包まれていた。
凛は布団の中で目を開けていた。
眠れないわけではない。
ただ、胸の奥がざわついている。
――起きて。
声が囁いた。
凛はゆっくりと身を起こす。
「……起きてるよ」
返事をした瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
その温度が、凛の不安を静かに溶かしていく。
アヒルを抱きしめると、白い表面がほんのわずかに脈打ったように感じた。
凛はそれを不思議だとは思わなかった。
むしろ、その脈動が“安心”の証のように思えた。
――来て。
「……どこに?」
――いつものところ。
凛は布団を抜け出し、静かに部屋の扉を開けた。
廊下は薄暗く、非常灯の緑色の光だけがぼんやりと灯っている。
夜の箱庭園は、昼間とはまったく違う顔をしていた。
足音を立てないように、凛はゆっくりと歩き出した。
アヒルを抱く腕は、まるで命綱を握っているかのように強張っている。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
声が触れるたび、凛の世界は静かに閉じていく。
階段を降り、廊下を抜け、裏手の倉庫へ向かう。
昼間、白い影を見た場所。
扉の前に立つと、胸の奥がふっと軽くなった。
――開けて。
凛は扉に手をかけた。
ギィ……と古い蝶番が軋む。
薄暗い倉庫の中に、冷たい空気が流れ込んでくる。
昼間よりも、さらに冷たい。
凛は一歩、足を踏み入れた。
その瞬間――
奥の暗がりで、白い影がふっと揺れた。
「……いるの?」
凛の声は震えていたが、恐怖ではなかった。
むしろ、胸の奥に“懐かしさ”が広がっていた。
――ここだよ。
声が囁く。
凛はアヒルを抱きしめ、影の方へ歩き出した。
白い影は、まるで“呼吸”しているように揺れている。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
凛が近づくと、影はふっと形を変えた。
人の形に近づいたようにも見えた。
「……あなた、だれ?」
凛が呟くと、影は静かに揺れた。
――ぼくだよ。
「……ぼく?」
――ずっと、そばにいた。
凛は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
その温度は、アヒルを抱いたときの温度と同じだった。
「……アヒルさん?」
影は答えない。
けれど、凛にはわかった。
――ぼくは、ここにいる。
その囁きは、凛の心の奥深くに染み込んでいく。
凛は影に手を伸ばした。
その瞬間――
倉庫の扉が、突然開いた。
「凛ちゃん!」
悠の声だった。
凛はびくりと肩を震わせ、影から手を引っ込めた。
影はふっと揺れ、棚の裏へと消えた。
「……佐伯さん?」
凛は振り返った。
悠は息を切らし、驚いたように凛を見つめていた。
「こんな時間に……何してるの?」
凛は言葉を失った。
胸の奥で、声がひやりとした温度を帯びる。
――言わなくていい。
――隠して。
「……眠れなくて」
「眠れなくて……倉庫に?」
悠の声は静かだったが、その奥に“恐怖”が混ざっていた。
「凛ちゃん、さっき……誰かと話してた?」
凛の肩がびくりと震えた。
「……話してないです」
「でも、声が……」
「話してないです!」
凛は思わず叫んだ。
倉庫の空気が震え、薄暗い空間にその声が響く。
悠は驚き、凛を見つめた。
凛はアヒルを抱きしめ、震える声で続けた。
「……ごめんなさい。でも……話してないです。ほんとうに」
その言葉は、明らかに嘘だった。
けれど、凛自身もそれを自覚していないように見えた。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
声が触れるたび、凛の不安は薄れていく。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
――この子は、誰かに“呼ばれている”。
そのとき、倉庫の奥で何かが揺れた。
白い影が、ほんの一瞬だけ姿を見せた。
悠は息を呑んだ。
「……今、何か……」
「見てないです!」
凛は叫ぶように言った。
その声は、恐怖ではなく“守ろうとする”響きを持っていた。
――隠して。
――ぼくを、守って。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに目を伏せた。
「……帰りましょう、凛ちゃん」
悠は震える声で言った。
凛はゆっくりと頷き、倉庫を出た。
扉が閉まる直前――
白い影が、ふっと揺れた。
まるで、凛を見送るように。
まるで、“また来てね”と囁くように。
倉庫を離れたあと、凛と悠はほとんど言葉を交わさなかった。
夜の廊下は静かで、二人の足音だけが薄く響いている。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「……凛ちゃん、部屋まで送るね」
悠が言うと、凛は小さく頷いた。
アヒルを抱く腕はまだ強張っている。
その指先は、まるで“何かを守る”ように震えていた。
凛の部屋の前に着くと、悠はそっと声をかけた。
「今日は……ゆっくり休んでね」
「……はい」
凛は扉を開け、部屋に入った。
その瞬間、胸の奥で声が囁く。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに息を吐いた。
扉が閉まると、外の気配が一気に遠ざかる。
部屋の中は暗く、月の光だけが薄く差し込んでいる。
凛は布団に座り、アヒルを胸に抱いた。
「……さっきの影、なに?」
凛が小さく呟くと、声が優しく触れた。
――ぼくだよ。
――ずっと、そばにいた。
「……そばに?」
――うん。
――凛が気づく前から。
凛は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
その温度は、恐怖ではなく“安心”に近かった。
「……じゃあ、どうして今まで見えなかったの?」
――見えるようになったんだよ。
――凛が、ぼくを必要としてくれたから。
その言葉に、凛の胸がふっと軽くなった。
まるで、自分の存在が肯定されたような感覚。
「……必要、だから?」
――うん。
――凛はひとりじゃない。
凛はアヒルを抱きしめ、目を閉じた。
その瞬間――
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
コツ……コツ……
ゆっくりと、一定のリズムで近づいてくる。
凛は息を呑んだ。
胸の奥で、声がひやりとした温度を帯びる。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
足音は、凛の部屋の前で止まった。
静寂。
息を潜めたような、深い沈黙。
凛は布団の中で身を縮めた。
アヒルを抱く腕が震える。
――こわくないよ。
声が囁く。
けれど、その囁きの奥に、どこか“緊張”のようなものが混ざっていた。
扉の向こうで、誰かが立っている。
その気配が、凛にははっきりとわかった。
――開けなくていい。
声が言う。
凛は小さく頷いた。
そのとき――
扉の向こうから、低い声がした。
「……凛ちゃん」
園長の声だった。
凛の肩がびくりと震えた。
胸の奥で、声がひやりとした温度を帯びる。
――出なくていい。
――聞かなくていい。
「……凛ちゃん、起きているかい?」
園長の声は柔らかい。
けれど、その柔らかさの奥に“何かを確かめる”ような響きがあった。
凛は布団の中で息を潜めた。
アヒルを抱く腕に、無意識に力が入る。
「……大丈夫だよ。
凛ちゃんは特別だからね」
その言葉に、凛の胸がひゅっと縮んだ。
――聞かなくていい。
――ぼくがいる。
声が強く囁く。
凛は目を閉じ、震える息を吐いた。
しばらくして、園長の足音が遠ざかっていった。
廊下の静けさが戻る。
凛はゆっくりと息を吐き、アヒルを抱きしめた。
「……こわかった」
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
声が優しく触れる。
その温度が、凛の不安を静かに溶かしていく。
凛は布団に横になり、アヒルを胸に抱いたまま目を閉じた。
そのとき――
部屋の隅で、白い影がふっと揺れた。
まるで、凛を見守るように。
まるで、“ここにいるよ”と囁くように。
凛はその気配を感じながら、静かに眠りへ落ちていった。
――凛。
――もうすぐだよ。
声が、深い闇の中で優しく囁いた。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




