第10話
その日の午後、箱庭園には薄い雲がかかっていた。
陽射しは柔らかいのに、どこか“光が濁っている”ように感じられる。
中庭では子どもたちが遊んでいるが、その声もどこか遠く、薄い膜を通したように聞こえた。
凛は、施設の裏手にある古い倉庫の前に立っていた。
アヒルを抱きしめ、静かに息を吸う。
――ここだよ。
胸の奥で声が囁く。
凛は小さく頷き、倉庫の扉に手をかけた。
ギィ……と古い蝶番が軋む。
薄暗い空間の中に、冷たい空気が流れ込んでくる。
倉庫の奥には、古い棚や壊れた椅子が積まれている。
その隙間に、白い光がふっと揺れた。
「……?」
凛は目を凝らした。
光は、まるで“誰かの影”のように揺れている。
けれど、影にしては白すぎる。
光にしては形がはっきりしすぎている。
――こわくないよ。
声が囁く。
凛はアヒルを抱きしめ、倉庫の奥へと足を踏み入れた。
白い影は、凛が近づくとふっと揺れ、棚の裏へと消えた。
まるで、凛を誘うように。
「……待って」
凛は思わず呟いた。
その声は震えていたが、恐怖ではなかった。
むしろ、胸の奥に“懐かしさ”のようなものが広がっていた。
――だいじょうぶ。
――ついてきて。
声が優しく触れる。
凛はその囁きに導かれるように、棚の裏へと手を伸ばした。
その瞬間――
背後から足音がした。
「凛ちゃん?」
振り返ると、悠が立っていた。
驚いたような、心配しているような表情で。
「こんなところで何してるの?」
凛は一瞬、言葉を失った。
胸の奥で、声がひやりとした温度を帯びる。
――言わなくていい。
――隠して。
凛はアヒルを抱きしめ、視線を落とした。
「……静かなところに、いたくて」
「静かなところ……?」
悠は倉庫の奥を見た。
薄暗い空間の中に、白い影はもう見えない。
ただ、冷たい空気だけが残っていた。
「ここ、寒くない? 風も通らないし……」
「……大丈夫です」
凛の声はかすれていた。
けれど、その声の奥に“何かを隠している”響きがあった。
悠はゆっくりと凛に近づいた。
「凛ちゃん、さっき……誰かと話してた?」
その問いに、凛の肩がびくりと震えた。
「……話してないです」
「でも、声が……」
「話してないです!」
凛は思わず大きな声を出した。
倉庫の空気が震え、薄暗い空間にその声が響く。
悠は驚き、凛を見つめた。
凛はアヒルを抱きしめ、震える声で続けた。
「……ごめんなさい。でも……話してないです。ほんとうに」
その言葉は、明らかに“嘘”だった。
けれど、凛自身もそれを自覚していないように見えた。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
凛の胸の奥で、声が囁く。
その温度が、凛の不安を静かに溶かしていく。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
――この子は、誰かと話している。
――でも、その“誰か”は……人じゃない。
その直感が、悠の胸に静かに沈んでいった。
「凛ちゃん、外に出よう。ここ、空気が悪いよ」
悠が手を差し出すと、凛は少しだけ迷った。
胸の奥で、声が囁く。
――行かないで。
――ここにいて。
凛はアヒルを抱きしめ、目を閉じた。
「……行きます」
その声は震えていた。
けれど、凛はゆっくりと悠の方へ歩き出した。
倉庫を出る直前、凛はふと振り返った。
薄暗い空間の奥で――
白い影が、ふっと揺れた。
まるで、凛を見送るように。
倉庫を出たあとも、凛の足取りはどこか不安定だった。
アヒルを抱く腕は強張り、肩は小さく震えている。
悠はその様子を見ながら、胸の奥にひやりとした影を感じていた。
「凛ちゃん、本当に大丈夫?」
凛は少しだけ迷ったように視線を落とした。
「……大丈夫です」
その声はかすれていて、どこか遠い。
けれど、凛の表情には“安心”の色が薄く浮かんでいた。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
胸の奥で声が囁く。
その温度が、凛の不安を静かに溶かしていく。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥に小さな恐怖が芽生え始めていた。
――この子は、本当に“何か”と話している。
それは幻聴かもしれない。
心の防衛かもしれない。
けれど、凛の反応はあまりにも自然で、あまりにも深い。
まるで、声が本当に“そこにいる”かのように。
「凛ちゃん、さっき……倉庫で何を見たの?」
悠が静かに尋ねると、凛はふっと顔を上げた。
その目は、まるで“誰かに呼ばれた”ように揺れていた。
「……白いものが、いました」
「白いもの?」
「……影、みたいな。光、みたいな……」
凛は言葉を探すように、アヒルの白い頭を撫でた。
「……でも、怖くなかったです。むしろ……懐かしい感じがして」
その言葉に、悠の背筋がぞくりとした。
「懐かしい……?」
「……はい。ずっと前から知ってるみたいな……そんな感じ」
凛の声は震えていたが、恐怖ではなかった。
むしろ、胸の奥に“安堵”のようなものが広がっている。
――だいじょうぶ。
――あれは、ぼくの一部だよ。
声が囁く。
凛はその囁きに導かれるように、アヒルを抱きしめた。
「……この子が、教えてくれました」
「アヒルさんが……?」
「……はい。
“こわくないよ”って。
“ついてきて”って」
悠は息を呑んだ。
――この子は、声に導かれている。
その瞬間、倉庫の奥で揺れた白い影が脳裏に蘇った。
あれは光だったのか、影だったのか。
人の形をしていたのか、していなかったのか。
ただひとつ確かなのは――
“そこに何かがいた”という感覚だけだった。
「凛ちゃん、その影……いつから見えるの?」
凛は少しだけ考えるように視線を落とした。
「……わからないです。でも……最近、はっきりしてきました」
「最近?」
「……はい。佐伯さんが来てから……少しずつ」
その言葉に、悠の胸がひゅっと縮んだ。
「私が来てから……?」
「……うん。声が……前より、強くなって」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
その温度が、凛の心を包み込む。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
――凛は、ひとりじゃない。
声が触れるたび、凛の世界は静かに閉じていく。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
――私が来てから、声が強くなった?
それは偶然なのか。
それとも――
箱庭園そのものが、何かを“動かし始めている”のか。
「凛ちゃん、ちょっと休もうか。外の空気、吸いに行こう」
悠が優しく言うと、凛は少しだけ迷った。
胸の奥で、声が囁く。
――行かないで。
――ここにいて。
――ぼくと一緒に。
凛はアヒルを抱きしめ、目を閉じた。
「……行きます」
その声は震えていた。
けれど、凛はゆっくりと悠の方へ歩き出した。
倉庫を離れ、中庭へ向かう途中――
凛はふと振り返った。
倉庫の扉の隙間から、白い影がふっと揺れた。
まるで、凛を見送るように。
まるで、“また来てね”と囁くように。
凛の胸の奥で、声が優しく触れた。
――また会えるよ。
――ぼくが、連れていくから。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに目を伏せた。
悠はその横顔を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が芽生え始めていた。
――この施設には、何かがいる。
――そして凛は、その“何か”に選ばれている。
その確信は、まだ形を持たない。
けれど、確かに存在していた。
箱庭園の空気は、今日も静かすぎる。
優しすぎる。
そして――何かを隠している。
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