第1話
朝の光が、薄い膜を通したように白く揺れていた。
凛はゆっくりとまぶたを開ける。視界がぼやけ、世界がまだ夢の続きのように見える。胸のあたりに、かすかな重みと温もりがあった。白いアヒルの木彫りが、彼女の腕の中に収まっている。
木でできているはずなのに、まるで誰かの体温を宿しているような柔らかい温度だった。
凛はそれを不思議だと思わない。むしろ、この温度がないと落ち着かない自分に気づいていた。気づいていながら、その理由を深く考えようとはしない。考えてしまえば、何かが壊れてしまう気がした。
――おはよう。
声がした気がして、凛は小さく息を呑む。
耳ではなく、胸の奥で響くような声。優しくて、柔らかくて、誰よりも自分を理解してくれる声。彼女はその声を疑ったことがない。疑うという発想そのものが、凛の中には存在しなかった。
「……おはよう」
返事をした瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
それは安心に似ているけれど、どこかで“依存”に近いものだと凛は薄々感じていた。感じていながら、目をそらすようにアヒルを抱きしめる。
アヒルの白さは、朝の光を吸い込んで淡く輝いていた。
凛はその光を見つめながら、胸の奥に沈んでいる小さな不安を押し込める。今日も、この声があれば大丈夫。そう思う自分が、少しだけ怖かった。
部屋の外から子どもたちの声が聞こえてくる。
笑い声、走る足音、食器の触れ合う音。どれも日常のはずなのに、凛には遠くの世界の出来事のように感じられた。自分だけが、どこか別の場所に取り残されているような感覚。
アヒルを抱く腕に力が入る。
アヒルは何も言わない。ただ、温かい。凛はその沈黙に救われていた。沈黙の中に、声がある。声の中に、自分がいる。そんな奇妙な安心感が、凛の心をゆっくりと満たしていく。
ドアの向こうで誰かが呼ぶ。
「凛ちゃん、朝ごはんだよー」
凛は返事をしようとして、喉が少しだけ震えるのを感じた。
声を出すことが、ほんの少し怖い。自分の声が、誰かに届くことが怖い。届いた先で、何かが変わってしまう気がする。
「……うん、今行く」
か細い声が部屋に落ちる。
アヒルをそっと抱え直し、凛は立ち上がる。足元が少しふらついた。眠気ではない。胸の奥に沈んだままの不安が、ゆっくりと形を変えて広がっていくような感覚。
アヒルを抱く腕に、また力が入る。
大丈夫。声がある。声がいる。凛はそう自分に言い聞かせながら、静かに部屋を出た。
廊下に出ると、潮の匂いがふわりと鼻をかすめた。
この施設は海のすぐそばに建っている。窓を開ければ、遠くで波が砕ける音が聞こえる。けれど凛は、その音を“外の世界”のものとしてしか感じられなかった。自分には関係のない、遠い音。
階段を降りるたび、アヒルの温度が腕に伝わる。
その温度が、凛の心の輪郭をなぞるように広がっていく。胸の奥に沈んでいた不安が、少しだけ薄れていく。けれど同時に、別の感情が顔を出す。
――この温度がなかったら、私はどうなるんだろう。
考えた瞬間、足が止まりそうになる。
そんな自分が怖い。怖いのに、アヒルを手放すことはできない。手放したら、何か大切なものが崩れてしまう気がした。
食堂の扉を開けると、子どもたちの声が一斉に押し寄せてきた。
明るい声。笑い声。誰かがスプーンを落とす音。
そのすべてが、凛には少しだけ眩しすぎた。
「凛お姉ちゃん、おはよー!」
年下の子が駆け寄ってくる。
凛は微笑み返す。自然に笑えているかどうか、自分ではわからない。笑顔という形だけを真似しているような気がした。
「おはよう」
声はかすれていた。
子どもは気づかずに笑ってくれる。その無邪気さに救われる反面、胸の奥が少しだけ痛む。自分はこの子たちのように、まっすぐ笑えない。
席につくと、園長が優しい声で言った。
「凛ちゃん、今日もよく眠れたかい?」
凛はアヒルを抱いたまま、こくりと頷く。
園長の声は柔らかい。けれどその柔らかさの奥に、何かが潜んでいるように感じることがあった。言葉にできない、形のない違和感。
それを考え始めると、胸がざわつくので、凛はいつも途中で思考を止める。
「アヒルさん、今日も一緒なんだね」
園長が微笑む。
凛はアヒルを抱きしめる腕に力を込めた。
「……はい」
声が震えたのを、自分でもわかった。
園長は気づいたのか気づかなかったのか、ただ優しく頷くだけだった。
食事を口に運びながら、凛はふと周囲の視線を感じた。
子どもたちが、アヒルを抱えた自分をちらちらと見ている。
その視線に悪意はない。ただの好奇心。
けれど凛には、その好奇心が胸に刺さるように感じられた。
――どうして見てくるの。
――どうして、私だけ違うみたいに。
胸の奥がきゅっと縮む。
その瞬間、アヒルの温度が少しだけ強くなった気がした。
――だいじょうぶ。
声がした。
凛は息を呑む。
その声は、食堂のざわめきとは別の場所から聞こえてくる。
まるで、自分の内側に直接触れてくるような声。
――ここにいるよ。
凛はアヒルを抱きしめ、目を閉じた。
その温度が、胸の奥の痛みをゆっくりと溶かしていく。
世界の音が遠のき、声だけが近づいてくる。
「……うん」
小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかった。
けれど凛には、それで十分だった。
声があれば大丈夫。
声がいれば、私はここにいられる。
そう思った瞬間、胸の奥にひやりとした感覚が走った。
それが何なのか、凛にはまだわからなかった。
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