第19章 ― 桜の樹の下の刃
世界の反対側で、
ケルベロスは森の中心に立ち、微動だにしていなかった。
木々は桜色。
美しく、ほとんど幻想的で――
淡い幹、柔らかな樹冠、
花弁が雪のように静かに舞い落ちている。
だが、その美の中には亀裂があった。
いくつかの葉は黒く染まり、
この場所に属さぬ影に侵されている。
完璧な外見の下に潜む、
静かな毒。
スーツの両肩に埋め込まれた赤いダイヤモンドが脈動し、
深い光を放った。
ケルベロスは右肩に手を当て、思案する。
「……このコラプテッド」
低く呟いた。
「……今までとは、違うな」
彼は地面に視線を落とし、しゃがみ込む。
極めて慎重に、
闇に侵された一枚の黒い葉を拾い上げた。
しばし見つめてから、言う。
「……美しさでさえ、
内側から腐ることがある」
歪んだ音が、空気を裂いた。
背後。
前方。
左。
右。
あり得ない速度。
ケルベロスは目を閉じた。
その葉を、
朽ちたものさえ尊ぶかのように、
静かに地面へ戻す。
そして、立ち上がった。
目を開いた瞬間、
世界はスローモーションへと変わる。
軌道が見えた。
移動が見えた。
意図が見えた。
二人の女性が、
完璧な攻撃位置から現れる。
双剣を携えた戦士。
ケルベロスは小さく息をついた。
「……来い」
音が消えた。
二人の侍女が同時に出現する。
右と左。
刃先は、彼の心臓を狙っていた。
ケルベロスは両手を上げた。
ガキィン。
金属音が炸裂し、
砂塵が舞い上がる。
地面は小さな円を描いて陥没し、
周囲の木々は、
見えない圧力に強いられるように膝を折った。
砂塵が晴れた時、
そこにあった光景は――異常だった。
ケルベロスは、
二本の剣を掴んでいた。
一本ずつ、
左右の手で。
力みはない。
傷もない。
「……本気か?」
低く言う。
「……本当に、この程度の武器で
俺を傷つけられると思ったのか?」
最初の侍女が、冷静な声で答えた。
「あなたは、まだ何も見ていない。
私たちの女王が、あなたを欲している」
一瞬、言葉を切る。
「……興味を持ったのよ」
ケルベロスの声が、
変質した。
歪みを帯びて。
「……ならば、
俺の方から会いに行こう」
二人目の侍女が唸る。
言葉から、憎悪が溢れていた。
「――だめ。
あなたは行かせない。
そんな資格、ない」
ケルベロスは首を傾ける。
「……そして、お前たちにも」
「……俺を攻撃する資格はない」
彼はその場で、
三百六十度、身体を回転させた。
二人は、
人形のようではなく――
砲弾のように
逆方向へ吹き飛ばされた。
だが空中で、
二人は体勢を整え、
幹に足を突き立て、
樹上で静止した。
ケルベロスは、それを見て興味深そうに言う。
「……見事だ」
一拍、置いて。
「……物理法則に抗うだけの力がある」
さらに続ける。
「……彼女は力を与えたな」
「……支配と引き換えに」
侍女たちは唸った。
衣装が砕け散り、
その下から未来的な装甲が露わになる。
一人は、
凝縮された星のエネルギーで構成された
紫の装甲。
もう一人は、
超高耐久彗星の破片で鍛えられた
残虐な赤の装甲。
二人は同時に剣を構えた。
ケルベロスは刃を見つめ――
そして、背中へと手を伸ばした。
そこには、何もない。
「……久しいな」
彼は言った。
「……この剣を使うのは」
侍女たちは顔を見合わせる。
そこに、武器は見えなかった。
だが――
ケルベロスが拳を握った瞬間、
剣の柄が虚空から出現した。
火花と共に、
現実そのものから金属が生まれるような
重い音を立てて。
彼は、ゆっくりと引き抜く。
侍女たちは本能的に後退し、
防御態勢へ移行した。
「……何、あれ……?」
一人目が囁く。
「……分かった」
二人目が低く呟いた。
「……だから、女王はあなたを欲した」
一瞬の沈黙。
「……でも、
男だとは思わなかった」
ケルベロスは、完全に剣を抜いた。
全長八メートルの巨剣。
歴史の記録では到底語れぬ
無数の戦痕を刻んだ剣。
彼は刃を地面に叩きつけた。
ドオオオオオオン。
衝撃で、森全体が揺れた。
ケルベロスは声を張り上げる。
怒りではない。
絶対的な真理として。
「――見ろ」
「――これが、真の剣だ」
「――戦争と戦闘によって鍛え上げられた」
「――お前たちが、
決して見たことのない次元でな」
空気が重くなる。
木々は動きを止め、
世界は息を呑んだ。
侍女たちは足を踏みしめ、
剣を掲げる。
戦いは、
今まさに始まろうとしていた。
―――
次の章へ続く。




