うつろいの花園
夕子はいったん開けたホテルのカーテンをため息まじりに閉めた。
午後3時の街はまだ勢いがあって 夕子の汗ばんだ体をさらすには明る過ぎた。
ドアから出てゆく男の背中を鏡越しに見て 身支度を始めたが その目前にある女を自分とは認めたくなかった。
ルージュの剥げた血の気のない唇
それとは反対に 紅潮した頬
湿気でうねりの出始めた髪の毛
少したるみの出始めた腹部
しかし肌は嬉々として輝いている• • •
その全てが オンナそのものだった。
自分は これからどこへ行くのだろう、終着駅はあるのだろうか。
ため息をつきながら のろのろとストッキングを履き始めた。
中2のひとり娘は 携帯電話に夢中で お風呂に入っている時以外は手放さない。
常に5〜6人の友達をメールしている。
学校で話せばいい様な事をわざわざ小さい文字で会話している。
この頃 反抗期で母親を批判する様な事も平気で言う様になった。
「私はママの様に 夫に養われて夫の顔色を見ながら暮らしている様な結婚生活はしたくない。」などと 生意気な口調で言い放つ。
父親とは生活の時間帯が違っていて もう夕食を一緒に摂る事もなくなり 洗濯物も一緒に洗わないで欲しい、 お風呂も父親の後には絶対に入らないと言う。
洗面台もトイレも 使用時間が重ならない様に早起きする程 父親を毛嫌いしている。
夕子は 夫とはもう何年も会話をしていない。
最後に話したのは 義父が亡くなった時。
介護を続けていた夕子に 夫は ご苦労さんの一言もなかったばかりか、義父の容態が変わった事が どうしてもっと早く解らなかったのかと責めた。
夕子はただ俯いて ごめんなさいと言うのがやっとだった。
もう反論する気も失せていた。
介護を一人で続ける事の孤独を 夫は理解していなかった。
仕事という 大義名分をふりかざして毎晩遅く接待だの会議だのなんだのと 一切家庭を顧みなかった。
義父の容態が急変したその日 夕子は男に会っていた。
いや その日だけではなかった。
閉塞感のある毎日 誰にも解ってもらえない孤独。
ある日 たまらなくなって逃げる様に街に出掛けた時 銀行の入り口のドアですれ違い様に肩がぶつかった男の顔を見て、お互いに あっ と声をあげた。
それは 義姉の夫 柊平だった。
彼は ダークスーツを着て部下と一緒にこれから取引先へ向かうのだと言う。
夕子の介護に疲れた表情を見て取った柊平は 部下に何やら耳打ちして先に行かせ 自分は夕子の腕を取り喫茶店に誘った。
彼は銀行マンで 真面目を絵に描いた様な男だった。
お盆や お正月に家族で会う時にはいつも 清潔感のある短い髪に黒ぶちの眼鏡をかけ 糊のきいたシャツを着て ソファにゆったりと座り 微笑みを絶やさない。
決して 余計な事は言わず常に周りに気を配っている。
夕子は 家で会う彼とは 違う彼に遭遇してどぎまぎした。
仕事中の彼はテキパキして ぐいぐい人を引っ張って行くエネルギーが溢れていた。
その瞳の中にこころの全てを委ねてもいい安心感があった。
喫茶店では 柊平は何も夕子に尋ねなかった。
ただ優しく夕子の目を覗き込み 微笑む。
夕子は問われないまま 今迄の思いの丈を柊平にぶつけた。
介護に協力してくれない義姉の事迄• • •
涙ながらに訴える夕子の言葉にいつもの様に頷いてくれる柊平。
いつしか夕子は微笑んでいた。
仕事途中に時間を割いてくれた事のお礼をして 別れようとした夕子に
柊平はいつでも話を聞くから連絡して、と携帯の番号を渡した。
この出会いが彼女の人生や生き方を 大きく変えていくだろう事を デジャヴュのように感じている夕子だった。
掃除機のスウィッチを切ると とたんに静寂が訪れる。
認知症の義父のデイサービスを見送った後 夕子は念入りに掃除機をかける。
いつもはそれから予め回していた洗濯機から義父の濡れたシャツや下着を取り出して手早く干すのだが、今日の夕子は 慌ただしく掃除をした後 洗濯物には目もくれず 携帯電話を握りしめたまま床に座り込んでいた。
あの出会いから1ヶ月。
もちろん柊平からは何も連絡がないまま時が過ぎていた。
夕子はというと 淡々とした毎日の生活と介護の日々に追われていたが 心は一段別の所にあって、うきうきするような精神の高揚を押し隠すのに 時々苦労するくらいだった。
「いつでも電話して。」
柊平のその言葉はどんどん心の中に膨らんでいった。
そして自分を見守ってくれている人がいると思うとどんな事も耐えられるような気がした。
夫には人としても 女としても見てもらえなかった自分を 一人の人間として労い 相対峙してくれる異性の存在に、例え義姉の夫であってもときめくのを止められなかった。
10時過ぎるのを待ち遠しいくらい待ってから夕子の細い指は携帯の番号を押し始めた。
柊平の番号はもうすでに頭の中に入っている。
電話を耳に当てると 呼び出し音が耳に深く響く。
5回まで呼び出し音が鳴ったが 夕子はだんだん自分が惨めになってくるような気がして 6回目の呼び出し音の途中で 耳から電話を離し切ろうとした時、
小さく もしもし? • • •と あのきびきびした柊平の声が聞こえて来た。
夕子は 小さく息を吐いてから どんな言葉も聞き逃さない様に電話を耳に押し当てた。
「夕子です。 お仕事中ごめんなさい。実は今日 わたし••」と言いかけるのを押しとどめる様に
「ああ、よかった。心配してたんですよ。あの時は 顔色がすぐれなかったから。 声の調子から察するとお元気になられた様ですね。丁度良かった、これからそちらの方に出掛ける予定があったので もしご都合がよろしかったらその用事が終わってから 一緒にお昼をとっていただけませんか? 一人のメシはさびしいもんでね。」
柊平は場所と時間は 用事が終わり次第連絡するからと言って 夕子の遠慮がちな小さな返事を了解と受け取り電話を切った。
夕子は 痛いくらい押し付けていた電話をやっと耳から離し、座ったまま柊平の言葉を口の中で繰り返していた。
あの人は まだ私の事を気にかけていてくれたんだわ。
心の真ん中あたりから 暖かいものが絞り出す様に燃え上がって来る感覚を夕子は懐かしいと思った。
昼までにはまだ時間があった。
夕子はいそいでシャワーを浴び髪を乾かした。
それから2階のワードローブから何着かのワンピースを取り出し、鏡の前で体に合わせてみる。
夕子はそのどれもが気に入らなかった。
ここ何年もお出かけ用の洋服等買っていなかったから型がもう流行遅れになっていたのだ。
どんなお店に連れて行ってくれるのだろうか、お昼だからドレスコードのある様なお店ではないにしても
生活に疲れた姿は見せたくない • • •
夕子は結婚した時に母が誂えてくれたアイリスの模様の着物を取り出し 胸元に合わせてみた。
「着物なんて着ないからいらない。」なんて言ったのに 母は「嫁入り道具の一つとして準備してるのだから。」と言って何枚か呉服屋へ行って選んでくれたのだった。
若い頃は育児で忙しく 着物を着る余裕もなかったが 年を経て着物の魅力に惹かれ始めていた。
義父が脳卒中で倒れ介護する立場になるまで 着付け教室に通い自分で着物を着る楽しさを感じていた。
着物の柄と半襟と帯と帯揚げ。
この色と柄の組み合わせで雰囲気が大きく変わる。
夕子は着物の魅力にどっぷりとはまっていたのだが、義父の入院の日から その楽しみを忘れる事を余儀なくされていた。
久しぶりの正絹の感触はしっとりと身に馴染むもう一枚の皮膚のように 夕子を包んでいた。
帯を後ろ手に結ぶ時 ふと 夕子はこれから起こるであろう出来事を想像して耳が熱くなった。
姿見の前の夕子はいつもの俯き加減な女から きらきらと熱を帯びた様に輝く瞳のせいで生き生きした女に変わっていった。
髪をまとめ化粧を手早く済ませると もう時計は11時30分を少しまわっていた。
大きく息を吐いて夕子はやっとソファーの肘掛けに半分だけ腰を下ろした。
なんだか浮遊している様で落ち着かない。
ビデオレコーダーに表示されているアナログの時間を何度も見た。
その時テーブルの上に置いてある夕子の携帯が 弱いバイブと共に鳴った。
その番号はやっぱり柊平からのものだった。
けれど夕子はすぐには電話を取らず 何度も深呼吸して息を整えてから耳に当てた。
「はい、夕子です。」
「もしもし、今車で家の前まで来てるのですが、すぐに出られますか?」
もう、家の前。 ご近所の手前もあるのに。。。柊平の行動の素早さに夕子は驚いたが
親戚だし急いで車に乗ってしまえば誰にも見咎められることもないだろうと少し大胆になった。
柊平の車はハイブリッドで音も静かに玄関前に横付けされていた。
夕子はゆっくりと柊平の車の助手席に座った。
柊平は夕子の着物姿を目を細める様にして見てから にっこり微笑んだ。
「行き先は 僕に任せて下さい。」
柊平は 目を真っ直ぐ前に向けながら言った。
夕子は ただ 「はい。」と答えた。
車は住宅街を抜け国道に入った。
柊平と夕子はその間一言も話さずにいた。
カーステレオではユーミンの音楽が流れていた。
そのまま30分程で郊外のダム湖のほとりに到着した。
普段は観光客で賑わうダム湖には 平日のせいか他に誰もいなかった。
暫く無言だった静寂を切り開いたのは柊平のシートベルトを外す音だった。
いきなり夕子は口づけされて戸惑い体を押し戻そうとしたが 柊平の、 細身に見えてもしっかり筋肉の鍛えてある体は力強く それとは反対に優しい唇に触れて 夕子はもう抵抗するのをやめた。
『こうなることは はじめからわかっていた。わたしも望んでいた事だから。。。』
そのまま近くのホテルに向かった車の軌跡には油膜が地面を覆う様に妖しく光っていた。
夕子は台所から山を見ていた。
山の頂には幾本かの放送アンテナが立っている。
学生の頃 この山の頂上から海を見下ろした時のあの冷たい風が今、夕子の周りに渦巻いている様な錯覚を起こして、夕子はぎゅっと目をつぶった。
あのダムに行った日から 半年。
木々が色づき始め 季節は秋に変わろうとしていた。
柊平とは今でも 1ヶ月に2、3度逢瀬を重ねている。
それは 愛というよりも 自分の存在を確認するのが目的であるかのように。
会うのは平日の昼間の2、3時間。夕食の支度をする時間までには帰宅しているから 家人は誰も気がついていない。
夕子は以前よりも家事をしっかりこなし 母親としても完璧に振る舞っていた。
ただ夫とは以前と同様に視線を交えることすらないまま、それでも身の回り一切の事を手がけていた。
容態が急変したあの日の朝 義父は背中が痛いと言っていた。
寝違えか筋肉痛だろうと思って湿布薬を貼ってやり 着替えを手伝った。
その日は久しぶりに柊平と会う約束をしていたので 気が急いていた夕子はその事をデイサービスのお迎えの人に告げるのも忘れて、義父を車に乗せたのだった。
後から心臓の発作で倒れた事を知った時 あの背中が痛いと言った義父の言葉が甦った。
デイサービスの施設から 病院に搬送された時には もう心肺停止状態だったという。
その出来事は夕子の心の錘となって 海深く沈んだまま錆びた錨のように闇の中からいくら手を伸ばしても浮かび上がる事は出来ないのだった。
葬儀があり式場でも親族である柊平とは同じ部屋にいる事を余儀なくされたが、お互い事務的な会話のみで目を会わせる事は敢えてしなかった。
平静を装いつつも 喪服の夕子は常に柊平の存在をアンテナを立てて意識していたし、時折抑えきれない感情が湧き上がるのを必死に堪えていた。
優しく抱きしめて欲しかった。
柊平は いつも通りの気配りで周りの親族と話し 夕子は葬儀参列の客への挨拶で忙しかった。
夕方 客が途切れてお手洗いに立った夕子は 途中の控え室から聞き覚えのある声につい立ち止まった。
それは 電話で誰かと小さな声で諍いをしている柊平の声だった。
「今そんな事を言うな••• お前の部屋で••• いい加減にし••• 」
途切れ途切れに聞こえて来る柊平の口調は 夕子が初めて耳にする激しく乱暴なものだった。
それもどうやら相手は仕事関係ではなく 女 のようだった。。。
早くこの場から立ち去りたいのだが足がもつれて上手く歩けない。
顔は上気してくるのに 頭の芯は凍った様に醒めている。
『この人は私以外の女とも関係があったんだわ。』
夕子の視界からすべての色が消えた。
義父の葬儀から4ヶ月経った今でも あの日の柊平の声は耳の底に澱のように溜まっているが、
夕子は柊平を追求する事はせず 口を閉ざしている。
それでも柊平と逢瀬を重ねるのは 夕子の柊平に対する愛なのか、その女に対する優越感なのか、捨てられてたまるかという意地なのか もう夕子には解らなくなっていた。
とにかく無我夢中で全てを忘れられるものが夕子には必要だった。
と同時に もうじき二人の関係は終わりを迎えるだろう事もうすうす感じていた。
居間に続く和室で 夕子は古典柄や花柄 刺繍など
色とりどりの半襟を広げていた。
それはまるで花園のようだった。
その横には足の踏み場もない位 帯や帯揚げ、帯締めが広げられている。
以前着付け教室に通っている時に 少しずつ買い集めていた小物は かなりの量になっていた。
あの葬儀場での出来事があってから 柊平に対する狂おしい想いは、蜃気楼の様に現れては消えて、次第にフェイドアウトしてこの頃は連絡も途絶えている
そもそも柊平の方から連絡が来る事はなく 柊平と逢う時には夕子の方から一方的に電話していたので 夕子は柊平の自分に対する愛を疑いながら どうする事も出来ない虚しさに苦しんでいた。
同情の愛なのか スリリングな遊び相手としてなのか•••
決して口外される事はなく結婚を迫られる事もない 安心して遊べる都合のいい女として
柊平は夕子と その 時 を共有していたのだ。
柊平は夕子に愛してると言ったことはなかった。
道義に反した刹那的な愛は長く続く訳がなかった。
夕子は何十年ぶりかのときめきと 後ろめたさを同時に味わい、そして両方とも失った。
もしかすると家族という基盤さえも失うかも知れない。
けれど夕子は微笑んでいた。
自分で決断して行動した事が例え取り返しのつかない事になったとしても後悔するまいと最初から決めていたから。
夕子は着物の勉強を再開して資格を取りコーディネーターとして働き自立しようと思っている。
あの事は誰にも話していないが 娘はこの頃 夕子の傍らにいる時間が長くなった。
まるで夕子の心の隙間を埋める様に自分の夢を話してくれる。
高校進学は看護学校併設のところに行って資格を取りたいという。
「お嫁になんか行かないで一生働くんだ、わたし。」
夕子は笑った。
夫は相変わらず帰りが遅く
二人の間に会話がないままだが
目標が出来た夕子には もう寂しさも愛着もなかった。
もうそろそろ霜が降りて 冬が来る。
春になったら アパートを探そうと 夕子は思った。
終わり
初めて小説を書きました。
まだまだ稚拙で、恥ずかしい出来ですが読んで下さい。




