第1話:錆と追憶、そして空からの異物
「……また、鉄くずと睨めっこしてる」
工房の入り口で、リリィが呆れたように言った。
「ごはん、冷めちゃうよ」。
彼女が差し出す皿の上には、硬いパンと、水で薄めた野菜スープ。ドロスポートでは、これでも上等な食事だ。
「ああ」
俺は、前輪がバイク、後部が無限軌道になっている半装軌車『スラグ・ダイバー』から目を離さずに答える。
「これが終わったら、食う」
「いつもそう言うんだから」。
リリィはため息をつき、俺の隣に皿を置いた。
「ねえ、ジェット。どうしてそんなに機械に夢中なの?」
「……俺にはこれしかないからだ」
俺は呟く。このガラクタいじりだけが、俺がこのゴミ溜めの中で足掻ける唯一の特技だった。
空には常に、白亜の浮遊都市「イサルーン」が浮かんでいる。
魔法の恩恵を享受する富裕層が住まうその街から、俺たちの住む下層都市「ドロスポート」へは、絶えず廃棄物が降り注ぐ。俺たちはそのゴミを漁り、生きる糧を得る。
イサルーンの住人は、俺たちを「不純物」と呼ぶ。
俺には前世の記憶がある。
その記憶を辿るたび、あの日の絶望が、まるで昨日のことのように蘇る。
意識が途切れる直前の記憶は、ひどく曖昧だ。日本の大学の研究室だったか、それとも事故に遭ったアスファルトの上だったか。確かなのは、俺の意識が一度、完全に「無」になったということだけ。
次に感覚が戻ってきた時、最初に俺を襲ったのは、嗅覚だった。
鼻を突いたのは、腐敗と錆が混じり合った、吐き気を催すほどの悪臭。生命の終わりを凝縮したかのような濃密な匂いが、脳を直接揺さぶり、無理やり意識を覚醒させた。
ゆっくりと、重い瞼をこじ開ける。
視界に飛び込んできたのは、どこまでも広がる鉛色の空と、見渡す限りのガラクタの山。文明の墓場とでも言うべき場所だった。
何が起きたのか、理解が追いつかない。とにかく、起き上がらなければ。そう思って、地面に手をついた。
その瞬間、俺は凍り付いた。
視界の端に入った自分の「手」。
それは、俺の手ではなかった。大学で機械工学と電気工学を学び、CADを書いたり半田ごてを握っていた青年の手ではない。
小さく、か細く、泥と油に汚れた、見覚えのない子供の手だった。
全身から血の気が引いていく。恐る恐る、その小さな手で自分の顔に触れる。柔らかな頬。小さな鼻。間違いなく、幼児の身体だった。
事故か、病気か。理由はわからない。だが、俺の意識は、この異世界のゴミ溜めで、見ず知らずの幼い子供の身体の中にいた。
絶望。その一言しか、浮かばなかった。
知識はある。だが、この非力な身体では、ガラクタの山を一つ乗り越えることさえできない。ここで静かに飢え死にするのが、俺の結末なのだと、本気でそう思った。
「ジェット?」
俺の意識を現在に引き戻したのは、リリィの声だった。
そうだ。俺はもう、あの頃のように無力ではない。
俺は彼女の頭に無言で手を置き、軽く撫でた。
「……なんでもない。さあ、食うか」
俺がパンに手を伸ばした、その時だった。
ゴウッ……!
工房の窓ガラスが、ビリビリと激しく震える。イサルーンからの廃棄物投棄だ。だが、いつもの音とは違う。空気を切り裂く音が、やけに鋭く、重い。
俺はパンを放り出し、工房の外へと飛び出した。
錆びついた鉄骨が折り重なる街並みの向こう。鉛色の空を、一つの黒い影が切り裂いて落ちてくる。特定の区画を目指し、制御された落下。
あれは、ただのガラクタじゃない。高値で取引される、極上の「ジャンク」だ。
「リリィ、工房にいろ! 絶対に出るな!」
俺は叫び返し、スラグ・ダイバーの操縦席に飛び乗った。キーを捻ると、腹の底に響く重低音と共に、調整を重ねた内燃機関が唸りを上げた。
「行くぞ……!」
操縦桿を握りしめ、スラグ・ダイバーを発進させる。目指すは、落下地点である第7廃棄区画。街で最も危険だが、最も価値ある「お宝」が眠る場所だ。
瓦礫の道を猛スピードで突き進む。周囲からは、同じ獲物を狙う他のジャンク漁りたちの乗り物が立てるエンジン音が聞こえてくる。だが、俺のスラグ・ダイバーの機動性は、そこらの改造車とは訳が違う。
悪路をものともせず、ライバルたちを置き去りにしていく。
やがて、前方に濛々と立ち上る土煙が見えてきた。落下現場だ。
スラグ・ダイバーを急停止させ、操縦席から飛び降りる。
土煙が晴れたクレーターの中心に、「それ」は突き刺さっていた。
大型のエンジンブロックほどの大きさがある、黒曜石のように滑らかな金属の塊。見た目からして、重量は100キロは下らないだろう。
その中心部で、分厚い装甲に守られるようにして埋め込まれた青い石が、まるで瀕死の心臓のように、弱々しい光を放っては消え、消えては放っていた。
俺がその金属塊に手を伸ばそうとした、その時。
「待ちな、小僧」
背後から、野太い声が響いた。振り返ると、そこには体格のいい男をリーダーとした、5人組のジャンク漁りたちが立っていた。彼らの目には、あからさまな欲望が浮かんでいる。
「そいつは、俺たちが見つけた獲物だ。置いていきな」
リーダーの男が、肩に担いだ巨大な鉄パイプを誇示するように揺らしながら言った。
俺は彼らに背を向けたまま、ゆっくりと金属塊に触れた。ひんやりとした感触。だが、その奥からは、微かな機械の振動が伝わってくる。これは、ただの石や金属じゃない。イサルーンの高度な技術によって
作られた、一種の装置だ。
俺はゆっくりと振り返り、冷静に告げた。
「この街のルールは、早い者勝ちだ。違うか?」
その言葉を合図にしたかのように、男たちの顔色が変わる。じりじりと、俺を取り囲むように距離を詰めてきた。
俺は静かに腰のホルスターに手を伸ばし、自ら組み上げた愛用の武器――高圧蒸気銃を引き抜いた。
「……やるというなら、相手になる」
俺の静かな声が、ガラクタの山に響いた。
このガラクタは、何かを変えるかもしれない。俺とリリィの、このゴミ溜めでの生活を。その確信が、俺に一歩も引くことを許さなかった。この獲物は、誰にも渡さない。