第1話:猫、光る雷に打たれて少女になる。
「異世界転生」――それは、誰もが一度は夢見る、胸躍る冒険の始まり。しかし、もし転生したのが、ごく普通の「猫」だったら?そして、世界を滅ぼさんとする魔王もまた、「リス」だったとしたら?
これは、人間社会の常識も、世界の危機も、まるで理解しない二匹の動物が、それぞれの本能と気まぐれに突き動かされるまま、とんでもない魔法バトルを繰り広げる物語。
最強の力を持ちながら、その行動原理は「日向ぼっこ」や「木の実の備蓄」といった、あまりにもシンプルで脱力系。
そんな彼らを、人間も魔族も、大真面目に「神」や「悪魔」、「賢者」や「戦略家」だと誤解し、勝手に戦況を動かしていく。果たして、この壮大な「誤解」の連鎖の果てに、世界は救われるのか?あるいは、猫とリスの気分次第で、全てが終わってしまうのか?
~ニャンてこった! 異世界転生した元猫の私が世界を救う最強魔法使いに? ~
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ミーコは、ごく普通の三毛猫だった。
朝は飼い主の布団の上が指定席。
柔らかく温かい毛布に埋もれ、飼い主の寝息を子守唄に、ぬくぬくと目覚めるのが日課だった。
日差しが差し込むと、自然と体が動き出し、一番気持ちの良い場所――リビングの窓際や、廊下の隅にできる光の帯――を探してゴロゴロと転がる。
背中を床に擦り付け、伸びをしながら、満足げに毛づくろいに精を出す。ザラザラとした舌で毛並みを整える感触は、ミーコにとって最高の癒しだった。
午後は窓辺がお気に入りの場所だった。
外の世界はミーコにとって、手の届かない、しかし飽きることのない最高のエンターテイメントだ。
時折、電線に止まる小鳥をじっと目で追い、その小さな動き一つ一つに集中する。通りを走る車の音、遠くで遊ぶ子供たちの声、隣の家の犬の鳴き声。それら全てが、ミーコの耳には心地よいBGMとして響き、平和な午後の時間を彩っていた。
夜になれば、飼い主の膝の上で撫でられるのが至福のひとときだった。
飼い主の温かい手がミーコの背中を優しく撫でるたび、喉からは自然とゴロゴロと満足げな音が漏れる。その振動は、ミーコの全身に幸福感を広げた。しかし、ミーコは決してべったりと甘える猫ではなかった。撫でられるのに飽きれば、さっと膝から飛び降りて、知らんぷり。気まぐれに甘えては、飽きればそっぽを向く。そんな、どこにでもある、気ままな猫生を謳歌していた。
特に、日向ぼっこはミーコにとって最高の時間だった。
ポカポカと暖かい陽光を全身に浴び、うとうとと微睡む。毛並みが太陽の熱を吸い込み、体が芯から温まる感覚は、何物にも代えがたい安らぎだった。
夢うつつの中で、遠くから聞こえる車の音や、飼い主の話し声は、心地よいBGMに過ぎなかった。ミーコの世界は、温かく、柔らかく、そして何よりも安全だった。
しかし、そんな穏やかな日々は、ある日の夕暮れに突然終わりを告げた。
その日は、朝から空がどんよりと曇り、太陽の光は全く届かなかった。
午後には強い風が吹き荒れ、窓の外の木々が激しく揺れ動くのが見えた。空は鉛色に染まり、まるで世界全体が重苦しい毛布に覆われたかのようだ。
やがて、大粒の雨が窓を叩き始めた。パラパラという音はすぐにドドド、という激しい音に変わり、ガラスが震える。ゴロゴロと遠くで雷鳴が響き渡る。
ミーコは少しだけ耳をピクつかせたが、特に気にする様子もなく、窓の外の雨粒がガラスを滑り落ちるのをぼんやりと見ていた。雨粒が描く筋は、ミーコにとって小さな水の流れであり、それもまた、外の世界の面白い現象の一つだった。
だが、その雷は、これまでのものとは全く違った。
突如として、空が真っ白に染まるほどの閃光が走った。
それは、まるで夜空に巨大なカメラのフラッシュが焚かれたかのようで、ミーコの瞳に、稲妻が網膜を焼くかのように焼き付く。
視界が真っ白になり、何も見えなくなる。
その直後、轟音は、鼓膜が破れるかと思うほどに大きく、ミーコの全身を震わせた。家全体が揺れ、窓ガラスがビリビリと震える。まるで世界がひび割れるような、根源的な恐怖がミーコの小さな体を襲った。
ミーコは本能的に危険を察知し、身をかがめ、どこか安全な場所に隠れようとした。
だが、それよりも早く、窓を突き破るかのように、眩い光の柱がミーコを包み込んだ。
それは、温かい日向ぼっこの光とは全く異なる、冷たく、しかし圧倒的なエネルギーを秘めた光だった。全身が痺れるような感覚。まるで体がバラバラに分解されていくような、あるいは、別の何かに再構築されていくような、奇妙な感覚に襲われる。体が宙に浮き上がり、視界が真っ白に染まる。
「ニャ…?」
意識が遠のく中、ミーコはか細く鳴いた。それが、ミーコとしての最後の記憶だった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
ミーコは、意識が浮上する感覚に、ゆっくりと目を開けた。
まず感じたのは、体の違和感だった。いつもなら、柔らかい毛並みが体を覆っているはずなのに、今はツルツルとした肌触り。
そして、何よりも、体が重い。いつもは軽々と飛び乗れたはずの場所にも、この体では届かない気がする。手足が、いつもよりずっと長く、細くなっている。特に、後ろ足は、まるで棒のように長く、バランスを取るのが難しい。
「ニャ…?」
口から出たのは、聞き慣れない音だった。自分の声なのに、どこか違う。もっと甲高く、そして、何よりも……「ニャー」ではない。それは、まるで飼い主がミーコに話しかけるような、人間の言葉だった。
ゆっくりと体を起こそうとするが、四足歩行の癖が抜けず、体がぐらりと傾ぐ。
危うく転びそうになり、慌てて手をつく。その手も、いつもなら肉球と爪があるはずなのに、今は指が五本に分かれ、爪は短く切り揃えられている。肉球の柔らかい感触がないことに、ミーコはひどく戸惑った。
目の前には、見慣れない森が広がっていた。
見たこともない巨大な木々が、天を突くようにそびえ立ち、その葉は見たこともない鮮やかな色をしている。
地面には、奇妙な形をした植物が光を放ち、空気中には、これまで嗅いだことのない、甘く、しかしどこか異質な匂いが漂っている。
空には、一つではなく、二つの月が浮かんでいた。一つは白く輝き、もう一つは青白い光を放っている。
「ここ…どこニャ…?」
また、口から出たのは、人間の言葉だった。その言葉が、自分の意思とは関係なく口から出てくることに、ミーコは混乱を深めた。何が起こったのか、全く理解できない。
自分の体が、飼い主の家で飼われていたあのミーコの体ではない。まるで、飼い主が読んでいた少女漫画に出てくるような、華奢な人間の少女の体になっていたのだ。
「ニャ…!?」
もう一度、懸命に鳴こうとするが、出てくるのはやはり人間の言葉。どんなに喉を鳴らそうとしても、ゴロゴロという音は出ず、代わりに「なんで…なんで、人間の声ニャ…?」という、意味の分からない言葉が漏れるだけだった。
パニックになり、ミーコは無意識に、目の前の巨大な木に爪を立てようとした。いつものように、爪を研ぎ、自分の縄張りを主張する感覚で。
だが、その瞬間、ミーコの指先から、黒い稲妻のようなものが迸った。それは、先ほどミーコを包み込んだ光とは異なり、闇を切り裂くような鋭い輝きを放っていた。
「ニャッ!?」
驚いて手を引っ込める間もなく、黒い稲妻はミーコの目の前の巨大な木を直撃した。
ゴオオオオオオオッ!
耳をつんざくような轟音と共に、木はまるで豆腐のように、根元から真っ二つに切断された。
切り口は滑らかで、まるで鋭利な刃物で一刀両断されたかのようだ。
そして、切断された木の上半分は、信じられないことに、そのまま空へと吸い込まれるように、音もなく、跡形もなく消滅してしまった。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。
呆然と立ち尽くすミーコ。
自分の指先を見つめる。そこには、何も残っていない。ただ、少しだけ、指先がピリピリと痺れるような感覚があるだけだ。まるで、見えない爪が、何かを切り裂いた後の残像のように。
「これ…何ニャ…?」
目の前の光景は、あまりにも現実離れしていた。一瞬で巨大な木を切り裂き、消滅させる。そんなことができるはずがない。ミーコは、ただの猫だったのだ。そんな力が、自分にあるはずがない。
しかし、その時、ミーコの脳裏に、飼い主がよく見ていたテレビゲームの画面がフラッシュバックした。飼い主がコントローラーを握り、画面の中で派手なエフェクトと共に「スキル発動!」と叫んでいた、あの光景。
『スキル:猫の爪(次元斬)を発動しました!』
まるで、ゲームのシステムメッセージが直接脳内に響いたかのような感覚だった。
「ニャ…?」
ミーコは、自分の身に何が起こったのか、まだ理解できていなかった。ただ一つ分かったのは、この体は、以前のミーコの体とは全く違う、とんでもない力を持っているらしい、ということだけだった。
そして、その力は、猫であるミーコの本能に、あまりにも忠実だった。