エルサリオン・カイレンドール 1
彼と出会ったのは、逃げるようにたどり着いた王城の片隅に設けられた温室だった。
使用人たちからも忘れられた、古ぼけた設備ばかりが並ぶ。
ガラス張りの建物に、手入れもされず自由に葉を伸ばす植物たち。
三代ほど前の王妃がこよなく愛した胡蝶蘭を育てる為に建てられたが、不幸な事故により亡くなった後は、亡霊が彷徨っていると噂され、誰も寄り付かなくなってしまった。
何度か建て直しの話も出たが、相次ぐ事故でその話もすっかり消えた、という王城勤めの使用人たち十八番の怪談だ。
侍女たちの私に対する陰口と『幸運の王女』にまつわる話を耳にした私は、心を落ち着ける場所としてここを選んだ。
「ここに人が来るとは珍しいな」
聞き慣れない声に顔をあげる。
私が腰掛ける蔦の覆うベンチからちょうど木に隠れる場所に、一人の青年が立っていた。
銀色に輝く髪、冷たさを感じさせる蒼の瞳。
真っ白な肌と長く尖った耳に、黒色の魔法使いのローブ。
鬱蒼とした温室の雰囲気も相まって、まるで幽霊のようだった。
「静かで人の来ない場所があるとしたら、ここしか思い浮かばなかったんです。邪魔でしたら出て行きますが……」
「構わん。元より、ここは俺が管理しているわけではないからな。自由にすれば良い」
なんだか偉そうな人だな、というのが第一印象だった。
じっと見つめるのも失礼な気がして、手元に視線を落とした。
何も喋らないでいると、侍女たちの言葉が蘇ってくる。
無能、役立たず、身の程知らず。
彼女たちの言うことは、ひどく辛い言葉ばかりだけど、事実だ。
国の頂点に立つ者に、未熟は許されない。
他の諸外国に侮られたなら、侵略や戦争のきっかけになる。
優れていて欲しいと思うのは、当然のことだ。
手を抜いているつもりはない。
ただ、それでもやはり努力の限界は存在する。
その最たるものが魔法だった。
「話してみろ」
いつの間にか、隣に青年が腰掛けていた。
こちらに視線を向ける事もせず、ただ静かに私の言葉を待っていた。
「わ、わたし、何も上手く出来なくて……魔法なんて、特に術式を構築しているうちに何が何だか分からなくなってしまって……」
泣くつもりはなかったのに、鼻の奥がツンと痛む。
零れ落ちた涙は、服の裾を濡らす事もなく宙に浮いていた。
キラキラとした光の粒子に変わり、柔らかな微風が頬を撫でる。
「この温室には、妖精が住んでいる」
「では、この現象は妖精が?」
青年は頷いた。
「妖精が人間を気遣うのは珍しい事だ。大抵は陰鬱な気配を察すると逃げてしまうものだが……」
光の粒子が、蝶の形へと変わっていく。
小指サイズほどの小人が、蝶の翅を優雅に羽ばたかせながらくるりと宙を舞う。
「優しい妖精なのですね、気にかけてくれてありがとうございます」
妖精は誇らしげに胸を張ると、そのままヒラヒラと何処かへ飛び去ってしまった。
「妖精は気まぐれだ。満足したのだろうよ」
「ふふ、自由気ままは妖精の代名詞ですね」
妖精は、綺麗な花畑や澄んだ湖畔を好む。
悪戯好きで、気まぐれに道に迷う旅人を助ける事もある。
人前に姿を現す事も珍しい。
「魔法の事なら少しは相談に乗れる。だからあまり思い詰めない方がいい」
少しぶっきらぼうに優しい言葉をかけてくる青年の恥ずかしさを誤魔化す素振りがなんだか面白くて、くすくす笑ってしまう。
居心地悪そうに口を固く結ぶ青年は、名前を名乗った。
エルサリオン・カイレンドール。
ただのしがない魔法使いだ、と。
◇◆◇◆
エルサリオンとの交流は週に一度。
昼過ぎの時もあれば、なんだか眠れなくて深夜に温室を訪れる事もあった。
私が温室に踏み入れると、彼が姿を現す。
妖精が知らせてくれるのだと、彼は語っていた。
妖精の話、彼の故郷の話、歴史の話。
魔法の理論に、術式の構築。
エルサリオンの語り口は淡々としているのに、内容が面白くて時間を忘れそうになってしまう。
時折、彼が私の顔をじっと見ている事があった。
汚れがついているのか、それとも変な顔をしていたのか。
気にする私に、彼は素っ気なく『なんでもない』と答えるばかりだった。
そんな時、決まって温室の鬱蒼と茂った木々が一斉に花を咲かせる。
ヴェリジア樹。
エルサリオンがこの国に働き始めた時に、王家に献上した苗木。
今では温室を埋め尽くすほどに生い茂っている。
うっすらと透ける水色の花弁に月明かりが反射し、妖精の鱗粉がキラキラと虹のように煌めく。
「ヴェリジア樹、妖精の力で咲く花でしたね」
エルフの里でしか見かけられない珍しい樹。
忘れられた温室に、そんな貴重なものがあっていいのかと思ったが、エルサリオンによれば、人に囲まれすぎても枯れてしまうという。
秘匿されたものは、そのままに。
「ああ。人の為に咲いたのは、俺が知る限り初めてのことだ」
数え切れないほどの妖精が、温室を自由に飛び回っている。
妖精たちは私に会いに来ているのだとエルサリオンが教えてくれた。
残念ながら私には妖精の話す言葉は聞き取れないが、それも妖精たちにとっては物珍しくて面白いらしい。
「────まだ、お前のことを悪く言う者たちがいるのか」
エルサリオンの問いかけに私は目を伏せる。
膝の上に置いていた手の上に、彼の手が重ねられた。
「君が心を痛めてまでその環境に身を置く必要はない。君が望むなら、俺は……!」
ああ、そういえば。
エルサリオンは、私の名前を知らないし、立場も知らない。
だからこそ、私を見て、発してくれた言葉だった。
「ありがとう、エルサリオン。でも、逃げるわけにはいかないの」
エルサリオンの顔が歪む。
決して、そんな表情をして欲しいわけではないのに。
「なら、せめて君の名前を。君の助けになりたいんだ。俺の立場なら、君を悪く言う奴らを排除できる────」
「上に立つ者が、軽々しく言う発言ではありませんよ」
物騒な発言を遮って、釘を刺しておく。
まさか実行に移すことはないと思うが、念のため。
少し、彼と仲良くしすぎたのかもしれない。
「私の名はリーシア・フォン・ド・ガルゼンティア」
慌てて臣下の礼を取るエルサリオン。
私たちの関係性は、変わってしまった。
もうこの温室で話すことはないだろう。
「これまでのご無礼をお赦しください、殿下」
私は一抹の寂しさを隠して、ゆっくり首を振った。
「ここでの出来事は、私たちの心の中に留めておきましょう」
────お互いのために。
そう言えば、エルサリオンは青ざめた顔で項垂れた。
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