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幸運の王女(アルスラ視点)

 アルスラ・フォン・エルバトランは母から嫌われている。

 理由は単純明快だ。

 血縁上の父親は、かつて母アリアが心酔した子爵であり、より若くて顔の良い方を選んだからだった。


 アリアと子爵は、顔が似ていた。

 だから、二人の間に生まれたアルスラは、エルバトラン伯爵の血を引いていないにも関わらず、不貞行為が発覚する事はなかった。


 アリアは、夫を憎んでいた。

 口を開けば領地、経営、節約。政略の為に行われた結婚に愛はなく、自由で贅沢な暮らしができるとほくそ笑んでいたアリアにとって、平然と流行遅れのドレスを着るように進めてくる夫への熱はとっくに冷めていた。


 アリアは、増長していた。

 女心も分からない、仕事ばかりの夫に放置される哀れな妻。

 天気のいい日にため息を吐けば、顔の良い男たちが優しい言葉をかけてくれる。

 公爵とそういう関係になるのも、必然の展開だった。


『アルスラ。お前がどれだけ頑張っても、この屋敷の当主になれないわ。どうしてか気になる? それはね、ふふ、あなたの父親はあいつじゃないから! あぁ、いつバラしてやろうかしら!』


 アリアは、人の心を傷つける事が好きだった。

 最初は反抗していても、直に心が折れていく。心を守る為に表情を無にして黙るけれど、それでも心が傷ついている。自分よりも弱い相手が、決して逆らえない状況で虐げるのが、なによりも好きだった。

 しかしその栄華も、他ならぬアリア自身の愚行と、王女リーシアによって呆気なく終焉を迎えた。





◇◆◇◆





 屋敷の地下には、牢獄がある。

 一族の中で大罪を犯した者を、処分が決定するまで拘留する為に作られた空間だ。

 寝具も敷かれていない石造りのベッド、はめ殺しの窓に鉄製の扉。決して快適とは言い難い空間だ。


 元から評判の悪かったアリアの元へ訪れる者はいない。

 夫ですら、投獄の時に見たのが最後だった。


 かつん、かつん、と階段を降りる革靴の音。

 夫よりも軽い足音に、やつれた顔のアリアが視線を上げる。

 そこにいたのはアルスラだった。


「母上、お加減はいかがですか?」


 静かに微笑みながら、銀のトレーに水の入ったコップとパンを載せている。

 差し入れ用の小窓から、焼きたてのパンと水をアリアに差し出す。


「遅いわ、アルスラ! 例のアレはどうなったの!?」


 キンキンと鼓膜を貫く高い声でアリアが叫ぶ。

 アリアを捨てた男の顔に似て、発言や行動は父に似ている。

 我が息子ながら、会う度に腹が立つ。

 アリアは歯を食いしばる。


「例のアレ? ああ、この牢から脱出する方法ですか。もちろん逃走ルートを見つけましたよ」


 アリアの表情が、般若の如く歪んだものから、醜悪に笑むものへと変わる。


「そう、ならいいわ。今回は許してあげる。あのクソ男も、あのクソあばずれ王女も、絶対に復讐してやるわ。ふん、何が幸運の王女よ。疫病神じゃないの!」


 夫への不満、王女の陰口を叩く。

 その場限りの溜飲をさげたアリアは、脱出の為に腹に物を入れることにした。


 焼きたてのパンは酷く乾燥していて、口の中の水分を奪う。

 乾いた喉を潤す為に、透明なコップに注がれた水を一気に飲み干した。

 喉に流れ込んだのは、冷たい水ではなく、粘膜を蹂躙する熱。


「ぐ、あっ!」


 激しく咳き込み、涙を流すアリア。

 気管支に入り込んだ液体は、激しい痛みをもたらす。






「生きている価値のないクズが」


 地を這うほどに低く冷たい声。

 いつも微笑むばかりで言いなりでしかなかったアルスラが、無表情でアリアを見下ろしていた。


「ふふ、愚かで馬鹿なアリア!」


 毒を盛られた。

 ある程度の毒に慣れている体でも、明確に死へ向かうほどに強い毒。

 無味無臭で、四肢への痺れもない。


 アリアは恐怖に涙を流した。

 死ぬのか、私は死ぬのか。

 こんな馬鹿な事で、息子に騙されて!


「あなたはここで死ぬんです」


 アルスラが、アリアの問いかけに答える。

 慈悲の天使によく似た美しい笑顔を、整った顔に浮かべて。


「ですがご安心ください、これからあなたは療養する為に故郷へ帰る為に最新の船に乗るのですが……ふふ、ふふふ、可哀想な事に、海賊に襲われて船ごと海へ沈没!」


 三日月のように、アルスラの口が裂ける。

 爛々と目を輝かせ、上擦った声で早口に捲し立てる。


「ああ、大変でしたよ、短期間でここまで根回しするのは! でも、これまでの僕の振る舞いとアリアの愚かな行動のおかげでなんとかなりました。ああ、そんな事より聞いてください! 僕、恋をしたんです、リーシア様、僕の可愛いリーシア! 僕だけの、理想のお姫様!」


 支離滅裂な発言。

 喉の痛みにのたうちまわりながら、アリアは掠れた声で呻く。


「ば、ばけもの……」


 ピタリとアルスラの口が止まる。


「じつのははに、どくをもるなんて……!」


 アルスラの頭が、ぎこちなく傾いた。


「でも、邪魔なので死んで欲しいんです。だって生かしておいたら、僕のリーシアに手を出すでしょう?」


 それから、アルハラはにっこり笑う。


「僕、あなたに構っている時間はないんです。他にも始末しないといけない愚かな虫が、あと三匹も集っているんですから。ああ、早く始末しないと、あのお方の隣にいるべきなのは僕だけなのに」


 薄れゆく意識の中、アリアは悟る。

 これまで息子は抵抗しなかったのではなく、する意味がなかったから耐えていただけだった。

 大義名分を獲得した今、暴走を始めたアルスラを止められる者はいない。


 ────ああ、わたしの若い頃に、本当にそっくり。


 そこでアリアは事切れた。






 アルスラにとって、母は邪魔な存在だった。

 勉強に励む時間を説教で妨害してくる。

 無視すると脅してくるから、不愉快でたまらなかった。


 アリアの排除を提案したのも、アルスラだった。

 婚約の障害となるものを取り除くのに、まったくの抵抗はなかった。

 根回しを行い、アリアへ深い恨みを持つ使用人を選び、準備を済ませる。困難なそれを、アルスラはいとも簡単に成し遂げた。

 リーシア王女のそばにいる為だけに。


 幸運の王女。

 恵まれた才能も気品もなく、他に兄弟姉妹がいれば真っ先に後継者から外されていた無能。その地位に留まっているのは、公爵も含めて王戚のほとんどが問題児であったから。

 だから、幸運の王女。身の丈に合わない地位に縋り付く愚かな王女。


「リーシア、僕に幸運を運んでくれた、理想のお姫様……!」


 無礼を働いたアルスラを許した、優しい声。

 政治学の話を理解しようと懸命に耳を傾ける姿。

 気遣う視線と言葉。

 怯える顔と震えた手。


 愛されたいという願望と、理解してくれるかもしれないという期待と、守りたいという庇護欲。

 アルスラの歪んだ理想を押し付け、恋焦がれるのにまさにうってつけの存在がリーシアだった。


「他の男たちを、必ず排除してやりますから」


 薔薇の鑑賞会で交わした言葉のやり取りを記したノート。

 一言一句書き残したリーシアの言葉を指でなぞり、アルスラはうっそりと微笑む。


 きっとアリアの死を知ったリーシアは、アルスラを気遣うだろう。

 立場が弱く、婚約によって辛うじて地位を繋ぎ止めた。

 そんなアルスラの願いを、彼女は決して無碍にはできない。


「綺麗で優しいリーシア様、政治は僕にお任せください。人殺しの咎も、誰かを貶めるのも、僕なら完璧に熟せますから」


 優しく微笑むリーシアの、暖かい眼差し。

 その為なら、アルスラはどんな禁忌だって犯せる。


「さあ、誰から排除しましょうか。……ああ、まずはリーシア様に馴れ馴れしいエルサリオンからにするべきでしょうか」

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