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アルスラ・フォン・エルバトラン 2

 エルバトラン伯爵家の庭園は、王城の庭園に引けを取らないほど豪華だった。

 ガゼボに設置されたガーデニングチェアとテーブルには、高級な茶葉が使われた紅茶とパティシエの作ったケーキが並べられている。


「こちらは南方で見つかった新種の薔薇ですわ。この美しい青い花弁は、現地での逸話によると女神の涙が変じたものだと言われておりますのよ」

「女神シャリティアの神話ですね、王都での観劇に採用されるほどに美しい愛の物語でした」

「まあ、王女殿下もご覧になりましたのね。私、あの話が大好きですの!」


 自慢の薔薇庭園を褒め、シャリティア神話に花を咲かせていると、アリアの機嫌が治った。

 アルスラは静かに微笑むばかり。会話に相槌を打つが、話に入ってくる事はなかった。


 紅茶を半分ほど飲み終えた時、エルバトラン伯爵家の執事がアリアに耳打ちする。

 アリアの表情が、僅かに崩れた。


「まあ、どうやら急な来客があったみたいです。私、対応する為に少し離席しますわ。アルスラ、王女殿下をどうか退屈させないでちょうだいね」

「はい」


 アリアがそそくさと庭園を立ち去る。

 私の護衛たちが素早く目配せしている事に気がついた。

 隣に控えていたマナー講師の表情も堅い。


 主催者が、招待した賓客を放置して、別の来客の対応を優先する。

 これはマナー違反どころか、トラブルへ発展する振る舞いだ。

 有力な貴族が王女の対応よりも他を優先したとなれば、反逆の意思ありと看做される事もある。連座での処刑なんて、ありふれているのだ。


 背筋を、乾いたばかりの冷や汗が流れる。

 どうにかしなければという気持ちはあるが、ここでアリアを追いかければ護衛たちが行動する理由を与えてしまう。


 どうにか、ここに留まる理由を考えないと。


「……アルスラさん、不躾な切り出しで申し訳ないのですが、政治学は得意ですか?」

「帝王学、統計学、数学、政治学のなかでは二番目に成績が良いです」

「まあ、ではアルフェルマー理論についてご存知でしょうか」


 つい最近、政治学の講師から『アルフェルマー理論の理解につまづいている』と評価を受けたばかりだった。文字ばかりの教本を読む気がおきず、基礎が出来てない私はテストの結果も酷いもの。


「アルフェルマー理論は西方諸国から亡命してきた政治学研究者が提唱した理論ですね。その領地の治安は、税率と領民によって左右されるというもので────」


 アルスラは、まるで水を得た魚のようにすらすらと話し始めた。

 講師よりも難解な言い回しや語句が多く、早口で捲し立てるので追いかけるので精一杯だった。


「────アルフェルマー理論には問題も多く、移民や反社会的勢力などの影響力を考慮しないどころか、名産を持たないといった領地の抱える問題を軽視するばかりで────」


 おお、止まらない、止まらない。

 それはもう、堰を切ったように、次々と論じていく。


「────王国暦百二十年、第二次スレヴァ戦役にて、アルフェルマー理論が見直され、数学者セロ・アルカイヴァンにより反社会的勢力なども数値として組み込んだアルフェルマー理論が展開されると当時の国王フィリップが各地に課していた人頭税への反発が高まり────」


 いきいきとした顔で、アルスラは語る語る。

 王女を相手に、王家の黒歴史を事細やかに説明していく。


「……あっ」


 アルスラが、慌てて己の口を手で塞ぐ。

 勢いよく俯くなり、ぷるぷると震え始めた。

 恥ずかしいのか、耳まで赤く染まっている。


「アルフェルマー理論について何も見ずに語れるのですね。私、フィリップ王の暴走を諌める為に使われたアルフェルマー理論が、上手くレポートに纏められなくて参っていましたの。アルスラさんの話を聞いていると、理論だけでなくて歴史も説明できないとダメだと思いましたわ」


 恐る恐るといった様子で、アルスラが顔をあげた。

 怒られる事を予想しているかのような、怯えた表情。きっとこれが、彼の素なのだろう。


「他にも質問してもいいかしら?」

「……王女殿下の御心のままに」


 アリアの振る舞いに眉間に皺を寄せていた護衛たちも、アルスラの怒涛の解説に毒気を抜かれたのか、沈黙を選んでいる。

 ひとまず血が流れずに済んだ事にホッと胸を撫で下ろした。

 この調子でアリアが戻るまで、時間を稼ごう。

 さすがにすぐに戻るだろう……。


「で、ではガリヴァール=オルトレンの双軌協調理論なのですけど……」






◇◆◇◆




 苦し紛れに授業でつまづいた、というより私が飽きて放った難しい課題について質問した。

 アルスラは、初めこそ冷静に説明していたが、時が経つにつれ解説に熱が入り、使用人たちに教本を取りに行かせるほどであった。

 紅茶のポットを二つほど飲み終えた頃にもなると、真上にあった太陽がすっかり傾いていたが、アリアが戻ってくる事はなかった。


「長居してしまって申し訳ありません」


 げっそりした顔のマナー講師、疲労が微かに見える護衛たち。

 玄関ホールまで見送りにきたアルスラは静かに首を振った。


「いえ、謝るべきは我々エルバトラン伯爵家の方です。今後はこのような事がないよう、当主に報告させていただきます」


 そして、アルスラは優雅に片膝を折ると、私の左手を取って軽く額に手の甲を押し当てる。

 臣下の儀礼であり、敬愛を意味する。

 見上げた彼の目はどこか真っ直ぐで、自己紹介した時とは別人のようだった。


 政治学に興味があると誤解されているのかもしれない。

 アリアの時とはまた違った冷や汗が、つうと背中を伝う。


「リーシア王女殿下と過ごしたひと時は素晴らしいものでした。またお会いできる日まで、自己研鑽に励みます」

「あ、ありがとう……私も政治学の勉強を頑張りますわ」


 引き攣る頬を無理やり動かし、なんとか微笑みを作る。

 別れの挨拶を済ませ、玄関ホールを退出しようとした時だった。


「ねえ、もっとゆっくりしていきなさいな」

「いい加減にしてくれ。君とは今日で最後だと言ったはずだ」


 追い縋る甘ったるい女の媚びた声と、苛立ちを隠さない男の声。

 廊下を足早に歩いてきたのは、見覚えのある顔だった。


「叔父のラッセル公爵……?」


 母の弟、つまりは私の叔父に当たる人物。

 はだけたシャツから色濃い情事の痕跡が赤い花びらとして散った、なんとも目のやり場に困る格好。

 その後から姿を現したアリアは、脱げかけたドレスと乱れた髪を汗が滴っているという、どう見ても事後の姿であった。


「……」

「……」

「……」

「……」


 私、アリア、ラッセル公爵、アルスラが黙り込む。

 お互いに状況への理解が追いつかず、目の前の情報を処理しようと必死になっていた。


「ちょうどお暇するところでした、アリアさん。本日はお招きいただき、ありがとうございました。それでは、私はこれで失礼しますね……」


 ギクシャクとした動きでカーテシーを披露し、その場を去ろうとする私を引き留めたのは、ラッセル公爵だった。

 母に似た栗色に金のメッシュが入った髪を片手でかきあげ、胸を張りながら威風堂々と口を開く。


「待て、リーシア。これは誤解だ」

「この件に私を巻き込まないでもらいたい!」


 腕を掴もうとするラッセル公爵から慌てて距離を取る。

 紳士的な叔父というイメージ像が、がらがらと音を立てて崩れていく。目の前にいる男が、頼れる年上の男性から情けない男へと変わるのに時間は掛からなかった。

 尚も一歩を踏み出す公爵と、逃げ場を失いつつある私の前に立ちはだかったのは、今日会ったばかりのアルスラだった。


「公爵閣下、その穢れた手で殿下に触らないでもらおう」


 バシン、と公爵の手を叩き、壁に飾られていた儀礼用のレイピアを構える。

 護衛たちが腰に差した剣を抜こうとしたのを見て、私は思わず叫んだ。


「だ、誰か公爵を止めて!」


 護衛たちが一斉に公爵を取り押さえる。

 剣を抜かなかったのは、屋敷内での抜刀に躊躇いを覚えたのと、相手が丸腰どころか半裸だったからだろう。


「いや、やめて!」


 護衛を引き剥がそうとしたアリアも、あっさりと護衛に組み伏せられた。


「これは何の騒ぎだ! 誰か説明しろ!」


 そして、最悪なタイミングで屋敷の主が帰還した。

 玄関の扉を開けるなり、王女の護衛が妻と公爵を取り押さえているのだから、困惑して説明を求めて叫ぶのも仕方ない事だった。

 エルバトラン伯爵の視線が夫人の服装と公爵の首元を捉え、驚愕に目玉を剥く。


「な、な、な、なにを、馬鹿な、こんな事が!?」


 護衛たちが伯爵に事情の説明を始める。

 アリアや公爵が叫んで妨害しようとしたが、その振る舞いに騙されるような伯爵ではなかった。


「大丈夫ですか、王女殿下」


 アルスラに声をかけられた事に驚いて、肩がビクリと跳ねる。

 手を握られた時になって、初めて己が震えていると気づいた。


「あ、ありがとう、アルスラ。さっきは助けてくれて、本当に助かりました」


 男性に腕を掴まれるのが、どうしても苦手だった。

 前世でもそうであったように、今世でもなかなか克服ができない。

 手や肩ならさほど気にならないのだけど、腕だけはどうしても拒否反応が出てしまうのだ。


「騒動が落ち着くまで場所を変えて休憩しましょう」


 アルスラは、実の両親たちが泥沼の夫婦喧嘩と不倫発覚の修羅場を迎えているというのに、落ち着いた口調で使用人たちに指示を出す。

 色々と疲労が溜まっていた私は、護衛を伴わなければ屋敷から出て帰ることもできないので、もう考えるのが嫌になったのも手伝ってお言葉に甘える事にした。

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