ラグナ・ブラッドファング 5
魔獣の死骸を回収を終え、王宮に戻った私を出迎えたのは、父の側近である宰相だった。国王と王妃を狙った暗殺未遂事件に巻き込まれ、彼自身も腕を切り落とされるほどの重傷を負い、危うく命を落としかけたらしい。
「申し訳ありません、殿下。通信官より状況を伺っておりましたが、なにぶん陛下を狙った犯人の目星さえついていない状態でして」
宰相の言葉に私は首を横に振る。
「いいえ、今この状況であれば父上を優先するべきです。それで、実行犯の所在は?」
「暗殺に失敗したとみるや、自害しました。実行に移す前に毒を呷っていた模様です」
実行犯は失敗しても成功しても死ぬつもりであった事を知り、口から出かけた悲鳴を飲み込む。
「なんと、なんと惨い事を……」
「殿下、魔獣討伐より戻られ疲れも癒えていない状態だとは存じあげておりますが、どうか陛下ならびに妃殿下にお会いください。医術師より、二人はもう長くはないと」
父と母が死ぬ。その事実に目の前が暗くなって、呼吸さえ出来なくなる。二人がこんなに早く死ぬなんて、想像もしてなかった。ましてや、暗殺されるなんて。
「殿下、お気を確かに」
倒れかけた体をエルサリオンに支えられる。
その腕に縋ろうとして、思いとどまった。
今日は満月ではない。彼の力を頼る事はできない。
「ありがとう、エルサリオン。ごめんなさい、気が動揺していたわ」
父と母に、会いに行かなくては。
二人を安心させられるのは、私しかいないのだから。
もつれる足で、長い王宮の廊下を走る。
王族としての気品など、もはやどうでもよかった。
後ろを追いかける婚約者たちは何も言わず、両親が待つ寝室へ付き添ってくれている。
観音開きの重い扉を、先回りしたカイザルとラグナが開いてくれた。
頬を滴り落ちる汗をアルスラが白い絹のハンカチで拭い、上がり過ぎた体温をエルサリオンが魔法の風で冷やす。
首に包帯を巻いた父と、今もなお血を吐く母の姿がそこにあった。
周囲の医術師が懸命に治療を試みているのに父の包帯には血が滲み、ベッドを濡らしていく。母は何度も咳き込み、その度に口元を押さえるタオルには鮮血が伝い落ちる。
「父上、母上」
二人が気だるそうに視線を私に向けた。
いついかなる時もしゃんと背を伸ばし、毅然とした振る舞いをしていた両親が。
避けようのない死の気配に、私は生まれて初めて慄いた。
前世の記憶でも、死んだのは私だけだった。
それも事故でわけもわからないまま即死したから、正直に言うと実感はあまりなかった。
平凡で『幸運な王女』と嘲られていた私の統治を恐れて暗殺するなら分かる。でも、どうして賢王と名高い父と慈悲深い王妃で知られた母を暗殺する必要があったのか。
「リーシア」
威厳も何もない、呼吸一つで消されてしまいそうなほどにか細い父の声。母は咳き込みながらも体を起こそうとしたが、医術師に止められていた。
「リーシア、ここへ。もう、目が見えないんだ。声なら、辛うじて聞こえるが」
震える足で、両親の横たわるベッドの側に近づく。
差し出された父の手を、ひとまず握った。
「人払いをしてくれ。政治に関する遺言はとうに作成して金庫にしまってある。これから話すのは、家族としての極めてプライベートな事だ」
私は頷いて、周囲の者たちに退室を命じた。
もはや治癒の見込みはないだろう。医術師は涙声を隠しながら頭を下げ、部屋を出ていく。
「婚約者たちも、外で待機させてくれ」
父の言葉に反発する者たちがいた。
出て行けと言われた、エルサリオン、カイザル、アルスラ、ラグナの四人である。
「お言葉ですが、殿下の安全をお守りするのが騎士である俺の役割です。いくら陛下ならびに妃殿下の寝室であれど、殿下を一人にするわけにはいきません」
ラグナの主張に追随するように、エルサリオンが頷く。
「いかにも。俺の魔法ならばお二人を救えるかもしれない。さあ、殿下お下がりくださ────」
「ならぬ!国王の命令を聞かぬとほざくか!」
ラグナに続こうとしたエルサリオンの言葉を、父が遮った。
口から血が飛び散り、周囲のものを汚していく。
こんな苦しい思いをしてまで、私に何かを伝えようとしている。父の願いを、私が叶えなくてどうするのか。
「四人とも、部屋を出なさい」
「し、しかし、殿下のお側にあるのが私の役目────」
しつこく食い下がるカイザルと、尚も反発しようとするアルスラ。
四人を纏めて睨む。
「ならば、婚約破棄しますか?今、ここで」
ぐっ、と四人が黙り込んだ。
数秒の後に、絞り出すような声でエルサリオンが呻いた。
「陛下のご命令かつ殿下のお望みとあらばしょうがない。しかし、部屋の外で我々は待ち、魔法での警備はさせてもらいます」
「それで構わん。疾く部屋から去れ」
不承不承といった様子を微塵も隠す気配もなく、四人は部屋を出ていく。扉が閉まるその瞬間まで、彼らが見ていたのは父でも母でもなく、私の顔で。四人がなにやら得体の知れない不気味な存在に思えて仕方なかった。
「リーシア、すまない。愚かな私たちをどうか許してほしい」
「いえ、いえっ!父様と母様の何が愚かだというのですか。お二人の窮地に遅れて駆けつけた私の愚かさを罵ってくださいませ!」
父の手が、私の手を握り返す。
「いいや、リーシア、お前は何も悪くない。責められるべきは私たちなのだから」
「父、さま……?」
「謝っても済む問題ではないのは分かっている。こうなったのも、全ては私の責任だ。リーシア、私はお前が歴史に名を残せないと気づいた時に絶望したのだ。だから、我が妻ナタリーに提案したのだ。古の伝承を再現してリーシアを永遠にしよう、と」
父の目から涙が一筋こぼれ落ちる。
「永遠に統治すれば、やがてはお前が正義となる。リーシア、私はお前に人類の夢である不老不死を実現させて、永遠の誉れを与えてやりたかったのだ」
「父様、何を仰っているの?」
「エルサリオンの力を知ったのは、つい最近の事だ。初代国王に並ぶ逸話があれば、お前の統治に意を唱える者はいなくなる。だからお前たちを引き合わせたのだ、我が母の怨念が残る温室を使って」
理解が、できない。
父の発言が、何一つ分からない。
頭が、理解を拒んでいた。
「アルスラと出会うように画策したのは、お前の母ナタリーだ。政治や経済に関して類稀な知識と才覚を持つ者がいれば、お前の統治はより盤石なものになる。カイザルは人の愛に飢えている。お前の事を知れば必ず恋に落ち、あらゆる行為に躊躇なく着手するのは目に見えていた。ラグナは生まれる前から私が遺伝子に手を加えた。お前を番と認識するように……全てはリーシア、お前が王となる為だ」
自分の呼吸が浅くなるのを止められなかった。
婚約前から、全て仕組まれていた。
この状況に至るまで全てが掌の上だったという事実が、私の理解の範疇を大幅に超えた。
「人の心を、人の心をなんだと思っているのですか……」
これは、本当に私の父なのだろうか。
確かに父は冷徹で、仕事に注力する人だった。
でも、私に寄り添ってもくれた。
私の知る父と、目の前で独白する父の姿がどうにも重ならない。
「私にとって、それが最良の選択肢に思えたのだ。そして、今も間違ってはいないと思っている」
怯えて手を離そうとする私を父は力強く掴む。
「怯える事はない、リーシア。私はお前が王位を継げれば、それで良いのだ。その為に、私はこの体を捧げた」
酸素不足の思考がぐるぐると回り始める。
視界が滲み、歪むのをどうしようもできない。
「……私は、王として生まれた。王として死ぬのだと、幼い頃から思っていた」
滔々と語る父の言葉を聞く事だけで、精一杯だった。
「国交のため、ナタリーと政略結婚をした時も、そこに私の心はなかった。リーシア、お前が生まれるまで私は人ではなかったのだ」
父であろうとした怪物の言葉を遮る勇気が、私にはなかった。
「お前に王としての才能がないと悟ってしまったあの時、私は激しく絶望した。栄光を保証できない、人の身である己を呪ったものだ」
母が手を伸ばして、もう片方の父の手を握った。
「国の為と嫁ぎましたが、げほっ、私は貴方が大嫌いでしたよギルバート。ですが、リーシアが生まれたのは私の喜び……げほっ、ごほっ……はあっ、はあっ、我が国の伝承を再現した儀式で、げほっ、リーシア、あなたは永遠に国の王となるのです」
母の囁き声。寝物語に聞いた伝説を思い出してしまう。
傲慢な王が四人の女神を妻に迎え入れ、永遠に玉座に君臨しようとする話だ。結局は女神たちに欲深な本性を見抜かれ、王は呪いによって地獄に堕とされる。
「お前に降りかかる災いを私たちに、この国に住まう者すべてから魔力を集め生命を維持する術式を作り上げた。もはや何者にもこの儀式を止められまい。我々にすらどうしようもないのだから」
そこで、ようやく二人が何を言いたいのか理解できてしまった。
「じゃあ、父様と母様は、ずっとこのまま……?」
「ええ、ずっとずっとこのままよ」
「私たちはずっとここでお前を守ろう。あらゆる死の脅威から」
膝から崩れ落ちるのを止められなかった。
繋がれた手に伝う血のぬるぬるとした感覚が、どこか遠い。
────私が未熟だから。才能がなくて、頼りないから。
どうしようもないから、こんな事になってしまった。
胸が締めつけられる。
けれど、同時に胸の奥に微かな温もりも芽生える。
だって、父と母は言った。
「お前を守るためだ」と。「お前に永遠の誉れを与えるためだ」と。
私のことを思い、どこまでも手を伸ばした果てに怪物の道を選んでしまった。
歪んだ愛情だと、頭では理解できる。
けれど、心の奥底では「私のために」と願ったその思いを、どうしても憎みきれなかった。愛されていたのかもしれない。でも、同時に操られてもいた。
その両方の思いが渦を巻いて、思考が引き裂かれて涙が溢れて止まらなかった。
泣いてはいけない。王女なのだから、気丈に立たなくてはならない。
そう思えば思うほど、堪えていた嗚咽がこぼれてしまう。
「すまない、リーシア。私たちでは、これ以外にお前を守る方法がなかったのだ。どうか苦しまないでくれ、私たちは全て承知の上でこれを選んだのだ」
父の声が耳に届く。
私は首を振りながら、心の奥でぐしゃぐしゃに絡まった思いを必死にほどこうとした。
愛なのか。呪いなのか。
私は守られているのか、それとも囚われているのか。
分からない。
ただ一つ確かなのは、この瞬間から私はもう「子どものまま」ではいられないのだということだった。
「父様、母様、私はこんな事を望んでいたのではありません。二人を犠牲になど、したくはなかった……!」
父が目を閉じる。食いしばった歯から、苦痛に満ちた呼吸が漏れた。
胸元を押さえて激しく咳き込む母の姿はどこまでも痛々しい。
二人は死ぬ事すらできないのだ。私の為に古の伝承を再現したせいで。
「この選択に後悔はない。何度でも、きっと私たちはこれを選んだ。ただ一つ、心残りがある。私たちの想定外と言ってもいい」
父が緩やかに目を開ける。
白く濁った瞳孔は、天井を睨みつけていた。
「リーシア、お前の婚約者たちに神性が宿ってしまった事だ。本人たちも今までは無自覚であっただろうが、その片鱗は既に現れている」
「エルサリオンの力……」
「げぼっ、ごぼっ、わ、私たちの決断さえ、げほっ、偉大なる女神にとっては想定内ということ────げほっ、げほっ」
魔法と断定するには、あまりに強大で理不尽な力。
咽せる母の背中を摩る。
母の細くしなやかな指が、私のワンピースを掴んだ。
「リーシア、私の、可愛いリーシア、あなたが幸せなら、それで、いい、あなたが幸せでなければ、げほっ、何の意味もないの」
「母様」
「だから、もし、あなたを彼らが害するなら、殺しなさい」
私を見つめる母の目は潤んでいた。
縋るようでありながら、怯えたその視線は、どこまでも歪な愛を宿していた。婚約者たちと同じ色と濁り。
腹の奥底から込み上げる理解不能なものへの恐怖を、吐き気と共に無理やり飲み込む。
ここで私が拒んだとして、二人は怒らないだろう。それでも、ここまで身を賭した二人の考えが理解できないという理由だけで拒む事が、私にはどうしても出来なかった。
「父様、母様」
全ては、私に王としての才覚がなかったのだから。
「どうかご安心くださいませ。お二人が残してくれたアルスラ、ラグナ、カイザル、エルサリオン、この四人と共に国を統治していきます」
二人を安心させる為に微笑みを浮かべる。
この会話ですら、部屋の外にいる婚約者たちに聞かれているのだ。
「私の即位を阻む者がいれば退けましょう。我が国を脅かすものは排除しましょう。そして、永い永い時を過ごして私を誹る者たちが失態を犯すか寿命で尽きるまで待ちましょう」
父と母の手を握る。
どこまでも歪んだ愛を子に向ける親の望む言葉を吐く。
「唯一にして最期の王女リーシアの名において宣言しましょう。我がガルゼンティア王国は永遠に繁栄します」
私はその日、初めて安堵して泣き笑う両親の顔を見た。
両親との会話を終え、部屋を出た私を婚約者たちが出迎える。
宰相が震えた声で私に問いかける。
「殿下、お二人は……」
ああ、宰相は何も知らないのだ。
「父と母は、命に別状はありません。しかし、あの状態では人前に出られないでしょう。更なる暗殺を警戒し、表向きは死亡したものとして扱います。それまでの間、エルサリオンに治療をお願いできるかしら?」
「はい、はい!お任せくださいませ、我が王よ!」
朗らかな顔でエルサリオンが胸に当て、恭しく一礼をする。
宰相は沈んだ面持ちではあったが、思うところはあったらしい。すぐさま表情を切り替え、文官の礼をしながら口を開く。
「心が休まる暇もなく、仕事の話をする無礼をどうかお許しください」
「構いません、国の統治に休みがない事は知っています」
「国王陛下ならびに妃殿下の崩御となれば、次の王を擁立する必要があります。リーシア殿下、戴冠の儀をいつになさいますか?」
「喪が明け次第、すぐに」
私の返答に宰相が言葉を詰まらせる。
「戴冠の儀を行う際、婚約者との結婚式も続けて行われます。その事もご承知の上で?」
宰相が視線で婚約者たちの様子を伺う。宰相はこう言いたいのだろう。四人の中から一人を選ぶのか、と。
婚約者たちが宰相に対して露骨に殺気を向ける事はなかったが、宰相の言わんとしている事を理解しているのか私をじっと見つめてきた。
「ええ、存じ上げております。四人分の結婚式を纏めて同時に行いましょうか。宰相を筆頭に、文官たちには苦労をかけてしまうわね」
「……!」
宰相は目を見開き、固まる。
婚約者たち、エルサリオンを筆頭にカイザルやラグナ、アルスラまでも絶句していた。
「エルサリオン、ラグナ、カイザル、アルスラ、後ほどあなたたちの元にウェディングドレスのデザイナーを派遣します。私に着て欲しいドレスのデザインや要望を予めリストアップしておいてね」
後光を放ち始めている婚約者たちは、まるで人間のように恥じらいながら静かに頷いていた。




