アルスラ・フォン・エルバトラン 1
それは初めて招かれたお茶会での出来事だった。
「我が屋敷にお越しいただき感謝を申し上げます、リーシア王女殿下」
「こちらこそお招きいただきまして感謝します、エルバトラン伯爵夫人アリア様。至らぬところばかりですが、社交界の百合と謳われますアリア様を見て学ばせていただきます」
「まあ、どうか私のことはアリアとお呼びくださいませ。貴女はこの国の王女ですから、臣下に敬称をつける必要はありません」
マナーの家庭教師に連れられて出席したのは、エルバトラン伯爵家の主催する庭園薔薇の鑑賞会。招かれているのは、私と護衛たちだけだ。
伯爵夫人は、百合に喩えられるほどに美しい貴婦人。
王妃とも仲が良く、王家主催の晩餐会で何度か会話をした事がある。
さっそく呼び方について指摘されてしまった。
マナーの家庭教師は静かに微笑み、小さく頷く。年上を呼び捨てにする事に気が引けた私はこっそり首を竦めた。
挨拶も済ませ、薔薇庭園へ向かおうとした時だった。
「あら?」
先導していたアリアが立ち止まる。
玄関ホールを見下ろすように、私と同じ年ぐらいの青年が階段の上に立っていた。
金髪碧眼が特徴的な、仕立ての良い服を着ている。
身なりからして、伯爵家の令息だろう。
「まあ、アルスラ。今は政治学のお勉強をする時間では?」
「家庭教師の調子が悪いみたいで自習となりました。課題も終わってしまったので、剣の素振りをするところです」
「あら、そうなの。その前にリーシア王女殿下に挨拶をなさい」
アリアは、アルスラと呼んだ息子とよく似た碧眼を細める。
手招きで呼び寄せ、アルスラが階段を降りるなり、自己紹介をするように命じた。
「アルスラと申します。階上から御身を見下ろした無礼をお許しください、王女様」
「いえ、勉学に励んでいたのなら私が屋敷に到着した事も知ったばかりでしょう。どうか頭をあげてください、アルスラ様」
「寛大な御心遣いに感謝を申し上げます、王女様。まだ家督を継いでもいない若輩者の私の事は、どうかアルスラとお呼びください」
片膝を床に着いて頭を下げるアルスラ。
マナー講師の視線が冷たい。どうやら二度も同じ間違いをした私に腹を立てているようだ。冷や汗が流れる。
見ず知らずの他人を呼び捨てにするのは、どうにも抵抗がある。前世での部活でうっかりタメ口で話してしまった時に先輩に詰められた記憶がトラウマなのだ。
すっと立ち上がるアルスラ。
私より頭ひとつ分ほど背が高い。鍛えているのか、服の裾から覗く手は男性らしく骨張っていて、その辺の大きな石すら軽々拾ってしまえそうなほどに大きい。
「未熟なところばかりでお恥ずかしい限りです。愛想もなくて、本当にどうしてこうなったのか。リーシア殿下が王位を継ぐまでには一人前に育ててみせますわ」
「えっ……」
温和な伯爵夫人から放たれた、息子の意思や尊厳を無視した発言に思わず声が漏れる。マナー講師の睥睨と、伯爵夫人の無言の笑みが圧力を生む。
何かを言わなければ、と焦りが口を動かした。
「どうかされましたか、王女殿下?」
「アルスラさんの言葉遣いと謝罪は見事なものでございました。きっとアリアさんの教育の賜物でしょう」
アリアが目を瞬かせる。
「謙遜は美徳です。ですが、公の場でご家族であっても貶めるような発言は────」
卑怯だと言いかけて、口を閉じた。
さすがにこれは言い過ぎだ。
「……子どもは親に褒められた方が、幸せになります」
沈黙が場を支配する。
重く、息苦しい。
無言で伯爵夫人は扇を広げて、口元を隠した。
これは社交界における暗黙の意思表示。意味は『不愉快』だ。
「まあ、王女殿下はとても慈悲深くていらっしゃるわ」
絞り出したかのような台詞。心にもない事は、誰が見ても明らか。
マナー講師のため息が聞こえたのは、きっと私だけ。
家庭の事情に口を出すな、という教えを破った私に失望しているのだろう。
「そうねえ、アルスラ。貴方も薔薇庭園に同行しなさい。勉強の課題が早く終わったのでしょう? なら、マナーの勉強も終わってるわね?」
「はい」
「王女殿下のエスコートをなさい」
アルスラの肩を叩くアリア。
小さな声で「私に恥をかかせないで、死に損ない」と囁くのが聞こえてしまった。
親からの恫喝に、顔色ひとつも変えずにアルスラは微笑む。
母譲りの美しい顔で、母によく似た冷たい碧眼を細めた。
「王女殿下のエスコートを任せていただけるなんて、身に余る光栄です」
寒々しい薄ら笑いを母に向けるアルスラ。
十代の青年、私が前世で死んだのとほぼ同じ年齢の人が、悪意を受け止めて流すしかない状況。
思わず拳を握り締めてしまう。目の前で繰り広げられているのは家庭の事情というやつだろう。他人が踏み込んだところで、問題が解決するとは限らない。それどころか、事態が悪化する可能性の方が高い。
奇想天外な解決策も、華麗な代替案も、思い付かない。
私は、どこまでも無力で凡人でしかない。
思い描いていた異世界転生は、こんなにも苦くて無力なものなのかと痛感するしか私にはできなかった。