ラグナ・ブラッドファング 1
視線を、感じる。
王国の南部に群生する大森林地帯に発生した魔獣の討伐に向かう騎士に同行する為、王城の中庭で開催される早朝の決起集会に参加していた時のこと。
薄暗い空に冬の訪れを感じさせる白い呼吸を吐きながら、周囲に視線を配る。
不審な人影はない。
当たり前か。騎士団が集う決起集会、更にはカイザルの情報網とエルサリオンの魔法を使った監視システムを潜り抜けられる不審者はいない。なら、先ほどから顔を中心に這い回る視線は……。
「何かお困りですか?」
エルサリオンだった。
人前での彼はあまり笑わない。モテると困るからという、いやに現実的な理由だと知ったのはつい最近だ。
「いいえ、何でもないわ。咲いてあげるなら、どうしてシシリー様がここにいるのかしらという疑問ぐらいね」
エルサリオンに次いで、熱い視線を向けてくる人物がいる。
レンバリー侯爵家令嬢シシリーだ。
視察での窮地を救ったことになっている私に物凄く感謝しているらしく、長文の手紙だけでなくお茶会で会う度に両手を握られて額に押し当てる最敬礼をされる。
エルサリオンへの執着を知る周囲からは、『王家が直接的に介入してエルサリオンを奪った』と噂されているらしい。カイザルだけでなく、アルスラもそう語っていたのだから信憑性は高いだろう。
本人は『恋に恋していただけで、エルサリオンの好物など一つも知らない』とあっけからんに白状するものだから私は困惑するしかなかった。それどころか、婚約前とは恋慕して申し訳ないと謝罪されたぐらいだ。
「排除しますか?」
「友である私への激励のためお越しいただいたのでしょう。追い返すのは忍びないわ」
「かしこまりました。挨拶に伺いますか?」
「ええ」
スッとエルサリオンが主張を撤回した。
どうやら彼の中でシシリーの存在感は消え失せたらしく、二度目の悲惨な事故に彼女が巻き込まれる未来を回避出来た事にほっと胸を撫で下ろした。
「ごきげんよう、シシリー様。こんな朝早くに駆けつけていただけたなんて光栄だわ」
私が声をかけると、優雅なカーテシーをしていたシシリー嬢は顔をバッと上げた。
「殿下が魔獣の封印をなさるとお聞きしまして、微力ながら馳せ参じましたわ!騎士団への出資も、我らレンバリー侯爵が殿下のご活躍と無事を祈っての事。我らは常に、殿下の忠実な家臣である事を証明できます!」
シシリー嬢、悪い人ではないのだけど。
思い込むと強いというか、良かれと思って実行した事が裏目に出やすい運勢の人なのよね。今の発言も、本当に私を思っての発言と、王家への忠誠心を証明する絶好のチャンスだと鼻息荒くふんふんと張り切っている。ただ、シシリー嬢に起こった悲劇と私の活躍、それからエルサリオンとの婚約を線で結ぶ噂好きの人からすればいくらでも裏をかける発言な訳で。
ひそひそと囁き始める騎士団の青年たちの視線が、痛いわ。
それからシシリー嬢の取り巻きである令嬢たちと軽い挨拶を交わした。社交辞令と安全を祈る祝詞に感謝の言葉を述べ、退出するシシリー令嬢御一行を見送る。
「殿下、長らくお待たせしました」
呼ばれて振り返る。
ラグナ・ブラッドファングが、騎士の装いで立っていた。
一振りのロングソードを腰に差し、爽やかな笑顔を浮かべている。
「いえ、今し方シシリー様と挨拶をしたところです。それほど待っていませんよ」
ラグナは敬礼をし、背筋を伸ばす。
ありふれた栗色の頭髪から覗く狼の耳がぴんと立った。
「不肖、ラグナ。誠心誠意、殿下の護衛を務めさせていただきます。婚約者として!」
空にまで響く、凛々しい声。
エルサリオンの目元が引き攣り、私の影が何故か震え、遠くにいるアルスラが聞こえているかのようにこちらに視線を向けた。
「はは、ラグナ殿。そこまで気を負う必要はないぞ。貴殿は騎士として若輩、魔の力を持つ魔物や魔獣に関する知識も乏しい。ここは年長者であるこのエルサリオンに華を持たせてはくれないか?」
社交辞令とするにはあまりに無礼な単語を散りばめたエルサリオンの発言にギョッとする。
その失礼な発言に、ラグナは満面の笑みを浮かべた。
「嫌です!」
清々しいほどの拒絶。
もしかして、この二人って相性が悪いのか?
まずいな、早く引き剥がさないと。
先日の騒動の二の舞になってしまう。
「エルサリオン、無礼な発言を撤回しなさい」
「殿下のお望みのままに。先ほどの発言は撤回しよう」
怒られたエルサリオンは素早く撤回した。謝罪はする気配がない。
私以外にはこんな振る舞いをするのか。社交性が無さすぎる。胃が痛くなってきた。魔獣討伐、成功するだろうか。
「ラグナ、こうして婚約者として顔を合わせるのは初めてでしたね。どうか気を悪くなさらないで、彼もあなたと同じように緊張しているの」
エルサリオンの発言は緊張してるで済む振る舞いか?
いやしかし、角の立たない表現が他に思い浮かばなかった。
困り果てた私に助け舟を出したのは、アルスラだった。
「おはようございます、ラグナさん!おや、殿下もいらっしゃったんですね!」
「おお、アルスラくん!今し方、殿下に挨拶をしたところだ。婚約者として!」
正装ではなく、動きやすい旅装に身を包んだアルスラが大股で近づいてきた。角度的に私に気づいていたとは思うが、取り繕うように微笑む彼の表情から漂う決死の気迫に押され、何も言わない事にした。
どうやらラグナとアルスラは既知の仲であったらしい。
公爵家令息と辺境伯の子息。社交界で何かしらの交友があったのだろう。
「無礼者どもが、殿下の御前であるぞ……」
ぬらりと影から現れるカイザル。人の影に断りなく潜み、予兆なく姿を現すのは心臓に悪いからやめてほしいなあ。
周囲の騎士たちが身構えるほどの殺気を放っているが、その他の婚約者たちは涼しい顔で流していた。まるで、今回が初めてではないかのように。
気まずい沈黙が流れる。
四人の間に飛び交う火花はきっと、私が神経過敏になって見えている幻覚だ。そう思い込む事にした。そう思わないと、この魔獣討伐が成功する兆しが霞んでしまうからだ。
魔法のエキスパート、エルサリオン。
あらゆる情報網を持ち、王家の影として敵を排除したカイザル。
侯爵令息として指揮の技術や知識も学んだアルスラ。
卓越した戦闘技術と魔物・魔獣討伐の実績を持つラグナ。
布陣だけを見れば完璧なのだ。布陣だけを、見れば……!
前日の夜、両親に呼び出された時に言われた事を思い出す。
『王として国の頂点に立つならば、利害の噛み合わない者を束ねて一つの纏まりとする精神掌握術と立ち振る舞いが必ず必要になる。この魔獣討伐は、リーシアの即位を確実なものとする為に成功させなければいけない』
少し痩せた両親の苦労を軽減する為に、この魔獣討伐を必ず成功させないといけない。
……そもそもの発端は私の弱さを知ったエルサリオンの暴走だったとしても、最善を尽くすのが私の為すべき事だ。その為なら、何だってする所存!
火花を散らす婚約者たちに視線を戻す。
私が何とかできる問題なのだろうか。
凄まじい不安に襲われながらも、決起集会が始まった。
◇◆◇◆
薄い鉛色の空の下。夜明けの光が王城を照らし出す頃、広大な中庭には騎士たちが整列していた。
吐き出された白い息が幾筋も重なり、朝の冷気の中でかすかな煙のように漂っている。鎧の軋む音、旗のはためき、そして数百の足並みが揃った気配が、この場の緊張をいやが上にも高めていた。
私は絢爛な王女の礼服に身を包み、父と母に挟まれる形で壇上に立つ。
王国の未来を左右する魔獣討伐の出陣式である決起集会。
王が深く息を吐き、ゆっくりと一歩前に出た。
「諸君」
低く、しかしよく通る声が広場に響き渡る。
ざわついていた空気が一瞬にして静まり返った。
「我らが領土を脅かす魔獣の存在は、王国千年の繁栄を根幹から揺るがすものだ。だが恐れることはない。王国には勇猛なる騎士がいる。魔法の叡智がある。そして封印の力に目覚めた我が娘リーシアがいる」
その一言で、視線が一斉に私に注がれた。
背筋を伸ばしているつもりでも、胃の奥がきゅうと縮む。冷え込みのせいではない。
「リーシアは王家の血を引く者として、国民に安寧を示す役目を担う。彼女が先頭に立ち、諸君と共に魔獣を封じることは、王国の未来を約束するものとなるだろう」
厳粛な声が広場に響き渡る。
父は口調を強め、剣を掲げるような仕草で結んだ。
「この戦いは、王国の未来であり、我らの誇りである。諸君、我が娘を、王家を、この国を守るため剣を捧げよ!」
「おおおおおお!」
鬨の声が響いた。
整然と並んでいた騎士たちが一斉に剣を掲げ、陽光を受けて銀の光がきらめく。
それは美しくもあり、同時に重苦しかった。
騎士団長が進み出て、私の前で片膝をついた。
「我ら王国騎士団、ここに誓う! 殿下の御身を守り抜き、必ずや魔獣を討ち果たす!」
力強い声に続いて、全騎士が一斉に剣を掲げる。
地鳴りのような歓声と誓いの言葉が、大地を揺らしたかのように感じられた。
私は頷き、両手を胸の前に重ねる。
「皆の忠誠に、心から感謝します。必ず共に生きて帰りましょう」
震えを隠すように微笑んだ時、私の背後から一歩踏み出す音がした。
エルサリオンだ。
魔法省の戦闘服である紫のローブをまとった彼は、無表情のまま静かに宣言した。
「殿下のお傍は誰にも譲らない。俺の魔法は殿下の盾であり、刃だ」
抑揚の少ない声なのに、確固たる意思が滲む。
周囲の騎士が思わずざわめき、父母すらも眉をひそめるほどの強烈な宣言。
その直後、ラグナが一歩前に出た。
狼の耳をぴんと立て、朗々とした声を張り上げる。
「殿下の護衛は、このラグナ・ブラッドファングが務める! 騎士として、そして婚約者として、誠心誠意お守りします!」
空を震わせるほどの大声。
彼の真っ直ぐな眼差しに、幾人もの若い騎士が感嘆の吐息を漏らした。
────ああ、やめて。
火花が散るのが、はっきり見える。
さらにアルスラが一歩進み出た。
礼儀正しい笑みを浮かべ、私に深く一礼する。
「殿下。公爵家の子息として、また幼き頃から共に学び歩んだ友として……私は誰よりも殿下に相応しいと自負しております。この身、この心のすべてを捧げましょう」
その言葉は表向き誠実だ。だが含まれる響きは、「殿下には自分が一番だ」と宣言しているに等しい。
そして最後に、カイザル。
彼は音もなく影から現れ、私の足元に跪いた。
言葉はなく、ただ沈黙のまま。だが赤い瞳が鋭く周囲を射抜く。言葉はなくとも何を意味しているのか、肌に突き刺さるほどに伝わってくる。
四人の婚約者が、国の有事に向けて開催された決起集会にて、それぞれが忠誠と独占欲を誇示したのだ。
空気が凍りつく。
王国の騎士たちは誓いを立てたばかりだというのに、婚約者同士の火花に息を呑み、誰も声を発せない。
私は笑顔を崩さぬように必死だった。
胃の奥がねじ切れるほど痛い。やはり火花は幻覚でもなんでもなかったようだ。
布陣だけを見れば本当に完璧なのだ。魔法の叡智を持つエルサリオン、情報と暗殺の影カイザル、指揮と才覚のアルスラ、戦闘力に優れるラグナ。誰もが一騎当千、誰もが婚約者。
……なのに、どうしてこんなに不安になるのだろう。
「その心意気や良し!リーシアを守り、魔獣を討ち取れ!」
王が場を収めるように声を上げた。
「出陣せよ!」
その号令と共に、剣が再び掲げられる。
数百の剣先が朝日にきらめき、旗が一斉に風を孕む。
騎士たちの鬨の声が嵐のように轟いた。
その光景を見つめながら、私は深く息を吸う。
もう逃げられない。
王女としてではない。未来の王として、私はこの戦いを成功させなければならない。
四人の婚約者の火花を前に、震える心を押し殺し、ただ前を向いた。